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(No24) 京都国立博物館 記念講演「龍馬暗殺をめぐる謎」聴講記 その2

 京都国立博物館では、土曜講座というのを開催されており、8月27日(土)の演目は、佛教大学文学部青山忠正教授による「龍馬暗殺をめぐる謎」という講義であった。
 特別展「龍馬の翔けた時代」の記念講演でもある。
 実は、聴講記としては既に完結しているのであるが、講演会があまりに学問的というか、残された史料を淡々と解説されたので、一般大衆(←要するに私のこと)の世俗な関心をみたすには至らなかった。そこで、適当に手持ちの材料でさぐっていきたい。

 ということで、単なる私見であり、「聴講記 その2」というタイトルには偽りあり、ということを冒頭にお断りしておきたい。

※ いったんアップしたのだが、10月17日付けで若干加筆した。加筆部分には、「追加」と付記した。
※ さらに18年4月8日にも少しだけ加筆した。



 私が参照するのは、たまたま家の本棚にあった、『竜馬がゆく』(著:司馬遼太郎。文春文庫。以下『竜馬』と略記)の第8巻、『中岡慎太郎 陸援隊始末記』(著:平尾道雄。中公文庫。以下『中岡』)、『人物列伝 幕末維新史』(著:綱淵謙錠。講談社文庫。以下『人物』)、『壬生義士伝』(著:浅田次郎。文藝春秋)の4冊である。書店などではいろいろ関係図書も数多く置いてあるのだろうが、何せ今思いついたとこなんで仕方ない。

(追加) 先日、古本屋に寄ったら、たまたま『NHK 歴史への招待 第2巻』(日本放送出版協会)という雑誌が100円で売っており、そこに三好徹氏の「龍馬暗殺」という文章が載っていたので、それも参照する。



1.事件の直前

(1) 中岡慎太郎の来訪


 『竜馬』では、こうある。
 三条大橋付近で新選組と土佐藩士が乱闘事件を起こし、宮川助五郎という藩士が逮捕された。その処分をめぐり、土佐藩の福岡藤次が中岡に陸援隊でひきとってくれないかという相談の手紙を出し、それで中岡は藩邸を訪ねたが、たまたま福岡が留守であったので、近くの龍馬の宿を訪ねたというのである。
 つまり、その日、中岡が居合わせたのは全くの偶然ということになる。

 『中岡』には、こうある。
 幕府は11月14日に、京都町奉行所に捕らえていた宮川返還の件を土佐藩邸に通告してきた。中岡は、彼を陸援隊の白川陣営に引き取ることを相談するために、龍馬の下宿を訪れた。

※ ここは、福岡不在というワンクッションを入れるかどうかの違いはあるが、中岡が訪問したのはほんの偶然である点は共通している。

(追加) と、いうことは、たまに「狙われていたのは中岡の方だった」説を唱える人もいるのだが、そいつはちと怪しいことになる。 


(2) 応対場所

 『竜馬』では、こうある。
 数日前から風邪をひいていた龍馬は、その日も熱が高く土蔵で寝ていたのだが、中岡が来たので母屋の二階にあがり、奥の八畳間で話をした。

 私(石野)は、龍馬の体調がベストだったら、と思わないではないが、詮無いことである。

 『人物』では、こうある。
 その年の7月頃、龍馬は、幕吏の探索の眼を避けるため、京都での定宿を酢屋(※注)から近江屋に移した。
 近江屋の主人新助は土佐藩邸に出入りしており義侠心に富んだ人物だったので、龍馬を匿うよう頼まれると二つ返事で引き受け、裏庭の土蔵に一室をこしらえ、龍馬を迎え入れた。
 11月14日、風邪気味だった龍馬は、用便で母屋へ往復するのが面倒だとして母屋の二階へ引き移っていた。

 そのまま龍馬が土蔵に居たなら・・・と思わないではないが、これまた詮無いことである。

(追加 ※石野注) 上記「酢屋」というのは、土佐藩邸出入りの材木屋で、龍馬は海援隊の京都屯所としていた。講演会でいただいた地図によれば、場所は土佐藩邸の北側。三条通りから一本南に入ったところにあるようだ。高瀬川にかかる三条小橋にも、有名な池田屋にもほど近い。 

