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(No78) 正倉院学術シンポジウム2006 その5 「聖武天皇 〜その出家への道」 聴講記 その2

 2006年10月29日(日)に開催された正倉院学術シンポジウム2006は、春日大社「感謝・共生の館」にて午前9時より、梶谷亮治奈良国立博物館学芸課長の司会進行により、湯山賢一奈良国立博物館長及び葉室頼昭春日大社宮司の挨拶を経て開会された。

 4番目の講演は、華厳宗管長・東大寺別当:森本公誠氏による「聖武天皇 〜その出家への道」であるが、その聴講記の続き。

 引き続きレジュメの内容は白枠内に示す。


 

 III 経史から釈教へ

1.天武・持統・文武天皇による『金光明経』重視

2.神亀2年(725)7月、詔「諸寺・・・仍て僧尼をして金光明経を読ましめよ。若しこの経無くは、便ち最勝王経を転して、国家をして平安ならしめよ」。
神亀5年(728)12月、金光明【最勝王】経64帙640巻を諸国に頒つ。〜」

3.天平6年(734)勅願一切経跋語「〜(朕が)身を全くして命を延べ、民を安んじ、(生)業を存するは、経史の中、釈教最上なり。〜」(『東大寺要録』7−8ほか)

4.天平9年(737)8月、詔「〜天下の百姓死亡ぬること実に多く〜良に朕が不徳に由りて〜」(『続日本紀』2−325)

5.天平9年(737)10月、「金光明最勝王経を大極殿に講す。〜律師道慈を講師〜」(『続日本紀』2−331〜333)

6.天平13年(741)2月、国分二寺建立の詔(本文は天平10年以後12年以前に発布)
本文
(1)「〜ここ天平7・8年(735・736)は穀物が大変な不作で、しかも天然痘が天平7年、さらには9年(737)と大流行し〜多くの国民が亡くなった。自分としてはただ政治の至りなさに恥じ入り〜みずからの罪を感じるばかりである。
 そこで、広く人民のために大いなる幸福を求めようと思い、天平9年には〜寺院には丈六釈迦仏と両脇士からなる三尊像を造らせ、併せて大般若経600巻を写させた。そのお蔭であろうか、今年(天平12年)は〜風雨は順調、五穀は豊穣であった。
(2)「『最勝王経』を参照すると、「国王がこの経典を〜流布するよう努めれば、我ら四天王が常に来臨して擁護し、すべての災難を雲散霧消せしめるであろう〜」とあるから、天下諸国に七重塔を造らせ、金光明最勝王経・妙法蓮華経を写さしめるように。〜」
(3)「塔及び寺は、国の華であるから、立地条件のよいところを選んで、永久的に存続させるようにせよ。〜」
条例
(1) 毎国(くにごと)の僧寺に封50戸、水田10町施せ。尼寺には水田10町。
(2) 僧寺には20僧を。寺名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は10尼を。その名は法華滅罪之寺。
(3) 毎月の六斎日には公私とも漁猟殺生禁断。国司等、検閲・監督(以上『続日本紀』2−387〜391)


 天武天皇の時代は、経典は金光明経を重視していました。
 本来は「きんこうみんきょう」と読むべきでしょうが、呉音により「こんこうみょうきょう」と読みます。

 聖武天皇もそれを継承していましたが、特に最勝王経を重視しました。最勝王経とは釈迦が支配者、すなわち国王のために書いたお経といわれています。

 巻末には「経史の中、釈教最上なり」とあります。ここで仏教の経典が最高であるとしているのです。

 
  (※ 石野注)
 レジュメ6には「天平9年に天然痘で多くの国民が亡くなった」とあるが、『仏像は語る』(著:宮元健次。光文社新書)によると、737年には光明皇后の四兄弟が病で次々に亡くなったとある。



 


 IV 『華厳経』思想の実現へ 

1.天平3年(731)9月8日写了、宸翰『雑集』廬舎那仏像讃一首并序→華厳経「入法界品」
(1) 夫れ法身は色(しき)に非ざるも、物の為に形(あらわ)れ〜
(2) 蓮(華)蔵世界の舎那如来〜

2.同年11月16日「〜京中に巡幸(みゆき)したまふ。道すがら獄(ひとや)の辺を経るに、囚等(とらへひとども)の悲吟(かなし)び叫呼(さけ)ぶ声を聞きたまふ。天皇憐愍(あはれ)びて〜咸く死罪已下を免(ゆる)し〜」(『続紀』2−251)→「入法界品」に酷似の逸話。

