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(No03) 大阪歴史博物館見学記その1 中一の長男が、夏休みの社会の宿題で、どこかの社会科学系の博物館に行ってレポートを書かねばいけないことになった。
そこで、最近大阪歴史博物館というのが開館したので、二人で行ってみることにした。
きっぷを買って、まず10階にあがる。
すると、写真にあるような女官や侍従の等身大の人形が迎えてくれる。
この大阪歴史博物館は、大阪城のすぐ近くにある。
ここに昔、難波宮(なにわのみや)という都があった。
飛鳥時代、白雉(はくち)3年(652)孝徳天皇の時代に造営された難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)。
そして、8世紀前半、聖武天皇の時代の難波宮である。 |
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これらの宮殿の所在は、ながらく明らかではなかった。
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1954年以来の発掘調査により、この2時期にわたる宮殿が、この地に存在したことがわかったのである。
これらをそれぞれ、前期難波宮、後期難波宮と呼ぶ。
10階は、「古代 難波宮の時代」と名付けられている。
展示物を見てまわっていると、突然館内が暗くなる。
窓のブラインドが自動で降りてきて、壁一面のスクリーンに「宮廷儀礼」という映像が放映される。
天平16年(744)、左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)によって、難波宮を都とする聖武天皇の勅命が宣せられた。
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映像は、(後期)難波宮で遷都の儀礼が執り行われたと仮定して、各種史料に基き、コンピュータグラフィックスを駆使して、その日の難波宮が再現される。
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大極殿(だいごくでん)は、国家的儀式が執り行われる宮殿の中心的な建物。
高御座(たかみくら)は、そうした儀式の際に大極殿中央に設置される天皇のための座である。
朝堂院とは、大極殿前のスペースである。
CGでは、女官の差し出す大きな扇越しに、朝堂院に多数の臣下が整列しているさまが描かれる。
そう、高御座における孝徳天皇の視点を再現しているのだ。 |
臣下の前で、詔勅を読み上げる橘諸兄。そして映像が終わり、スルスルとブラインドが上がっていく。
まぶしい光の中、眼下に広がるのは博物館前の難波宮史跡公園である。
右写真で高速道路越しに見える、長方形の石造りの舞台のようなスペース。
それが後期難波宮の大極殿基壇跡である。
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CGと現実が、一瞬のうちに1200年以上の時間を超えてつながる、実に心憎い、みごとな演出であった。
この写真でもわかるように、この難波宮史跡は大阪市でも中心部に位置する。
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この難波宮発掘の功労者が大阪市立大学教授だった山根徳太郎氏。
彼は法円坂(大阪市中央区)で出土した古瓦を手にした時に、難波宮存在の確信を得た。
そして定年退官後の1954年に発掘調査を開始した。
当地は大阪府庁の建設計画をはじめ、度重なる都市開発の計画があった。
「遺跡は一度壊れると二度と再現できない」との信念のもと、保存を訴え続けた。
このような都心部でこれほど広い史跡を保存するにはどれほどの苦労があったことだろうか。 |
右写真は、後期難波宮に葺かれた蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら。写真上部)と唐草文軒平瓦(からくさもんのきひらがわら。写真下部)である。
このほか、土器、陶器等もたくさん展示されていた。
以下、続けてご紹介したい。 |
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それでは、ご一緒に館内をまわりましょう。
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