※ 中岡が来たので母屋へ移ったのか、前日から行っていたのかの違いはあるが、ほぼ同じ。


(3) 岡本健三郎の訪問

 『竜馬』では、こうある。
 話をしていると岡本健三郎もたまたま遊びに来た。
 中岡の使いで薩摩藩邸に行っていた菊屋の峰吉という少年に、龍馬は軍鶏を買ってくるよう命じた。岡本は、それをしおに峰吉とともに近江屋を出た。峰吉は鳥新で軍鶏(しゃも)を注文し、30分ほど待っていた。その間に事件は起こったのである。
 鳥新というのは、講演会資料でもらった地図によると、近江屋から南へ200mほど行って四条通りに出て、そこから東に100mほど行ったところの四条小橋たもとにある鳥肉屋のこと。

 岡本がそのまま留まっておれば、単に犠牲者がもう一人増えただけか、それとも反撃がなし得たか・・・・・。まあ、これもまたまた詮無いことである。

 『中岡』には、「菊屋峰吉遺談」を出典として、こうある。
 中岡が訪問したとき、同志の岡本健三郎、懇意な書店、菊屋のせがれ峰吉も居合わせ、世間話で時間をつぶしていた。
 そのうち、龍馬が夜食に軍鶏が食べたいというので、峰吉が使いに出ることとなり、岡本もそれを機会に座を立った。
 従僕藤吉が「御用なら私がまいりましょう」と声をかけたが、峰吉が気軽にそれを断って出かけたのが、ちょうど五つ半、今の午後9時頃だったそうである。

 峰吉が、藤吉の好意を受け入れていたとしたら・・・・・、まあ、これは単に犠牲者が入れ替わっただけだし、もと相撲取りの藤吉の方がまだましであったろう。

※ ここは、『人物』含め、ほぼ異同なし。 
 




2.刺客たちの行動

(1) 昼間の行動

 『竜馬』では、あとがき五で、今井の供述として、こう書いている。
「佐々木はこの暗殺の日の昼すぎ、刺客団を集結し、桂隼之助を探索者に仕立て、竜馬の下宿の近江屋新助方を訪問させた。
 『坂本先生は、御在宅でしょうか』
と、いんぎんに訪問している。近江屋方はなんの警戒もせず、いま御他行中です、といった。この言葉で、竜馬が京都にいることをかれらは知った。そのあと、佐々木は竜馬の帰宅を待つため、先斗町の某酒楼で会飲し、夜八時先斗町を出ている。途中、ぶらぶらして時をすごし、夜九時すぎ、近江屋を訪れた」

※ ここは、『竜馬』にしか記載がない。

※ (追加) 『歴史への招待 2』:「龍馬暗殺」(著:三好徹。日本放送出版協会)には、前回の聴講記であげた今井の供述書のうち、青山先生が略していた部分も掲載されていた。
 そこには、昼間(及び直前)の行動について、こうある。

「〜同日昼八つ時頃一同龍馬旅宿へ立越し候節、桂隼之助儀は唯三郎より申付を受け、一足先へ立越し偽言を以って在宅有無相探り候処、留守中の趣に付、一同東山辺逍遥し、同夜五つ時頃再び罷越し、佐々木唯三郎先へ立入、松代藩とか認(したた)めこれある偽名の手札差出し、先生に面会相願ひたき旨申入れ候処〜」とある。


(2) 斬撃直前の行動

 『竜馬』では、龍馬に斬りつけるまでの行動について、こうある。
 刺客の一人(佐々木)が土間に入り、二階へ来意を告げた。
 従僕藤吉がおりると、その者が十津川郷士の名刺を渡した。疑わず二階の龍馬に告げようと階段をあがろうとしたところを、今井、渡辺、高橋の三人が佐々木に代わって藤吉を追い、二階に上がりきったところで、龍馬に急を告げさせまいと六太刀斬って、絶命させた。

(なお、講演会資料では、藤吉が息を引き取ったのは、翌日夕刻とあった。)

 その騒ぎを峰吉が帰ってきたと思い込んだ龍馬は「ほたえなっ」と怒鳴ったが、それで龍馬の所在を知った刺客は、奥の間に飛び込んだ。

(石野注。同書には「ほたえな」は土佐弁で「騒ぐな」という意味とあるが、大阪でも使う。)

 『人物』には、こうある。
 今井信郎が取次ぎの藤吉に名札を出し、「松代藩の者です」と頭を下げた。
 今井は、二階にあがった藤吉を追い、組頭の佐々木は、入口で内部と戸外との連絡を兼ね、渡辺は階段の下に立ち、高橋は今井の後を追って二階へあがった。
 残る3人(※石野注。桂、土肥、桜井か?)は戸外で見張りをしていた。

