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(No74) 正倉院学術シンポジウム2006 その1 「正倉院宝物の成立」 聴講記
2006年10月29日(日)に開催された正倉院学術シンポジウム2006は、春日大社「感謝・共生の館」にて午前9時より、梶谷亮治奈良国立博物館学芸課長の司会進行により、湯山賢一奈良国立博物館長及び葉室頼昭春日大社宮司の挨拶を経て開会された。
まず最初の講演は、神戸女子大学教授・元宮内庁正倉院事務所長 米田雄介氏による「正倉院宝物の成立」である。
教授提供のレジュメの内容については下記白枠内で示す。
はじめに
第一章 宝物献納の時期
正倉院宝物は一度に成立したのではなく、何段階かに分かれて成立している。
また、収蔵品についても皇室からの献上品をはじめ、皇室にゆかりの人達からの献納品、さらには東大寺において行なわれた儀式用品、またさらには東大寺が独自に蒐集し収蔵していた品物などと様々である。
ここでは従来の説を整理し、正倉院宝物の成立過程を跡づけてみたい。 |
1.献物帳による奉納
光明皇后は五度にわたり東大寺大仏に宝物を献上。
その際、献納の趣旨と献納品の目録を記した『東大寺献物帳』が5通、今も宝庫に伝わっている。
(1) 天平勝宝八歳(756)6月21日 通称「国家珍宝帳」
(2) 同年同日 通称「種々薬帳」
(3) 同年7月26日 通称「屏風花氈等帳」
(4) 天平宝宇二年(758)6月1日 通称「大小王真跡帳」
(5)同年10月1日「藤原公真跡屏風帳」
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(1)の「国家珍宝帳」は今回の「正倉院展」で展示しています。
天平勝宝八歳(756)の聖武天皇七七忌(四十九日)に、光明皇后が天皇遺愛の品々及び皇后に縁のあるものを東大寺大仏に献上したのですが、この宝物に添えて献上の趣旨と目録を書いたもので、正倉院宝物の根幹をなすものです。
(4)は、王羲之、王献之の書のことです。
(5)の藤原公とは父藤原不比等のことです。正倉院御物を聖武天皇ゆかりの品々だけと限定して考えるのは誤りです。
2.東大寺において行われた儀式用品
東大寺の大仏開眼会をはじめ、聖武天皇の崩御以降の一連の行事が東大寺で行われた。
(1) 天平勝宝四年(752)4月9日 大仏開眼会(だいぶつかいげんえ)
(2) 同五年(753)3月29日 東大寺仁王会(にんのうえ)
(3) 同六年(754)5月3日 大弁財天女壇法
(4) 同七歳(755)7月19日 太皇太后藤原宮子一周忌
(5) 同八歳(756)5月2日 聖武天皇崩御
(6) 同年5月19日 聖武天皇葬送
(7) 同九歳(757)5月2日 聖武天皇一周忌
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特に(1)に注目すべきです。
(4)にいう「宮子」は聖武天皇の母親です。
上記(1)〜(7)はいずれも平城京の中でつくられたもの。いわば国産品宝物の台帳といってよいでしょう。 宝物の中に銘文があります。
3.皇室の献上品
皇室から折に触れて東大寺に献納されたもの
(1) 称徳天皇が東大寺に行幸の時に用いられた調度品
ア 天平神護三年(767)2月4日(南13、150〜53)
イ 神護景雲二年(768)4月3日(中177、南147、150〜5)
(2) 宮中における年中行事関係品を東大寺仁献納
ア 天平宝宇二年正月3日(子の日)手唐鋤関係品(南79〜81)
イ 同年同日 目利箒関係品(南75〜78)
ウ 同年正月6日(卯の日)卯杖関係品(南180)
エ 天平神護元年7月15日盂蘭盆会関係品(南150)
オ 正月七日関係品 人勝残欠雑帳(北156)
カ 2月2日関係品 (紅)牙撥鏤尺(こうげばちるしゃく。北13、14)
キ 7月7日関係品 針(南84) |
4.天皇・皇后及びその側近者の献上品
天皇・皇后の側近に仕えていた人達の献上品が伝えられているが、献上の品が不明ではあるものの献物牌(けんもつはい)の存在によって、宝物の献上が行なわれたことが確認できる。
(中68)
献物牌「藤原朝臣袁比」 (裏)「良売献舎那仏」
献物牌「尼信勝」、「尼善光」、「橘夫人」、「藤原朝臣百能」
(中108)
献物牌「従三位 藤原朝臣 吉日」、「橘少夫人」
(中121)
献物牌「藤原朝臣久米」 (裏)「刀自売献舎那仏」
(中131−7)