3.天平10年(738)正月、信濃国神馬(大瑞)を献上。〜阿部内親王を皇太子に。天下に大赦(『続日本紀』2−337)。
 この頃、東大寺の全身、基親王菩提所の「山房」を「金鍾山房」と命名←旧訳華厳経「十地品」より。

4.天平12年(740)2月、河内知識寺廬舎那仏礼拝「朕も造り奉らむ」(『続日本紀』3−97)

5.天平12年10月、金鍾寺にて旧訳華厳経講説開始(『東大寺要録』156)

6.天平14年(742)、道慈、大安寺にて新訳華厳経に基づく「華厳七処九会図」作成。

 聖武天皇は、河内の国で、庶民の力で造られた仏像を礼拝して深い感銘を受けたようです。こうした方法も取るべきだと考えたようです。

 
(※ 石野注)
 レジュメ1の『雑集』について前掲『仏教発見!』P33(著:西山厚。講談社現代新書)には「正倉院には聖武天皇の筆跡が伝えられている。『雑集』である。中国の詩文を集めたもので、それを31歳の聖武天皇が書き写している」とある。

 レジュメ4に関して、前掲『仏教発見!』P35には「どうすれば人々は苦しみから逃れられるのか。〜たどり着いたのが大仏造立(ぞうりゅう)だった。
 直接の契機は天平12年(740)2月のできごとである。河内国(大阪府)の知識寺で廬舎那仏を拝した聖武天皇は、これだと思った。知識(ちしき)とは仏教信者のこと。仏教のために何かをやろうとしている人たちのこと。そういう知識が力を合わせて造った寺が知識寺で、その本尊が廬舎那仏だった。大仏と同じ華厳経の教主である廬舎那仏を、みんなの力で生み出していた」とある。

 一方、前掲『仏像は語る』P97には「史料には、建造にかかわった数、260万3538人と記され、当時の人口の2人に1人が、この建造にかり出されたことになる。
 大仏建造の時期、都では地震、旱魃、疫病が相次いだ。餓死者が続出する地獄さながらの状況の中での建造であった。
 聖武天皇は728年に我が子・基皇子を一歳になる前に亡くしている。大仏建造を思い立った3年前の737年には、後ろ盾であった藤原四兄弟を亡くし、大仏発願の翌年の744年には共に難波に行った息子・安積親王を変死によって亡くした。都を転々とさせて、まさに動揺の中にあったといってよい。つまり、聖武天皇の大仏建造というのも、自分の平安を祈っての事業であった感が深い。
 『朕も造りまつらむ』。この一言によって、天変地異の地獄絵の中で、民衆は大仏建造の重労働にかり出されたのである」とある。

 
 IV 『華厳経』思想の実現へ(続き)

7.天平15年(743)10月、廬舎那大仏造立発願の詔
(1)「自分は〜生きとし生けるものすべての救済を心がけ、慈しみの情をもって人民を治めてきた〜けれども、仏法の恩徳については国土すべてにゆきわたっているとは言えない」。
(2)「そこで、仏法の威霊の力によって〜動物であれ植物であれ悉く栄えるようにと望む」。
(3)「ついては、天平15年10月15日を期して、菩薩としての大いなる誓願を立てる。すなわち、金銅ル舎那大仏造像の大事業を行い〜その趣旨に賛同する者をして我が友(智識)となし〜」
(4)「そもそも天下の富と勢いを所持しているのは朕である。その富勢をもって尊像を造ろうとすれば、形はたやすくできるであろう。しかし、それでは造像の真意が成就されたとは言い難い」。
(5)「〜恐れるのは、徒に人民に労苦を課しただけで、その聖なる心をわからせることができ」ないことである。
(6)「〜我が友として大仏造像事業に参加する者は〜日に三回、心中の廬舎那仏を拝むとよい。〜」
(7)「もし一枝の草、一把の土という、たとえわずかな力であっても、すすんで造像事業に参加しようとする者があれば許すように」。
(8)「〜役人たちは、この事業を理由に人民の財産を侵害したり租税を収奪したりしてはならない」。
(9)「遠き国にも近き国にも〜朕の意図を伝え知らせるように」(『続日本紀』2−431〜33)

