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(No67) 第25回東大寺現代仏教講演会 「東大寺の建築 〜大仏様(だいぶつよう)〜」 聴講記
表題の講座を聴いてきました。
重源上人800年御遠忌法要関連事業の一環。場所は東大寺南大門横の金鐘会館。
講師は、神戸芸術工科大学名誉教授の伊藤延男氏である。
1 重源上人
(※ 石野注)
伊藤先生のレジュメには、
1.重源上人は
大勧進職として東大寺鎌倉復興を成し遂げられた。
各地の別所等多くの寺院の造営、修理等に尽力された。
建築に中国南部の様式を採用された。これが大仏様である。 |
・・・とある。これを前提にお話の再現(記憶をたどる)を始める。 平氏に焼き討ちされた東大寺を重源上人(ちょうげんしょうにん)が復興しましたが、その建築物で残っているのは南大門関係のみです。その後松永氏に焼かれた東大寺を江戸時代に再び復興したのは公慶上人です。
重源上人をバックアップしたのは源頼朝です。逆に周防(山口県)土着の武士たちは、東大寺復興のための木材切り出しを妨害したりしました。
(※ 石野注 先日の奈良博「重源」展で「東大寺大仏縁起」という絵巻物が出展されており、周防の山から切り出した木材を船で運ぶ途中海賊が奪おうとし、増長天が木材を守護したという内容だった。これは、上記内容を象徴しているのかもしれない)
鎌倉期に作られた重源上人の像が残っていますが、重源上人は1121年に生まれたといわれています。
俗名を紀季重(きのすえしげ)といい、左馬丞(さまのじょう)でした。なお、丞とはそれほど高位ではない官職名であり、この程度の家柄の者は出家する者が多かったようです。
1180年に平重衡(たいらのしげひら)が南都を焼き討ちしましたが、重源は大仏復興の勅定を受けました。
なお、重源は入唐三度聖人(上人)という別名も持っています。当時の中国は宋だったのですが、唐が中国の代名詞となっています。
ところが、重源上人が中国からもたらした渡航の請来品というのは残っていません。梵鐘の銘文や文献に「入唐三度聖人」という表現は残っているのですが、その真偽は今一つ定かではありません。
(※ 石野注)
上記で重源自身の幼名が紀季重と聞いた気がするのだが、「重源」展の図録では「父は滝口左馬允紀季重(たきぐちさまのじょうきのすえしげ)とする文献が多」いとある。メモ違いであろう。
同じく伊藤先生のレジュメ。
2.大仏様の特徴は、
(1) 貫(ぬき)で軸部を固め、長押(なげし)を用いない。
(2) 組物(くみもの)は挿肘木(さしひじき)とし、手先の組物には左右の拡がりがない。
(3) 組物の間には遊離尾垂木を使う。
(4) 皿斗があり、鬼斗は使わない。
(5) 軒は一軒で、垂木先に鼻隠板を打つ。
(6) 垂木は隅だけ扇垂木とする。
(7) 木鼻、蟇股などに特徴のある繰形を使う。
(8) 化粧屋根裏とし、天井を張らない。
(9) 虹梁は円形断面で太く、下面に錫杖彫がある。
(10) 桟唐戸を用い、藁座で貫に釣る。
『日本建築史図集』(編:日本建築学会)
こんなに羅列的に覚えなくてもよい。 |
・・・とある。羅列的も何も、さっぱりわからない。
幸い、『重源』展の図録に「重源と大仏様建築」(著:西田紀子)という論文があったので、それをまず要約する。
「重源が大仏殿再建をはじめとする堂宇造営に用いた建築様式を『大仏様』という。
重源が造営した東大寺南大門(正治元年=1199)や浄土寺浄土堂(建久3年=1192)などを、古代以来の伝統的な建築様式『和様』と比べながら、大仏様の特徴をみていこう。
大仏様の特徴(は)明快で合理的な構造である」。
本文の内容を和様と比較・整理してみる。そして伊藤先生のレジュメに出てくる部分を赤字で表示してみる。
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和様 |
大仏様 |
二重門(南大門のように二重に屋根をかけた門) |
下層と上層の柱を別材にして、柱・梁を層ごとに積み上げる構造が一般的。
下層には天井が張られ、上層の構造や屋根の架構は見えない。 |
長い柱を下層から上層まで通し、下層と上層の構造が一体となっている。
下層の屋根は、通し柱の側面にとりついた腰屋根で、内部には天井を張らず、架構が露出している。 |
柱間をつなぐ横材 |
「長押」(なげし。柱の側面に釘付けした水平材)を主に用い、「貫」(ぬき。柱に穴をあけて貫通させた水平材)は柱の頂部を繋ぐ「頭貫」(かしらぬき)のみが一般的。 |
柱の途中の高さに穴をあけて貫を通し、柱と柱を緊結する技法が広く用いられるようになった。 |
