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(No57) 奈良 興福寺 国宝特別公開2006 その1 

 奈良の興福寺で、年に一度の南円堂公開、それと恒例の北円堂公開などがあるというので、行ってみました。 

 


1.南円堂

 平成18年10月17日(火)は、年に一度の南円堂(なんえんどう)特別開扉の日であった。拝観料300円也を支払って、靴を脱ぎ、堂内にあがらせていただく。
 当日もらった資料によると、南円堂は重要文化財で、「弘仁4年(813)に、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂のために創建した。その後3度焼失し〜寛保元年(1741)に立柱された」とある。

 堂内中央には本尊の国宝 木造 不空羂索観音菩薩坐像(ふくうけんさくかんのんぼさつざぞう。桧材 寄木造 像高 336cm)が鎮座している。 

 これも資料から。「透かし彫りの二重円相の華やかな光背をつけ〜宝冠に阿弥陀如来の化仏をつける。眉間に一目をつけ三目とする。上半身に鹿皮を斜めにまとう。手は八本あり、その第一手は胸前で合掌〜第四左手に羂索、右手に払子(ほっす)を持つ。
 〜文治5年(1189)に〜仏師康慶とその弟子達によって造られた」。
(右写真は、南円堂の水煙)

  よく目をこらしたのだが、鹿皮の表現されているところはよくわからなかった。

 さて、この南円堂、何といっても国宝の木造 四天王立像が素晴らしい。

 四天王といえば、東西南北四方をまもるのであるが、「目線が前から限定」というか、四天王いずれも正面を向いているケースが多い。
 しかし、南「円」堂であるせいか、中央の不空羂索観音菩薩を中心に、ぐるりと周囲を取り囲むようにして、いずれも外側を向いて据えられていた。

  

 四天王については、他の堂宇でも安置されているので、後ほど比較対照してみたい。

 なお、南円堂の仏像等については、HP興福寺文化財データベースで、仏像や建造物の画像をご参照いただきたい。
 これは、他のお堂の仏像についても同様である。


 では南円堂から北に向かって、北円堂に歩を進める。

 


2.北円堂

 北円堂(ほくえんどう)は、受付で配られるチラシによると「養老5年(721)興福寺の創建者である藤原不比等(ふひと)の一周忌に、元明・元正天皇長屋王に命じて建てさせた八角円堂」とある。国宝でもある。
(左写真は、拝観時のチラシ:無著菩薩像)

 今回は「興福寺国宝特別公開」と銘打って、10月8日から11月13日まで「北円堂運慶作弥勒如来像・無著像・世親像)、仮金堂内陣康慶作四天王像)、三重塔初層(千躰佛壁画)、国宝館(板彫十二神将像)が公開される。
 四箇所共通券が1300円也。

 なお、上記の「北円堂(運慶〜)・・・」という文章は興福寺で配っていたチラシによる。国宝というが、仮金堂には重文のみであり、逆に北円堂の四天王像など国宝であっても挙げられていないものもある。

 

 本尊としては、この北円堂の弥勒如来坐像(国宝 鎌倉時代 桂材 寄木造 運慶作)がピカイチではないか。それほど大きくはないのだが、存在感がある。

 脇侍(わきじ)として法苑林(ほうえんりん)・大妙相菩薩半跏像(室町時代 桧材 寄木造)が置かれているが、失礼ながら要らないなあ・・・・・と思ってしまうほどである。
(左写真は、公開中の北円堂) 

 弥勒如来の向かって右に無著像(むちゃくぞう)、左に世親像(せしんぞう)が安置されている。

 先日の興福寺国宝展(大阪市立美術館)では、コーナーを曲がり、いきなり無著・世親の前に立って強い衝撃(感銘)を受けた。
 柴門ふみさんが『ぶつぞう入門』(文春文庫)で「『ああ、この人は偉い人なんだ』というオーラがひしひしと伝わってきた」と書いておられるが、私はむしろ「透徹したまなざしの哀しみ」を感じた。(興福寺国宝展の鑑賞記はここから)