 今井は、階段を昇りきったところで藤吉を後ろから袈裟懸けに斬り下げ、藤吉はひと声悲鳴に似た声をあげるなり、大きな音をたてて倒れた。
 しかし、藤吉が倒れた八畳の間と、龍馬・中岡のいる奥の八畳の間には、取っつきの六畳と仏間の六畳の二部屋があり、さらにその仏間と奥の八畳の間には襖が立てられていたため、龍馬は「ほたえな!」と叫んだが、その物音の重大性には気がつかなかった。

※ そもそも誰が声をかけ、何藩と名乗ったのか資料により食い違っていて、どうもはっきりしない。 

※ 整理するとこうなる。(平成18年4月8日追記)
  『歴史への招待 2』
(今井供述書)
『竜馬がゆく』 『人物列伝 幕末維新史』
来意を告げた人物 佐々木唯三郎 佐々木唯三郎 今井信郎
どう名乗ったか 松代藩の手札を出す 十津川郷士の名刺を出す 「松代藩の者です」と告げる
藤吉を斬った人物 渡辺、高橋、桂のいずれか 今井(ほか渡辺、高橋?) 今井




(3) 斬撃の内容

 『竜馬』では、中岡の記憶によるとして、こうある。(以下、アからウまで同じ)
ア 第
 奥の間に飛び込むなり、一人が龍馬の前額部を、もう一人が中岡の後頭部を斬撃した。

 『中岡』では、「田岡正枝氏聞書」を出典として、こうある。
 刺客は「こなくそ!」と叫んで、一人は八畳間の入口に座っていた中岡の後頭部に斬りかけ、一人は対座していた龍馬の前額部を横に薙いだ。

 『人物』には、こうある。
 今井は、両膝をついて静かに襖を開け、龍馬に、さも知り合いであるかの如く声をかけた。火鉢の右手で、床の間を背負って座っていた龍馬が「どなたかな」と今井を振り向くなり、今井は横薙ぎに龍馬の前額部を斬った

※ ここは、「こなくそ!」と叫んで飛び込んだのか、静かに入ったかの違いがある。ちょっと後者はつくりものくさい。
(追加) ちなみに、『壬生義士伝』では、「伊東の言い付けで用心棒に来ました」といって油断させた斎藤一が正座から抜き打ちざま、額を払ったと想像している。

イ 第
 龍馬は、佩刀陸奥守吉行を床の間に置いていたので、それを取ろうと背後に身をひねったが、左手で刀の鞘をつかんだとき、刺客は肩先から左背骨にかけて斬りつけた。

 『中岡』では、上記出典で、こうある。
 龍馬は床に立てかけた吉行を取ろうとしたが、肩先から左背骨へ二の太刀をうけた。

 『人物』には、こうある。
 龍馬はのけぞりざま、背後の床の間にある吉行を取ろうとしたが、今井は龍馬の肩先から背骨に二の太刀を斬り下ろした。
 龍馬の血潮が、床の間の板倉魁堂筆「山茶花」の掛軸の下部に散った。

 なお、『人物』では「山茶花」としているが、龍馬展の図録では「梅椿図」とあった。

※ 右左で若干の違いはあるが、ほぼ同じ。

ウ 第
 龍馬は跳ねるように立ち上がり、刀の柄を左手で握り、右手で鞘を上に払い飛ばそうとしたが、そこへさらに刺客は斬りつけた。
 龍馬は、鞘ぐるみでそれを受けたが、刺客の太刀は龍馬の鞘を割り、なかの刀身まで、10cmほども削って、その勢いでさらに前額部を深く薙ぎ斬った。

 『中岡』では、上記出典で、こうある。
 三の太刀は立ちあがりざま鞘のまま受け止めたが、こじりは低い天井を突き破り、敵の刀は鞘を割って勢いあまってまたも龍馬の前額を薙いだ。

 『人物』には、こうある。
 龍馬が立ち上がろうとするところを今井は三の太刀を浴びせ、龍馬は鞘ごと受けとめたが、こじりが低い天井を突き破った。
 今井の刀は、龍馬の刀を鞘ごと刀身まで削り、再度龍馬の前額を薙ぎ払った。

(追加 ※石野注) なお、京都の霊山歴史館では木村幸比古学芸課長の監修で、中岡の証言をもとに暗殺場面をミニチュア模型で再現したそうだ。
 その証言では、三の太刀は眉間に縦に入り、剣の峰に左手をかけ押し込んだとあるそうだ。模型でそれを再現しているのだが、頭にめりこんじゃってて、ずいぶんとえぐい。
 特に『人物』では、あえて「鉢巻きなりに」薙ぎ払ったとあるし、他の『竜馬』、『中岡』でも”再び”という感じなので、横に斬られたと思っていたのだが、どうなのだろう。