犀角把白銀葛形鞘珠玉荘刀子 (木牌)「橘夫人奉物」
(南55−5)
琥珀誦珠 (木牌)「橘夫人奉」
(南178−2)
紙箋「気多十千代献」
(中83)
赤漆欟木厨子 (蓋表貼紙)「不知献者 銀合子一合 銀鋺一口 居黒柿薹 八曲坏二口 十曲坏二口 銀盤一口 居黒柿櫃 天平勝宝四年四月九日」
(中79)
漆小櫃 付木札
(付属木札)表:「馬脳坏二口 水精玉五枚 納 白琉璃高坏一口 雑香六嚢 錬金十一枚」
裏:「天平勝宝四年四月九日 第一櫃」
[ 参考 ]
(中92)
漆小櫃(表)「緑琉璃十二曲長坏、碧瑠璃坏ガラス・玉器」
(裏)「天平勝宝四年四月九日 第二櫃」
(北157)
(表)「納礼服二具 一具大上天皇 一具皇大后 第三櫃」
(裏)「天平勝宝四年四月九日 第三櫃」
(南66)
赤漆履箱の身貼紙「第五櫃」
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天皇・皇后・側近らの献上品については、一番注目したいと考えています。
献物牌(けんもつはい)とは、宝物に添付された献納者を示す木札のことです。
中131−7は開眼会関連の品かと思われます。これに付いている献物牌は、中68のそれとサイズは多少違うのですが、材質はツゲでほとんど同じものだと解されます。おそらく同時期に作られたものでしょう。
中83は、時期が特定できます。
中79はいわゆるメノウ杯です。これも天平四年ですから開眼会に関連するものでしょう。
北157の「大上」天皇とは太上天皇のことでしょう。
南66は聖武天皇が開眼会の時履いていた赤い「履(くつ)」が入っていたものと思われます。
また天平四年四月九日付けで第一櫃、第二櫃、第三櫃、第五櫃とありますので、少なくとも第四櫃はどこかにあったものと思われます。
5.東大寺の什宝類 延喜二十年(920)12月14日、東大寺の各子院に伝来の仏具・什器類を東大寺羂索院の双倉に移管。
天暦四年(950)6月、羂索院の双倉の破損により、什器類を正蔵院南端の蔵に移納。
(中151) 碧地金銀絵箱 「千手堂」
(中177−10) 粉地彩絵几に「千手堂」
(南150−36) 几褥残欠壱張に「千手堂」とある。
(中152) 蘇芳地金銀絵箱「東小塔」
(中177−6) 粉地金銀絵八角長几に「東小塔」
(中177−7) 粉地金銀花形几に「東小塔」
(中177−19) 金銀絵八角長几に「東小塔」
(南23) 金銅六角盤に「東小塔」とある。
(中154) 黄楊木金銀絵箱 及び、(中177−9) 粉地彩絵几に「東塔」とある。
(中159) 白檀八角箱 及び、(中177−5) 粉地金銀絵八角几に「吉祥堂」とある。
(中177−1) 黄楊木几并褥に「大仏殿」とある。
(中177−4) 黒柿蘇芳染金銀長花形几「戒壇」、(南36) 刻彫梧桐金銀絵花形合子 甲・乙にそれぞれ「戒壇」、「戒檀院」とある。
(北181−2) 檜和琴残欠(裏板)「羂索堂」、(南187−4)桐和琴残欠「羂索堂」とある。
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双倉は「ならびくら」と読みます。東大寺各所に分散していた仏具・什器類をいったん羂索院の双倉に移管したが、双倉が破損したので正蔵院の南端の蔵に移納したという記録が残っています。
奈良時代につくられたものが東大寺には納められていたと考えられます。
(※ 石野注)
「正蔵院の南端の蔵」というのが正倉院南倉のことなのであろうか?
第二章 宝物成立の意味
一.宝物成立に関する先行の諸説
そもそも光明皇后は、何のためにこうした宝物を献納したのでしょうか。これには、これまで五つほどの説がありました。
一つ目は、聖武天皇遺愛の品を献納するということは、実質的に墓室におさめるのと同じことなのだとする説です。
二つ目は、国家に献納することで、こうした品が永久保存されることを期待したのだとする説です。
三つ目は、工芸的、美術的価値が高いものを選んで献納したとする説です。
四つ目は、聖武天皇の「聖霊」に献上したとする説です。
五つ目は、孝謙天皇で血筋が断絶してしまった。不比等ゆかりのものを伝えることや、皇室のものを傍流の天皇に引き継ぐことを拒否したのだとする説です。
(※ 石野注)
この辺はレジュメにも記載されていないので、どの程度正確にメモできたか自信がない。
五つ目は確か孝謙天皇というと聖武天皇と光明皇后の間の娘だと思うのだが。男子の皇太子がいないから正統でなくなったという意味なのだろうか?