 ところが、堂内で観た無著・世親は正直言って「あれ?」という感じだった。それほど大阪市立美術館の(照度抑え目の)ライティングが素晴らしかったのだろう。

 美術館で観た時は、「世親より断然無著だ!」と感じたのだが、堂内で正面から観ると、どうも無著の顔の白っちゃけたところが気になる。
 全体に顔が黒く、玉眼が光る世親の方がインパクトがあるのである。

 お堂に入り、正面から順に時計周りで周っていく。無著は、正面より、思い切って左サイドから、世親の前を横切って、弥勒の光背の後ろくらいに見える右横顔が、おでこの張り具合や、口角上の、ほほに斜めに走る短いしわなども見えてよろしいなと私は感じた。
 また、世親は、正面からわずか右寄りから観るのが良いように感じた。これらは、あくまでも私個人の感じ方である。
 左写真は、堂から出て、北円堂全体の写真を撮っている時、堂内が撮れてしまったもの。 

 私おすすめのポジションではないが、そのポジションは堂内からしか撮れない。もちろん堂内の撮影は禁止である。(南円堂などでも、こっそり撮っている人はいた。警備の人が注意することだと思い、特に私はたしなめなかったが) 

 国宝の四天王立像(国宝 平安時代初期 木心乾漆造)は、南円堂の四天王に比べると、かなり小さめで、やはり鎌倉時代の写実性あふれる四天王に比べると、どうしても「ちゃちい」とすら感じてしまう。
 好みとしては、仮金堂のそれのようによく言えば重厚、悪く言えば鈍重な感のあるものよりは、ユーモラスで好きなのだが。これも、別の機会で四天王特集を組みたい。
 何枚か撮っていて感じたのだが、円堂は、屋根がきちんと見える、つまり平行か、やや見下ろすくらいの方がかっこいいな。見上げるアングルは、何かかっこ悪いなと感じた。

 左写真は、そうした、私好みではない、見上げるアングルの一例。 

 なお、北円堂の仏像については、特別公開チラシの表面裏面もご参照いただきたい。


3.仮金堂

 興福寺の中金堂(ちゅうこんどう)は伽藍の中核をなすもので、最も早い時期、和銅3年(710)に藤原不比等(ふじわらのふひと)によって創建されたと伝えられる。
 左写真は仮金堂と呼ばれる建物で、中金堂が享保2年(1717)が焼失した後、文政2年(1819)に仮堂が建立された。
 その仮堂が老朽化したため、昭和49年に、もとの講堂跡地に建てられたのがこの仮金堂である。

 上写真の手前に写っている石は、特に看板とかはなかったが、位置からすると経蔵跡の礎石かもしれない。
 右写真は、受付でもらえるチラシ。

 現在この仮金堂には中金堂の諸仏、具体的には本尊として釈迦如来像(江戸時代 桧材 寄木造)、薬王・薬上菩薩立像(重文 鎌倉時代初期 桧材 寄木造)、四天王立像(重文 鎌倉時代 桧材 寄木造)が安置されている。

 チラシに載っているのは、本尊の向かって右の薬王菩薩。薬上菩薩より、お顔の金箔がよく残っている。
 

 ここの四天王についても、詳しくは、また後ほど。

 また、仮金堂の仏像については、特別公開チラシ裏面もご参照いただきたい。

 

 


4.五重塔

 
 五重塔は通常公開されていないので、外から眺めるばかりである。

 五重塔は国宝で、当初は天平2年(730)、藤原不比等の娘である光明皇后によって建立されたとのことである。

 

 高さは約50m。古建築としては、東寺の五重塔に次ぐ高さとのことである。
 東寺の鑑賞記については、ここで。

 なお、この興福寺五重塔は五度の焼失を経て、応永33年(1426)頃に再建されたものだそうだ。

 ところで、高い塔なので、なかなか見下ろすことはできない。

 で、写真としては毎度毎度、横から撮るか、見上げるか、横の東金堂も一緒におさめるかの3種類くらいしか思いつかない。
 

 毎度毎度、同じような写真ばかりで申し訳ない。
 ということで、一番上が「横から」バージョン、次が「下から」バージョン、そして左が「東金堂セット」バージョンである。

 あとは、冬にでも行って雪景色の・・・・・なんてとこでしょうか。まあ、そこまではようせんと思います。


 



 どうもお疲れ様でした。
 
  

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