※ 整理するとこうなる。(平成18年4月8日追記)
  『竜馬がゆく』 『中岡慎太郎 陸援隊始末記』 『人物列伝 幕末維新史』 『壬生義士伝』 『歴史への招待 2』:「龍馬暗殺」(三好徹)
第一撃  奥の間に飛び込むなり、一人が龍馬の前額部を、もう一人が中岡の後頭部を斬撃した。
 刺客は「こなくそ!」と叫んで、一人は八畳間の入口に座っていた中岡の後頭部に斬りかけ、一人は対座していた龍馬の前額部を横に薙いだ。
 今井は、両膝をついて静かに襖を開け、龍馬に、さも知り合いであるかの如く声をかけた。
 火鉢の右手で、床の間を背負って座っていた龍馬が「どなたかな」と今井を振り向くなり、今井は横薙ぎに龍馬の前額部を斬った。
「伊東の言い付けで用心棒に来ました」といって油断させた斎藤一が正座から抜き打ちざま、額を払った。  刺客二人〜「コナクソ」と叫びながら入って来る。
 一人が龍馬の前額を斬る。
 もう一人が中岡の後頭部を斬りつける。
第二撃  龍馬は、背後に身をひねったが、左手で刀の鞘をつかんだとき、刺客は左肩先から左背骨にかけて斬りつけた。  龍馬は床に立てかけた吉行を取ろうとしたが、右肩先から左背骨へ二の太刀をうけた。  龍馬はのけぞりざま、背後の床の間にある吉行を取ろうとしたが、今井は龍馬の右肩先から背骨に二の太刀を斬り下ろした。

 額を横に斬られた傷と、右の肩から斜めに斬られた傷、この二つの傷が致命傷になったといわれている。
第三撃  龍馬は跳ねるように立ち上がり、刀の柄を左手で握り、右手で鞘を上に払い飛ばそうとしたが、そこへさらに刺客は斬りつけた。
 龍馬は、鞘ぐるみでそれを受けたが、刺客の太刀は龍馬の鞘を割り、なかの刀身まで、10cmほども削って、その勢いでさらに前額部を深く薙ぎ斬った。
 三の太刀は立ちあがりざま鞘のまま受け止めたが、こじりは低い天井を突き破り、敵の刀は鞘を割って勢いあまってまたも龍馬の前額を薙いだ。  龍馬が立ち上がろうとするところを今井は三の太刀を浴びせ、龍馬は鞘ごと受けとめたが、こじりが低い天井を突き破った。
 今井の刀は、龍馬の刀を鞘ごと刀身まで削り、再度龍馬の前額を薙ぎ払った。






(4) 斬撃後の様子

 同じく、『竜馬』では、中岡の記憶としてこうある。
 龍馬は「清君(せいくん)、刀はないか」と叫びつつ、崩れた。清君とは、中岡の変名、石川清之助のことで、この時点でも本名を呼ばぬ配慮ができたことになる。
 中岡も大刀をとる余裕がなく、脇差で渡り合ったが、ついに倒れた。しばらくして、息を吹き返したが、その時ちょうど刺客がひきあげるところだった。
 ほどなく龍馬もよみがえり、行灯を引き寄せ鞘をはらって削られた刀身を見入って「残念だった」とつぶやいた。
 龍馬は階段のところまで這って「新助、医者を呼べ」と声をかけ、欄干をつかんですわった。
 自分の頭をおさえ、白い脳漿がまじっているのを見て、中岡に澄んだ微笑を浮かべ「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」といって、息を引き取った。 

 『中岡』では、「田岡正枝氏聞書」を出典として、こうある。
 龍馬は「刀はないか」と中岡に呼びかけ気絶。中岡はそれまで、背後の屏風の後ろに置いてあった太刀をとることができず、信国在銘の短刀で応戦していたが、初太刀の痛手に加え数創をうけ昏倒していた。
 刺客は、刀を振るって中岡の腰のあたりを二度までたたき、「もうよい、もうよい」と言葉を残して立ち去った。中岡は、その痛みで蘇生したが、死んだふりを装っていた。
 やがて、龍馬も蘇生し、刀を抜いて無念げに眺め、階段の降り口までにじり出て家人をよんだが「もういかん」といい、仰向けに倒れた。

