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(No23) 京都国立博物館 記念講演「龍馬暗殺をめぐる謎」聴講記 その1

 京都国立博物館では、土曜講座というのを開催されており、8月27日(土)が、佛教大学文学部青山忠正教授による「龍馬暗殺をめぐる謎」という講義であった。
 特別展「龍馬の翔けた時代」の記念講演でもある。それでは、その聴講記を。



 青山先生のレジュメを掲載する。(以後、レジュメは白い枠囲みの表記で表現する。)

1.事件の概要

慶応3年11月15日午後9時頃、河原町四条上ル近江屋新助(醤油商)方2階。
龍馬即死、従僕藤吉翌日夕刻死亡、中岡慎太郎重傷2日後死亡。

「今日の講演のタイトルは『龍馬暗殺をめぐる謎』となっているので、何か目新しいことを話すのかと期待されるかも知れませんが、そういうものはありません。(会場笑い)

 事件に関する史料を検討していきたいと思います。事件については、詳しいことはわかっていません。確実なのは、坂本龍馬たちが慶応3年に何者かに襲われ、命を落とした。これだけは間違いがありません。

 そもそも、坂本龍馬は、土佐藩周辺ではそれなりに名前が知られていましたが、全国的に名前が有名になったのは、明治37年、日露戦争を憂慮する皇后の夢枕に立ったという報道がなされて以来のことです。」

「あまり信頼できる史料が残っていないのですが、その数少ない中でいくつかを紹介します。」

 

 
・「瑞山会採集資料」(岩崎鏡川編『坂本龍馬関係文書』2 大正15年 日本史籍協会刊)
 最初に現場に駆けつけた(当日夜)のは、水戸の香川敬三・土佐の田中光顕ら陸援隊士。さらに土佐の谷干城。つづいて大坂から、陸奥宗光・白峰駿馬ら(翌日午後か)。

「瑞山というのは武市半平太の号です。この『坂本龍馬関係文書』というのは、大きな図書館などではあるでしょうが、一般の方がお持ちになるような本ではありません。」


・「坂本中岡両雄の凶変」 伯爵田中光顕談話(同文書所収 年月日不明)
〜簡単な談話。新選組の仕業

「田中は新選組の仕業と語っていますが、慶応3年の頃はそう考えられていたようです。
 品川弥次郎は、当時長州藩の正式な連絡役として赴任していたのですが、彼も新選組の仕業であると報告しています。」

「また、その後『天満屋騒動』という事件が起こりました。
 その頃、龍馬の海援隊の船いろは丸が紀州藩の船明光丸と衝突事件を起こしました。これで恥をかかされた紀州藩が新選組を使って暗殺させたという説で、中井庄五郎という居合いの名人らが復讐のため新選組を襲ったという事件です。」


・「坂本と中岡の死」〜最も具体的で物語風(同文書所収 大正15年発表) 岩崎鏡川
18日午後2時頃、近江屋より出棺。「両雄が為めには莫逆の友人にて、偶々出京せる木戸準一郎(後 孝允)は、涙を揮て『高知藩士坂本龍馬墓』 『高知藩士中岡慎太郎墓』の二墓標を書せり」

「これは、史料というより、岩崎が作った小説です。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では迫真の暗殺シーンが描かれていますが、実は、この岩崎の小説の内容をそのまま使っており、元史料の吟味というものを一切司馬はしていません。
 司馬遼太郎は、どの作品でもそうなんですが、小説的におもしろい史料があれば、それをそのまま使うんですね。まあ、それはもっともな部分もあって、いちいち史料の一次資料にまであたっていたら、一つの作品を完成させるのに5年も10年もかかってしまうでしょう。

 それと、『竜馬がゆく』では、竜馬が寺田屋で幕吏の捜索を受けた時、おりょうが真っ裸で危急を告げたという有名な場面がありますが、あれも事実ではなく、ちゃんと服は着ていたのです。

 この史料では、この葬儀には土佐山内家は一銭も出さず、義侠心から費用はすべて近江屋が負担したとあります。
 ただ、木戸孝允が京にいたとありますが、先ほども申し上げたように長州藩から京都に来ていたのは品川であって、木戸は来ていません。
 また、慶応3年には『高知藩』などというものは存在していませんので、それを墓標に書いたというのもおかしな点です。」




2.今井信郎の口供書
 明治33年5月雑誌『近畿評論』第17号、もと見廻り組今井信郎、自ら実歴談を掲載。
 片岡健吉(土佐、衆議院議長など)及び谷干城の反論〜事実と齟齬する点が多い。「松代藩士」と自称して近江屋にあがった云々。

 これを発端に岩崎の調査が始まる。明治3年2月〜9月、兵部省及び刑部省の「口書判決文」を発見。「坂本と中岡の死」に収録(いつ、どこで、どのように発見?発見後の所在は?現在の所蔵先は?)