二.宝物成立に関する私見
(イ) 『続日本紀』
天平勝宝四年(752)正月己丑《 十一 》。地動。是日。度僧九百五十人。尼五十人。為太上天皇不悆也。
(ロ) 『続日本紀』
天平勝宝四年四月乙酉(九日)、廬舎那大仏像成、始開眼、是日、行幸東大寺、天皇親率文武百官、設斎大会、其儀一同元日、五位己上者着礼服、六位己下者当色、諸僧一万、既而雅楽寮及諸寺種々音楽、並咸来集、復有王臣諸氏五節・久米儛・楯伏・踏歌・袍袴等歌儛、東西発声、分庭而奏、所作奇偉、不可勝記、仏法東帰、斎会之儀、未嘗有如此之盛也、
(ハ) 『東大寺要録』(「供養章第三 一.開眼供養会」)
皇帝敬請
菩提僧正
以四月八日、設斎東大寺、供養廬舎那仏、敬欲開无辺眼、朕身疲弱、不便起居、其可代朕執筆者、和上一人而巳、仍請開眼師、乞勿辞、摂受敬白、
皇帝敬請
隆尊律師
以四月八日、設斎東大寺、欲請花厳経、其理甚深、彼旨難究、自非大徳博聞多識、誰能開示方広妙門、乞勿辞、摂受敬白、
咒願、大安寺道璿律師 請書如右
都講、景静禅師 請書如右、使各差五位
天平勝宝四年三月廿一日 勅書
以四月四日、太上天皇、太皇太后幸行東大寺、
六日、鎮裏京使(左右二人ずつ省略)
兵士四百人 各二百人
七日、諸家献種々造花、
八日、留守官(人名略)
九日、太上天皇、太后、天皇、座東大寺布板殿、以開眼、其儀式並同元日、但無侍従亦堂裏荘厳種々造花、美妙繍幡、堂上散種々花、東西懸繍灌頂八方懸五色灌頂、
(ニ) 「国家珍宝帳」の一節
故今、奉為 先帝陛下、捨国家珍宝・種々翫好及御帯・牙笏・弓箭・刀剣兼書法・楽器等、入東大寺、供養廬舎那仏及諸仏・菩薩一切賢聖、伏願持茲妙福、奉翼仙儀、永馭法輪、速到花蔵之寶刹、恒受妙楽終遇舎那之法莚
(ホ) 「法隆寺献物帳」
(前略)
奉今月八日 勅前件並是
先帝翫弄之珍内司供凝之物各分数種
謹献金光明等十八寺宜令常置
仏前長為供養所願用此善因奉資
冥助早遊十聖普済三途然後鳴鑾
花蔵之宮住蹕之岸
(年月日・署名略)
(ヘ) 「法隆寺伽藍縁起並流記資財帳」
(ト) 「大安寺伽藍縁起並流記資材帳」
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私は、これらの説はすべて妥当でないと考えます。
聖武天皇は病気になっていました。本来大仏は聖武天皇が発願したのですから、開眼会についても聖武天皇は自ら主催し、全てを取り仕切りたいと考えていた筈です。
四月八日に聖武天皇自ら開眼しようと考えていたのでしょうが、自分が病弱であることからやむなくあきらめて、菩提僊那(ぼだいせんな)というインド僧に開眼を委ねたのです。
光明皇后は、こうした聖武天皇の思いを十分知っていた筈ですから、こうした献納は「功徳」を施すために行なわれたと解すべきだと思います。
資料(ホ)では、こうした遺愛の品々を十八もの寺に献納したとあります。これまでの五つの説では、十八か寺に分けた意味が説明できません。
また、(ヘ)、(ト)の資料からは、聖武天皇だけではなく歴代の天皇が遺愛の品を諸寺に納めていたことがわかります。やはり、これは宝物を寺院に献納することが功徳を積むことになると考えていたと解すべきでしょう。
三.宝庫の建設
双蔵から三倉へ
中の間
建築部材を年輪年代法で解析
宝庫建設の時期と構造についての私見
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それでは、こうしたものを納める倉をいつ作ったのでしょうか?
「双倉」(ならびくら)と呼ばれていた倉が、やがて「三つ倉」と呼ばれるようになりました。
「薬」関係を「中の間」に移したという記録も残っています。
年輪年代法といって、現在では使われている木材の年輪を解析することがかなり年代を正確に知ることができます。
年輪年代法によると正倉院の床は、同じ時期のものと考えられるのです。
私は以前正倉院の校倉(あぜくら)の中に入ったことがあります。天井裏にのぼり、北の倉から南をみるとずっと見通せるのです。
北と南の倉の間に昔は仕切りがあったのでしょうか?
また、倉の天井裏を調べてみると、中の倉の屋根のところには大きな穴があるのです。いつ、どうやってできた穴なのかは謎です。
年輪年代法によるとこの材木は天平勝宝期に限りなく近いようです。つまり聖武天皇崩御の前後であると考えられます。
これだけの倉ですから製作日数も相当長かった筈です。
スタート時点としては大仏開眼会あたりが妥当ではないでしょうか。そして、作られた目的としては大仏に献納された品々を納めるために作った倉と考えるべきではないでしょうか。
(※ 石野注)
確か時間もやや超過したので、はっきり「まとめ」的なことはおっしゃらなかったかもしれない。少なくとも私のメモにはない。
そこで、本シンポジウムパンフで先生が書かれた一節を引用して「まとめ」に代える。(むしろ、本講演全体のテーマといってよい)
個人的なことであるが「国家珍宝帳」を重視するあまり、その他の献納品の取扱いが軽すぎるのではないかと反省している。
したがって改めて、大仏開眼会関係用品を中心に、正倉院宝物や宝庫の成立を考えてみたい。
どうもお疲れ様でした。
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