 『人物』には、こうある。
 「石川、刀はないか」と叫んで龍馬は昏倒。
 高橋も部屋に飛び込むなり、中岡の後頭部に深く斬りつけていた。中岡は傍らの貼り交ぜの屏風のかげに太刀を置いていたため、やむなく脇差で応戦したが、さらに数太刀を浴び、倒れた。
 中岡の血潮が屏風の左下の猫の絵にしぶいた。
 渡辺と佐々木が部屋に入ってきて、渡辺が倒れている中岡の腰に二度斬りつけたが、佐々木が「もうよい」とたしなめ、全員引き揚げて行った。
 中岡は最後の太刀の痛みで意識を取り戻したが、仮死を装っていた。

※ ここも、中岡を変名で呼んだ点を含め、概ね異同はないといえる。



3.刺客たちの正体

(1) 新選組

 講演会でもあったが、当初は新選組の犯行と考えられていた。
 『竜馬』のあとがき五では、こうある。
 当初、新選組のしわざとされ、谷干城(もとの土佐藩上士谷守部)は、生涯そう信じていた。

 その理由としては、三つある。
ア 現場に下手人の遺留品として蝋色の鞘が残されていた。
 そして、伊東甲子太郎(石野注。伊東はこの頃、藤堂平助らを引き連れ新選組を脱退し、御陵衛士という別団体をつくっていた。事件直前の13日、近江屋を訪れ龍馬に、新選組が命を狙っているので土佐藩邸に移るよう勧めたという)が、その鞘を見て原田左之助のものだと証言した

イ 中岡の記憶では、刺客の一人は「こなくそ」といって斬りかかってきた。
 「こなくそ」は、四国、それも伊予(愛媛県)でよくつかわれる言葉だが、原田は伊予人であった。

ウ 現場に、瓢箪形の中に「亭」という字を入れた焼印のおされた下駄が残されていた。
 これは先斗町の瓢亭のもので、新選組がよく出入りしていた

 鞘と下駄を物証として谷は幕閣永井尚志(なおむね)に抗議。永井は新選組局長近藤勇に問いただしたが、「存ぜぬ」というのみだった。

 のちに、いろは丸事件で龍馬に恥をかかされたことを恨みにおもった紀州藩の用人三浦休太郎が新選組をそそのかせたという説が有力となった。
 陸奥陽之助が襲撃隊を募り、12月7日、三浦が新選組斎藤一大石鍬次郎らと酒宴を催していた天満屋という料亭を襲撃する事件が起こった。

 鳥羽伏見の戦いで降伏した近藤勇は、本来一軍の将として切腹の扱いを受けるべきところであったが、龍馬を新選組に殺されたと考えていた土佐藩の主張で首を刎ね、三条大橋で獄門にかけられることになった。

 『中岡』では、こうある。
 中岡は重傷ながら意識ははっきりしており、「刀を手元に置かなかったのが不覚だった」とか、「こなくそ」と叫んだ言葉から、刺客は四国の者ではないかなどと語った。

 事件後の11月18日の晩、伊東甲子太郎が七条油小路で暗殺され、同志が遺体収容にかけつけた際、待ち伏せていた新選組に藤堂平助らが斬殺され、生き残った者が薩摩藩邸に潜伏した事件があった。
 谷守部らが彼らを訪ね、近江屋に遺棄された蝋色の鞘を見せたところ、「これは新選組原田左之助の差料だ」との証言があった。「こなくそ」が原田の故郷伊予の方言であることと考え合わせ、疑惑と憤慨はもっぱら新選組に向けられた。

 また、陸奥源二郎(宗光)の耳に、龍馬暗殺を指示したのは紀州和歌山藩の用人三浦休太郎であるとの説がはいった。
 土佐藩邸では厳重に復讐禁制の令が出ていたので、陸奥は密かに同志を募り、16名で三浦らを油小路花屋町の天満屋に襲撃した。  

(2) 見廻組

ア 大石鍬次郎の証言

 これも、『竜馬』あとがき五より。
 新選組で人斬りといわれた大石鍬次郎(上記の天満屋事件にも居合わせている)、後に捕縛された際、「龍馬暗殺は、新選組ではなく、見廻組によるものだ。事件の翌日、近藤勇らが、剛勇の龍馬を仕留めた見廻組の今井信郎、高橋某を誉めていた」と語った

 下手人の隊名、固有名詞が出たのは、これが初めてである。組頭の佐々木唯三郎は既に戦死していたので、維新政府が今井、高橋の行方を探したところ、函館戦争の降将の中に今井の名があった。

 刑部省の長官佐佐木三四郎高行)が取調べを行い、今井が自白した供述書が残っている。

 今井は、後に大正8年6月25日、79歳で没した。

イ 今井信郎の証言

 講演会資料でもあったが、今井自身は、自分(今井)は直接実行犯ではなく、2階には上がっていない。太刀をふるったのは、渡辺、高橋、桂の3人だと証言している。

 また、これも講演会資料であるように、判決書において佐々木も「(今井が)手を下さずと雖も」と、今井が直接実行犯でないと認定している。
 しかし、見廻組の犯行であるとしているのは間違いない