建物の軒下を支える「組物」(くみもの) |
柱の頂部に「斗」(ます)と「肘木」(ひじき)を組み合わせた組物を置いて、軒下の桁(けた)を受ける。 |
柱の側面に枘穴(ほぞあな)をあけて、そこに枘差しした「挿肘木」(さしひじき)を使用し、挿肘木と斗を重ねて軒下の桁を受けている。 |
組物を正面から見たプロポーション |
肘木の先端部に置かれた斗の上部には軒と並行に肘木を置いて、組物に左右の広がりをもたせる。 |
組物が左右の広がりをもたない。
南大門のように肘木と斗を六段重ねた「六手先」の組物では一番先端に置かれた斗の上部にのみ軒と並行に肘木を置くが、その他の挿肘木先端部の斗には横方向の肘木を置かない。よって、組物は前方にのみのびた形となる。
このため、組物と組物の間に「通肘木」(とおしひじき)と呼ばれる横材を渡して左右の振れ止めとしている。 |
屋根を支える「垂木」(たるき) |
建物寄りの「地垂木」(じたるき)と軒先の「飛檐垂木」(ひえんたるき)を用いた「二軒」(ふたのき)が多い。 |
軒先まで一本の垂木を通した「一軒」(ひとのき) |
隅部は、垂木どうしが平行に配される。 |
隅部は放射状に配された「扇垂木」(おおぎたるき)とする。 |
垂木の先端に「鼻隠板」は用いない。 |
垂木の先端に、木口を隠す「鼻隠板」(はなかくしいた)をうつ。 |
部材の規格化 |
(特に記述なし) |
部材の寸法が規格化された部分と、細かく微調整された部分とに分かれる。
(1) 主要な部材は6種類の断面・大きさに分類できる。貫・挿肘木・通肘木は断面が統一されており、それらの体積比は全体の3割を超える。
組物も大きさが等しい斗を用いる。
(2) 虹梁(こうりょう)から棟木(むなぎ)にかけては、三丁をつなぐ棟木で東西端の二丁で反り増しをもち、斗もその反り増しに合わせ寸法を微調整するなど高い技術が駆使されている。
(1)は大人数で量産され、(2)は熟練した技術をもつ南都の職人により統括されるなど、生産体制の違いが想像される。 |
建築の細部意匠 |
(特に記述なし) |
挿肘木の先端や虹梁の端部には、円弧を組み合わせた「繰形」(くりかた)彫刻(一方を水平とし、もう一方を曲線を組み合わせた形に造り出した大仏様独自の意匠)がみられる。 |
組物の斗 |
法隆寺の西院伽藍では皿斗がみられるが、奈良時代以降は用いられない。 |
下に板状の「皿斗」(さらと)をつける。奈良時代以降は使用されていなかったが、大仏様で再度導入された。 |
扉及び軸受け |
(特に記述なし) |
扉は、縦横に枠を組み、その間に板をはめた「桟唐戸」(さんからと)を用いた。
扉の軸は「藁座」(わらざ)という軸受けを取り付けて納めた。 |
これで少し伊藤先生のレジュメの内容が想像できるようになった。
たまたま南大門の写真を撮っていたので、これで少し解説したい。(私は何せ建築には全くの素人なんで、間違っていたらご指摘を)
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上記で南大門の組物を正面から見ると、前方向にのみのび、左右への広がりをもたないとある。それを示したのが左写真の赤い縦長の部分。
そして、その中でも一番上だけ平行に肘木を置くというのが、その上の横長の黄色い部分。 |
組物とは、基本的に肘木と斗を組み合わせたもの。
南大門の場合、柱に枘穴をあけ、そこに挿し込む「挿肘木」というものを設ける。左下写真では「E」と記した青い箱に囲まれた部分がその一例。
その肘木を受けるのが斗。左下写真では、「C」と記した青い箱に囲まれた部分がその一例。
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写真ではわかりにくいが、斗のうちでも下部の薄い板状の部分を特に「皿斗」と呼ぶ。
なお、「E」の挿肘木は5番目、「C」の「斗」は6番目のものであり、「E」と「C」とはセット物ではないのでご注意いただきたい。
上記解説で、「南大門のように肘木と斗を六段重ねた「六手先」の組物」とある。
一応上から「1」から「6」まで赤字で番号を振ってみた。
また、「一番先端に置かれた斗の上部にのみ軒と並行に肘木を置く」とあるが、その平行に置かれた肘木というのが、左写真の「A」と記した黄色い箱に囲まれた部分。 |
挿肘木の先端に施された独特の「繰形」彫刻というのが左上写真の「B」と記した黄色い箱に囲まれた部分。
そして前方向にのびる組物どうしの間に横材を渡し、左右の振れ止めにするとあるが、その横材である「通肘木」が例えば黄緑色の矢印で示した「D」という部分。ほかにもたくさん通っている。