8.天平16年(744)11月、甲賀寺に初めて廬舎那仏像の体骨柱。天皇自ら縄を引く。


 大仏造立の詔でも、庶民が協力を申し出た場合は、どんなわずかな志でも拒むな、としています。

 
(※ 石野注)
 レジュメ7に関して、前掲書P35には「天平15年(743)10月15日に出された『大仏造立の詔』を読むことにしよう。〜自分は徳もないのに天皇になった。一生懸命やってはいるが十分ではない。仏教の力でなんとか天地をゆたかにしたいと思う。〜『万代(ばんだい)の福業を脩めて、動植ことごとく栄えむとす』。〜人間だけではなく、そのほかの動物も植物も、みんなが栄える世にしたい。だから大仏造立を決意したのだと聖武天皇は言う。驚くべき発言である。〜詔は続く。
『それ、天(あめ)の下の富を有(たも)つは朕(われ)なり。天の下の勢を有つは朕なり。この富と勢とをもちて、この尊き像を造らむ』。〜大事なのはその次の文章である。
『事成り易く、心至り難し』。富と権力で造るなら簡単だが、それでは『心至り難し』、つまり富と権力で造るのはだめだと言っている。〜詔はさらに続く。『人有て、一枝の草、一把(にぎり)の土を持ちて、像を助け造らむと情(こころ)に願はば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ』」とある。

 また、特別展『重源』図録には「勧進状には『雖尺布寸鉄、雖一木半銭』の文言がみえる。たとえ尺布(一尺の布)・寸鉄(一寸の鉄)・一木・半銭であっても寄付を募っていく。わずかな寄付を限りなく集積することは、限りない人々の思いを大仏に結集させていくことであり、聖武天皇による大仏造立の精神に立ち返ることを意味していた。
〜天平15年(743)10月に出された大仏造立の詔には『知識に預る者は懇(ねんごろ)に至れる誠を発(おこ)し』『一枝の草・一把の土を持ちて像を助け造らむと情(こころ)に願はば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ』(『続日本紀』)などとあり、知識によって造る、たとえわずかなものであっても造りたいという思いを伴うものを広く集めて造る、という聖武天皇の考えを確認できる」とある。

 
 IV 『華厳経』思想の実現へ(続き)

9.天平17年(745)4月〜5月、山火事・地震頻発。京師諸寺最勝王経転読。
同年8月23日廬舎那大仏造像事始。
同年9月17日、勅「〜以為(おもむみ)るに、治道失有りて、民多く罪に罹(かか)るにあらむ。天下に大赦すべし」(『続日本紀』3−15)〜

10.天平18年(746)3月、(前年10月発見の)白亀瑞祥に勅。10月、金鍾寺にて廬舎那仏燃灯供養。

11.天平19年(747)11月、国分寺造営督促詔「・・・而るに諸国の司等(つかさども)怠緩して行わず。〜朕が股肱、豈此の如くあるべけむや。〜」(『続日本紀』3−49)

12.天平21年(749)2月、匿名の当初多く、官人・大学生に禁止の詔。翌日、陸奥国より黄金産出の知らせと見本届く。
4月1日、天皇、東大寺に行幸、廬舎那仏に北面。勅「三宝の奴と仕え奉る天皇が奏すに、・・・」「〜朕一人でこの貴い大きな瑞を受けられようか。〜年号も天平感宝と改める〜」(『続日本紀』3−65〜79)

 この頃、地震など災害が続いたようです。「国家騒然たり」という記述もあります。

 また、天変地異などは上に立つ者の徳のなさに起因すると考えていますので、「治道失有りて」と、自分のミスを認める発言をしています。

 「三宝の奴」という表現については、天皇ともあろうものが「奴」とは何事だ、この表現は気に入らないとして、『続日本紀』を読む時もあえてこの部分は読み飛ばすと発言している者がいます。

 
(※ 石野注)
 この、読み飛ばすといった人物が誰か、確か講演ではおっしゃったと思うのだが、記録できていない。ノートには「回向 左大臣橘諸兄」とあるのだが、関連がわからない。 


 IV 『華厳経』思想の実現へ(続き)

13.天平感宝元年(749)閏5月20日、華厳経為本の詔(出家・譲位の意思)
(1) 詔したまひて、大安・薬師・元興・興福・東大の五寺に各絁五百疋〜を捨(ほどこ)したまふ。法隆寺に〜
(2) 〜太上天皇沙弥勝満〜仏道を成せむことを〜(『続紀』3−83)
 沙弥とは十戒(在家も受ける八斎戒に一戒を加えたもの)を受ける。具足戒を受ける正式の僧とは異なる。

14.天平勝宝元年(749)7月2日、孝謙天皇即位(『続日本紀』に即位前紀なし。政治の実権は藤原仲麻呂の主宰する紫微中台に移るか)。

15.同年12月27日、宇佐八幡大神禰宜尼、東大寺礼仏。



 レジュメ13の「太上天皇沙弥勝満」という表現に着目してください。「太上天皇」というと皇位を譲った後のようですが、孝謙天皇の即位は7月2日であるから、5月2日の段階ではまだ皇位についていることになります。
 また「沙弥」というのは、いわば準出家というような存在です。