(追加) 上記「龍馬暗殺」には、「龍馬が、もう一人の男とこういう所に潜んでいるので捕縛する」と命令されたと今井は供述している。しかし、中岡がその日、近江屋を訪ねたのはまったくの偶然なので、初めから知っていたのは不自然で、今井証言が「結果」からでっちあげたものである証拠だとしている。

 しかし、供述調書の「龍馬儀旅宿二階に罷在り、同宿の者もこれあり候由に付」の部分をさしているなら、三好説には納得できない。
 中岡がその日、龍馬を訪ねたのが偶然だったというのは、その通り。だが、同「宿」の者を中岡に決めてかかっていることがおかしい。襲撃後、二階から下りてきた者が「龍馬そのほか両人ばかり合宿の者これあり」とか「龍馬は討ち留め、外二人の者切付け」とかある。つまり今井証言の中で、中岡と従僕の藤吉はまったく区別されていない。
 よって、この「龍馬儀旅宿二階に罷在り、同宿の者」というのは従僕藤吉と考えればよいと思う。藤吉が龍馬と一緒に寝泊りしていたか、昼間だけ「通い」で付き添っていたのかは知らないが、少なくとも龍馬の所在に関する情報を見廻組が知った段階で、「同宿」とみなすのは中岡よりも藤吉と考える方が自然だろう。 

ウ 渡辺吉太郎の証言

 これも『竜馬』あとがき五より。
 大正4年に、京都市で息子の家に身を寄せていた渡辺一郎という老人が、先日、坂本龍馬の血縁者が京都大学に入学したという新聞記事を読んだ。これまで秘してきたが、龍馬を暗殺したのは自分である。死ぬ前に懺悔したいと近親者に語ったという内容が、大正4年8月5日付けの朝日新聞に掲載された。

 この老人の旧名が篤、又は吉太郎。今井が証言している渡辺吉太郎である。

 複数の証言があるので、実行犯についてはとりあえず見廻組と考えてよいだろう。 
 

 

 


4.暗殺者の黒幕

 実行犯としては、京都見廻組となるだろうが、暗殺を命じたのは誰なのであろうか。

(1) 通常業務(見廻組単独犯行)説

 京都見廻組は幕府が新選組設置の翌年、元治元年4月に幕臣の次男坊、三男坊などで組織した特殊治安部隊であり、浪士結社である新選組とは構成員の身分が異なるだけで任務は同じである。

 幕府側からすれば、龍馬は反幕活動家の超大物の一人であり、今井の供述にもあるように、寺田屋において逃亡する際同心を殺傷しているのだから、発見次第捕縛されても不思議ではない。

 ただ、残る疑問は、見事に坂本龍馬を当初目的通りに仕留めたのであれば、なぜそれを直ちに正式発表しなかったのかという点である。

(2) 紀州藩三浦休太郎

 出典はわからないが、『竜馬』第7巻でも、いろは丸事件で紀州藩の勘定奉行茂田一次郎は市井の浮浪を雇って龍馬の暗殺を企んだとも、明光丸船長次席岡本覚十郎が自ら龍馬をつけねらい、ある夜斬りかかったが、軽くあしらわれたとある。

 紀州藩が龍馬を快く思っていなかったことは間違いがなかろう。

 しかし、天満屋事件は濡れ衣であった(「三浦も事件とは無関係であることがやがてわかった」)と『竜馬』に書かれている。

(3) 幕府目付榎本対馬守道章

 『竜馬』あとがき五には、幕閣の誰が見廻組に下命したのかはよくわからないが、勝海舟は、明治2年4月15日付けの日記で、「指図をした者は、あるいは榎本対馬」と書いているとある。

(4) 会津藩手代木直右衛門

 最近、事件の翌日である11月16日付けで、会津藩の重臣手代木直右衛門が、彦根藩重臣の石黒伝右衛門あてに、内密に相談したいことがあるので祇園まで出てきてくれと呼び出す内容の手紙が発見された
 手代木は、佐々木唯三郎の実兄である。この手紙は、弟に命じて龍馬を暗殺した会津藩手代木が、大老井伊直弼を桜田門外の変で失ったものの佐幕の中心である彦根藩と善後策を相談しようとしたのではないか(あるいは彦根藩も当初から関与していた)と考えられている。