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また、上記解説では下層から上層まで一本の長い柱を通し、途中で天井を張らないので屋根裏が丸見え・・・という趣旨のことが書いてあるが、南大門の中に立ち、上をみて撮ったのが左写真。 |
右側下半分くらいに少し見えているのが金剛力士がおさまっている部分だが、その辺に途中の天井はなく、上まで一気通貫なのがわかるだろう。
それと、長い柱を縦横に貫いて「貫」が入りまくっているのがわかる。なかなか地震などにも強いそうである。
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あと、左写真で黄色い箱で囲っている部分が、遊離尾垂木。
組物と組物の間に位置する。
ということは斗などで受けていないから、「遊離」尾垂木というのだろうか。 |
また、左上写真で青い箱で囲んだ部分が鼻隠板。もちろん、その左右も全部そうなのだが、わかりやすいように一部分だけを囲った。
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上写真で南大門の前に何やら棒が立っている。
そのてっぺん部分の龍のあたまをアップで撮ったのが左写真なのだが、ちょうど龍の頭の後ろに垂木と鼻隠板が写っているのでご参照いただきたい。 |
あと先生のレジュメなり上掲の比較表で説明できてないのが「隅の扇垂木」ということ。
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例えば、左写真で黄色い矢印で指しているのが垂木。
この垂木の断面(木口)が見えないように打たれた板が鼻隠板で、例えば黄色い矢印をうった垂木を隠しているのは左写真でいうと青い箱で囲った部分。
その垂木は平行の位置にあるのだが、四隅の部分は、急に斜めに(放射状)なっている。
これを「隅扇垂木」と呼ぶようである。
禅宗建築などでは全体的に放射状に垂木がうたれるようだが、大仏様は左写真のようにほとんど平行にうち、ほんの隅っこだけを斜めにしている。
左写真でいうと黄色い箱で囲んだ部分なのだが、どうも肝心なところが写っていない。
もともと説明用に撮った写真じゃないので、申し訳ない。
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では伊藤先生のレジュメの続きを。
3.重源上人が建てた建築
(1) 東大寺大仏殿
(2) 東大寺南大門
(3) 東大寺開山堂
(4) 浄土寺浄土堂
(5) 関連する建築 |
講演ではいくつか写真を参照しながら紹介されたが、細かい内容は覚えていない。「重源」展図録の前掲論文にも、浄土寺浄土堂や、東大寺開山堂、法華堂礼堂、醍醐寺経蔵などとの比較が載っているが、写真などがないのでよく違いがわからない。
要するに重源が関与した建築物でも、すべてが厳格に大仏様の特徴すべてを備えている訳ではないということだ。
では、伊藤先生のレジュメの最後の部分。
4.アイディアマンとして重源上人の苦労
5.大仏様の新しいキーワードは?
6.再び東大寺へお詣りしよう |
重源上人の特徴というと、大変なアイディアマンだったことがあげられるのではないでしょうか。非常に「システム」というものをうまく使う人でした。
日本人の鋳物師たちが大仏鋳造を不可能と二の足を踏んだ中、宋人陳和卿(ちんなけい)を登用したのがその一つです。
また、大仏の後ろにあった山を独断で除去してしまったのも彼のアイディアです。
そのほか、いろいろな人を重用し、うまくチームを組んで建設を進めるなど人材登用に優れていました。
次に大仏様の新しいキーワードというものを考えてみました。
第一に、「堅固な構造」ということです。大建築向きということがいえます。
第二に、「太い柱と多数の規格材料」ということです。太い長い柱というのは限られたものです。また、多数の規格材料というのは、量産向きといえるでしょう。
第三に「宋様式」ということがいえるでしょう。重源は自己の「入唐」経験を活かし、積極的に中国様式を取り入れました。
(※ 石野注)
レジュメ最後の「東大寺にお詣り」というのは、伊藤先生が撮られた写真を参詣順路順にスライドショーとして上映されたことを指す。
今後、寺院の軒下をのぞく時には少し注意して観るようになるかもしれない。もし覚えていたら、今度東大寺南大門の「扇垂木」や「鼻隠板」、「藁座」なども注意して観てみたい。
どうもお疲れ様でした。
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