「この『近畿評論』というのは、かなり政治的な雑誌だったようです。それに今井が龍馬暗殺について語った記事が載ったのですが、近江屋を訪ねた時、松代藩士と自称したとあるのですが、谷干城らが、僚友である十津川郷士と称したからこそ警戒せず二階に上がれたのだ、などと矛盾点を指摘しました。

 それをきっかけに、岩崎鏡川の調査が始まり、明治3年付けの、いわば訴訟資料を発見し、自分の小説の中に取り入れました。龍馬暗殺に関する唯一の一次資料といえます。

 ただ、発見の経緯や現在の所在など謎の部分が非常に多く、もし、現物を読むことができれば、新たな発見がいろいろとあるかもしれません。
 それでは、文書の中身をみていきましょう」







函館戦争(明治2年5月終了)降伏人を取り調べ。

「十月中比(=中頃)與頭(=組頭)佐々木唯三郎、旅宿に呼び寄せ候につき、私(今井)並びに見廻り組渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥仲蔵・桜井大三郎、六人罷り越し候処、唯三郎申し聞け候には、土州藩坂本龍馬儀不審の筋有之、先年於伏見、捕縛の節、短筒を放し、捕り手の内、伏見奉行組同心二人打ち倒し逃げ去り候(※1)処、当節、三条下ル町(※2)、土州邸向かい町屋に旅宿罷り在り候につき、この度は取り逃がさざるよう捕縛致すべく、万一手に余り候えば討ち取り候様、御指図これ有る(※3)につき、一同召し連れ出張(中略。※4 二階から)吉太郎・安次郎・隼之助下り来り(※5)、龍馬そのほか両人計合宿之者(※6)、これ有り、手に余り候に付き、龍馬は討ち留め、ほか二人の者切りつけ疵負わせ候え共生死は見留めざる旨申し聞け候につき、左候えば致し方これなきにつき引き取り候様、唯三郎差図につき立ち出で、銘々旅宿へ引き取り、その後の始末は一切存ぜず(後略)

「これは、函館戦争で降伏した者を取り調べた時の資料で、その中に今井を取り調べた文書が含まれていたのです。

 10月中頃、見廻組の今井、渡辺、高橋、桂、土肥、桜井の6人が、組頭の佐々木唯三郎に呼び出された。
 そこで、佐々木が言うには、土佐藩の坂本龍馬は、先年、伏見で捕縛の際に、ピストルで同心2人を倒して逃亡するという事件を起こした。
(注※1 この伏見寺田屋の一件については、龍馬展その2の62−12 龍馬書簡、龍馬展その3の98 三吉慎蔵日記のところでふれています)

 その坂本が、今、三条下る町の、土佐藩邸の向かいの民家に泊まっているというのです。 さて、確かに京都では上がる下がるとか言いますが、下る町とは通常言いません(注※2)。しかし、今井はその年(慶応3年)の春に京都に来たばかりでしたから、それも不自然ではないといえるかもしれません。

 また、この近江屋というのは醤油商なのですが、本当に土佐藩邸とは5mほどの通り1本を隔てているだけです。
 そんな近所なのに、なぜ藩邸に泊まらなかったのか不思議に思われるかもしれませんが、当時はむしろ藩邸より商家などに下宿することが多く、近江屋の近くにも福岡藤次の下宿先の大和屋、岡本健三郎の下宿先の亀屋などもあります。

 さて、その逃亡した坂本がいるので、今度は逃がさないように逮捕せよ。ただし、抵抗するようであれば殺してもよいという命令がくだされたというわけです。
 もちろん、最初から殺してもいいのですが、一応、万一手に余り候えば、というのが決まり文句なんですね。(注※3)

 中略(注※4)ということで、少し略させてもらっていますが、そこでは、昼頃に一度行ったが、その時は留守だった。そして、夜に再度行った時、今井自身は2階へあがらず、1階の土間で、主人の近江屋に騒ぐなといっていたと証言しています。
 それで、2階から渡辺、高橋、桂の3人が降りてきた(注※5)と言っているのですが、組頭の佐々木が襲撃隊に含まれていないというのは、おかしいのではないかとも思われます。

 それで、龍馬と、一緒にいた二名ばかりの者(注※6)といいますから、中岡と従僕の藤吉と思われますが、龍馬は殺した。あと2人については、疵は負わせたが仕留めたがどうかまでは見届けていない。
 仕方ないので、組頭の差図でその場を立ち去り、宿へと戻った。その後、どうなったかは、全く知らない。
 以上が、今井の供述書の内容です」 


 
3.刑部大輔佐佐木高行(※1)よりの申し渡し

いわば判決にあたる。

明治3年9月20日付け
「その方儀、京都見廻り組在勤中、與頭佐々木唯三郎、差図を受け、同組の者と共に高知藩(※2)坂本龍馬捕縛に罷り越し、討ち果し候節、手を下さずと雖も、右事件に関係致し、加之その後脱走に及び、しばしば官軍に抗撃、遂に降伏いたし候とは申しながら、右不始末不届きにつき、屹度(きっと)厳科に処すべきのところ、先般仰せ出されの御趣意に基づき、寛典をもって禁固、申し付くる。ただし、静岡藩へ引き渡す。(※3)」

 刑部省の取り調べでも「捕縛に罷り越し、討ち果し候」(※4)

佐佐木高行は、土佐藩で大監察をしていた人物です。(注※1)

 その判決文ですが、事実関係としては、ほぼ本人の事実関係を認めています。
 文中で高知藩(注※2)とありますが、高知藩という呼称は明治2年の版籍奉還から明治4年の廃藩置県の間にだけ存在したもので、明治3年の本文書にその呼称が使われているのは、時期的にみて非常に正確であり、本文書の信憑性を高めるものです。

 判決としては、禁固刑で静岡藩に引き渡す(注※3)とのことですが、結果として明治5年に釈放されています。

 要するに、当時の明治政府においても、政治的意図は認められず、単なる逮捕として片づけられているということです」

 

 


 龍馬暗殺については、いろいろ黒幕とか背景とか、いろいろ噂は多いですし、皆さんもそうした内容をご期待されていたと思いますが、史料からわかるのは、こういうことなのです、ということで講演は終わった。

 まあ、そういうことなんでしょうけど、個人的にはやはり誰がやったんや?ということに興味があるので、次回で少しだけその辺にふれてみたい。

 どうも長々とお疲れ様でした。

 
  

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