(5) 御陵衛士伊東甲子太郎

 前述のとおり、伊東は事件の直前に、あえて新選組の犯行が予想されると示唆している。
 また、具体に、原田左之助の名前を挙げている。

 勘ぐれば、鞘と下駄も、何かいかにも新選組に罪をなすりつけようとした意図的な遺留品のようにも思える。

 『竜馬』には、伊東は「満二年半、新選組の副総裁格をつとめたあげく、時勢の変転を機敏に察し、この慶応三年の三月、脱退した。〜その賄いは薩摩藩からひそかに出ていたから、名目はともかく実質上の倒幕団体であり、新選組の目からみれば裏切り者であった」とある。(事実、伊東自身、事件直後の11月18日に京都油小路で新選組に暗殺されている。)

 伊東にとっても当然新選組は敵対団体であるから、志士たちの恨みを一身にかう龍馬殺しの罪をかぶせたと考えられる。

 『壬生義士伝』(著:浅田次郎。文藝春秋)上巻P267以下でも、登場人物の一人に、慶応3年11月の段階で、龍馬は幕府を倒さないですむ途を必死でさぐっていたのだから、新選組にとっても京都見廻組にとっても殺してはいけない人物だった。龍馬殺しの犯人は伊東だと言わせている。

 『壬生義士伝』では、さらに、道場剣法にすぎぬ伊東には龍馬を斬ることは無理で、実行犯は、新選組(おそらく指示は土方)が、伊東のもとに送り込んだ間者の斎藤一であろうとしている。
 伊東から龍馬暗殺の密命を受けたとき、斎藤は、これは罪を新選組になすりつけようとするものと気付いたであろうが、間者と悟られぬためにはやらねばならない。
 機密事項だから、おそらく告げられたのは決行直前であり、斎藤は新選組に報せる余裕もなく、御陵衛士としての務めを果すしかなかったと想像させている。
 

(6) 薩摩藩西郷隆盛

 龍馬の大政奉還は、薩長ら武力倒幕派の振り上げた拳のおろし所を無くさせるものであった。最も過激な武力倒幕派といえば、薩摩の西郷隆盛である。
 既述のとおり、伊東の御陵衛士は薩摩藩の金で養われていた。龍馬にこれ以上幕府を温存させる工作を続けさせたくなかった薩摩藩が伊東に命じた。(先述の『壬生義士伝』では、「龍馬が死んで、一番得をするのは〜武力倒幕を望む、薩摩と長州〜薩摩がやらせた。西郷さんが知っていたのかどうかはともかく、大久保が絵図を描いた」としている。)

 伊東が、龍馬に用心するよう忠告したのは、新選組の仕業と印象付けるためのものとも考えられるが、薩摩藩に命じられた伊東が、良心の呵責に堪えかねて、(さすがに薩摩藩とは言えないので)ふともらしたひとことなのかもしれない。

(6) 土佐藩後藤象二郎

 『竜馬』にも、後藤は龍馬に教えられた大政奉還の案を自分で考案したかのようにして山内容堂に献策し、激賞された。「後藤は面目をほどこした。この男はこの巨案が何者によって立案されたかということを、ついに容堂には言上しなかった。容堂は維新後、それを知った」とある。

 龍馬暗殺の理由は、その真相がばれないようにするためだという説である。

 


 龍馬暗殺の黒幕が土佐藩とか、薩摩藩というのは「話」としてはおもしろい。また、伊東なんかの行動はいかにもクサい。
 しかし、現実は、きっとそれほどドラマチックなものではないのだろうな。

 後藤説にしても、龍馬は、後藤自身の献策という形でないと容堂が最初から耳すら傾けないことは承知の上だったのではないか。また、後藤は確かに相当いいかげんな人物であるし、龍馬の死後、いわば龍馬の遺産ともいえる船舶などを岩崎弥太郎に下げ渡し、代わりに土佐藩の負債(かなりの部分は、後藤が私的に浪費した)を肩代わりさせた。しかし、後藤はそのために龍馬を殺すような陰湿な計画性は持ち合わせていないように思える。

(追加)