  (※ 石野注)
 太上天皇の称号と譲位した日との矛盾は理解できるのだが、それを誰が指摘したのか?ノートには何か吉備真備とか『礼記』の講演と関連があるように書き留められていたのだが、さっぱり記憶がない。

 前掲『天平の甍』の注には「沙弥」(しゃみ)を「出家して十戒を守っているが、まだ具足戒を受けるに至らない男子」とある。


 IV 『華厳経』思想の実現へ(続き)

16.同年、大安寺華厳院にて毘廬舎那仏・千手観音・不空羂索観音の巨大三画像完成。

17.天平勝宝4年(752)4月9日、廬舎那大仏開眼供養。聖武光明孝謙行幸。
 五位已上は礼服(聖武太上天皇は冕冠に帛衣・赤沓)。
 華厳経(新訳)講説。
 開眼師は菩提僊那(ぼだいせんな)、講師は隆尊律師、読師は延福法師、願師は大安寺道璿(どうせん)律師。

18.天平勝宝6年(754)4月5日、聖武・光明・孝謙、廬舎那仏前壇上にて鑑真和上より菩薩戒を受ける。同じく沙弥440人も受戒(菩薩戒は大乗戒、三聚浄戒とも。精神性重視)


 大安寺の道慈というのは聖武天皇と関係が深い人物で、『日本書紀』の編纂にも携わっています。

 毘盧遮那仏の画像は6mもあったと伝えられています。

 レジュメ17の大仏開眼時の聖武天皇は頭に冕冠(べんかん)をかぶり、服装は帛衣。つまり赤い龍文の服ではなく、白い服装であったとわかります。
 また、赤い沓(くつ)を履いていました。
(※ 石野注)
 前掲『仏教発見!』P30には「平成14年(2002)は東大寺の大仏が開眼(かいげん)されて1250年の記念の年に当たっていた。開眼とは仏像に魂を入れることで、実際には筆で眼を描く。開眼することで、単なる作り物であった仏像は『ほとけ』に変わる。
 東大寺の大仏は、天平勝宝4年(752)4月9日に開眼された。聖武天皇や光明皇后の臨席のもと、1万人の僧侶が集まり、インドからの渡来僧である菩提僊那(ぼだいせんな)が、56.6センチもある大きな筆をとって開眼の儀式をおこなった。筆には長い青い紐が結びつけられており、聖武天皇や光明皇后をはじめ、参列した人々はこの紐を手にして、開眼に結縁(けちえん)した。開眼に使用した筆と紐、聖武天皇と光明皇后がかぶっていた冠、聖武天皇が履いていたあかね色のくつ、式場の床に敷かれていた敷物、それらは正倉院に現存していて、当日の盛儀をしのぶことができる」とある。

 また、『天平の甍』(著:井上靖。新潮文庫)P7には、大安寺の僧普照、興福寺の僧栄叡(ようえい)に留学僧として渡唐を勧める人物として元興寺の僧隆尊の名が出ている。
 また、同P48には第九次遣唐使が帰国の途に就く際、副使中臣名代(なかとみのなしろ)の第二船に道璿や婆羅門僧菩提僊那が乗船したとある。

 レジュメ18の菩薩戒は、僧侶が正式に受ける具足戒とはまた異なり、精神的要素の強いものです。 
(※ 石野注)
 前掲『天平の甍』の注に各種の授戒のことが解説されていた。

具足戒(ぐそくかい) 比丘・比丘尼の具(そな)えなければならない戒律。この戒を持すれば、徳はおのずから具足する、という。具足衆戒、略して具戒ともいう。比丘に二百五十戒、比丘尼に五百戒ある。

三聚浄戒(さんじゅじょうかい) 大乗の菩薩のたもつべき戒法のこと。第一に摂律儀戒(せつりつぎかい。一切の悪を離れて心を放逸せぬ戒)、第二に摂善法戒(諸善を積み万行を修する戒)、第三に摂衆生戒(せつしゅじょうかい。饒益有情戒=にょうやくうじょうかいともいい、大慈大悲を発して一切衆生を利益する戒)の三種をいう。三聚戒ともいう。

菩薩戒(ぼさつかい) 菩薩とは諸仏の覚智を得ようと修行する人。菩薩戒はその菩薩が守らなければならない戒律で、不殺(ふせつ)・不盗・不淫・不妄語・不酤酒(ふこしゅ)・不説過・不自讃毀他・不慳(ふけん)・不瞋(ふしん)・不謗三宝(ふぼうさんぽう)の十戒。
 

 

 



 何せほとんどメモが取れてないので、せっかくの講義も内容がほとんど伝えられなくて申し訳ない。


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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