 上記「龍馬暗殺」で三好氏は後藤説に立っている。
 理由としては、
(1) 中岡にとどめをささず、冷静に「もういい」と言っている。つまり、龍馬だけが狙いであった。かつ、行灯の暗い灯りのもとでも、既に致命傷を与えている方が狙いの龍馬であるとわかっていた。つまり、龍馬の顔付き、特徴などを知っていた(聞いていた)。
(2) コナクソというのは四国の方言である。(土佐の後藤が刺客を依頼するなら四国の者の可能性が高いであろう)
(3) 後藤は大政奉還を献策した功で千五百石もの褒美をもらっており、実は龍馬のアイデアであるとばれるのはまずかった
(4) 後藤は、武市半平太に吉田東洋を暗殺され、後藤は武市を処刑した。いわば、両者は本来仇敵の間柄だった。
(5) 維新後も板垣退助ほか土佐藩の者は、龍馬を口々に称揚したのに、後藤のみは龍馬について死ぬまで口にしなかった
(6) 田中光顕や谷干城は明治になっても必死で龍馬暗殺の犯人を探索し続けていた。しかし、佐佐木高行は、彼らに、公的に暗殺事件の真相は既に判明しており自分が判決を下したということを一言も告げていない。要するに、佐佐木は、この事件は土佐上層部が関与したもので、でっちあげ判決であると自覚していた・・・などである。
 ただ、後藤説に対する私の意見は上記のとおりである。「龍馬展」の龍馬の手紙の書き振りを読んでも、その感を強くした。

 薩摩藩の西郷や大久保にとって、(また、長州の桂や、土佐の中岡などにとっても)龍馬の大政奉還策は「ここまで来たのに、今さら何を言い出すねん!?」と言いたくなるような迷惑なものであったろう。
 しかし、10月に大政奉還がなった”後”で殺すだろうか。西郷や大久保なら、本当に殺すつもりであれば、龍馬が動き始めた段階で、顔色も変えずに殺しているのではないか。

 この頃、幕府や各藩への働きかけ、つまり表舞台で動いていたのは、もっぱら後藤である。
 『竜馬』では、「近藤(勇)は後藤〜にいよいよ感服し、局の幹部をあつめ、『土州の後藤には手を出すな』と命じた」とか「『おれは後藤を斬ろうとした』と、中岡はいった」とか、「太刀をふりあげ、いまにも後藤を真っ向微塵に斬りさげようとしていた。西郷の心酔者で通称人斬り半次郎、のちの桐野利秋である」といった描写がある。もとより、『竜馬がゆく』は史書でなく、小説だが、後藤が命を狙われていたのは事実だろうと思う。

 それで、龍馬についてなのだが、薩摩藩黒幕説が有力なようだ。私は観てなかったので何とも言えないのだが、NHK『新選組!』でも、その説だったとか。
 たしかに、薩摩の「政治性」は黒幕として疑いたくなる。しかし、前述のとおり、私は、西郷や大久保は、殺すつもりなら、動き出した段階で殺しているだろうし、一応、大政奉還がなった後なら、別に今さら龍馬は殺しても仕方ない。別に形の上で大政奉還がなっても武力倒幕が必要だと思ったら、挑発して、そうしようとしただろうし(また、実際にそうしたし)、薩摩の公的プロジェクトとして龍馬暗殺がなされたのではないだろうと思う

 ただ、何度も言うが、龍馬は当時、所在さえ知れれば、新選組や京都見廻組にとっては当然の警察行為として捕縛(殺害)の対象となる存在だった。
 直接龍馬を斬らなくても、龍馬がここにいると彼らに情報提供するだけで事は足りるのである。

 『竜馬』「あとがき」で、上記の近藤と後藤の逸話のように、徳川慶喜が誰から聞いたか龍馬の名を知り、永井尚志に、龍馬には手をつけぬよう見廻組、新選組管掌者に言い含めておけと命じたのだが、翌朝永井がそれを伝えようとしたとき、暗殺の報に接したという逸話が紹介されていた。
 それが史実なのかどうかわからないのだが、逆に言えば、そうした指示がない限り、いつ殺されてもおかしくない男であった。

 歴史上の事実というのは、有名な人物が立派な見識をもって、大所高所に立った判断のもとになされるものばかりではない。
 たまたま龍馬の所在を知り得た何者かが、大した考えもなしに、ただの気まぐれ・いたずら心や、嫉妬の思い、功名心、偏った忠義立てなどから、それを幕府側に伝え、この事態を引き起こしたという可能性まで否定するものではない

 



 今の私たちは、いろいろな史実を鳥瞰的に知っているからこそ、新選組や見廻組が大政奉還を進めている龍馬を殺す筈はないなどと判断できるが、当時そのようなことは、ごくごく一握りの上層部しか知り得なかったことだろう。当時、毎日のように勤王派の志士は新選組や見廻組、または幕吏などに捕縛、斬殺されていた。現場の実行部隊は、日常的に密偵活動を続けており、龍馬もその中で、けっこう事務的に殺されたのではないのだろうか

 

 どうも長々とお疲れ様でした。

 
  

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