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(No19) 京都国立博物館「龍馬の翔けた時代」鑑賞記 その3

 この「龍馬の翔けた時代」の開催期間は平成17年7月16日から8月28日。
 直接的な関連イベントではないのだが、「京都らくご博物館」というイベントがあったので、その日に観に行った。
 で、その鑑賞記の続き。



6章 薩長同盟と長幕海戦


64−7 坂本龍馬書簡(慶応3年9月20日付け。木戸孝允宛)

  本書簡で興味深いのは、「乾退助ニ引合置キ〜後藤庄次郎を国にかへすか〜」という一節。
 図録の解説では「龍馬は大政奉還策の後藤を引っ込めて、武力倒幕派の乾退助(板垣退助)を上京させようかと述べている」とある。
 

65 (附) 龍馬による密約の裏書(慶応2年2月5日)

 65は、木戸孝允書簡 薩長同盟密約(慶応2年1月23日付け。坂本龍馬宛)である。

 図録解説では、「龍馬らの努力の結果、慶応2年1月21日に京都の薩摩屋敷で薩長同盟が成立した。本書簡は長州藩代表の木戸孝允桂小五郎)が六条の薩長同盟密約の内容を記して立会人の龍馬に確認を求めたものである。木戸は京都から長州への帰途、1月23日に大坂でこの書状を認めたが、龍馬が寺田屋で襲われた日でもある」とある。

 『竜馬がゆく』6巻P242では「桂とは、妙な男である。
 これほどまでに感動していたくせに、なお薩人を全面的に信ずることができず、この日から半月後に竜馬に長い手紙を送り、『また薩人がわれわれをだますかも知れぬ。すまぬが、大兄の裏書きがほしい』と、盟約の各項を書いたものを同封してきた。竜馬はやむなくその裏へ、
 表に御記被成(おもてにおしるしなられ)候六条は小(小松帯刀。こまつたてわき)、西(西郷隆盛)両氏および老兄、竜等も御同席にて談論せし所にて、毛(すこし)も相違無之(これなく)候。将来といへども決して変り候事無之は、神明の知る所に御座候。
丙寅二月五日 坂本竜

という裏書を書きしたためている」とある。

 この朱書きの裏書は、チラシその2をご参照ください。どうやら、京都国立博物館HPの展示作品紹介はもう閉鎖されてしまったようです。
 

70 長幕海戦図(坂本龍馬 筆)

 図録解説に「この海戦図は慶応2年6月17日の戦闘の様子を龍馬が描き土佐の兄坂本権平に送った書簡の一部分」とある。

 同6巻P379には「オテントサマ号というのは、上海で売りに出ていた200トンの古軍艦である。
 この3月、高杉が長崎に滞留していたとき、グラバーからこの話をきき、さっそく船価4万両で買いとった。

〜高杉艦隊はオテントサマ号を旗艦に、癸亥丸(きがいまる)の二艦である。これは田野浦砲台の襲撃に向かう。
 坂本艦隊はユニオン号を旗艦とし、庚申丸をひきいてゆく。

〜僚艦の庚申丸は風帆船である。〜小倉藩の沿岸砲の好目標になってしまい、しきりと艦体に敵弾が命中しているようであった。
〜この戦況を、竜馬自身の描いた戦況図とかれの説明文によると、
『長州船は帆船のため弾丸ニ十ばかり中(あた)る』とある。

〜さらに右手の巌流島のむこうに敵艦らしき三隻の艦影がみえる。
〜竜馬の文章によると
『このあたりに』と戦況地図の一ヵ所に三隻の軍艦の絵を描き、
『小倉・肥後、幕の蒸気船、出たり引込んだりして居たけれども、何故にや、救ひに来たらざりき』と説明している」とある。



7章 海援隊と龍馬の交友

82 井口家アルバム

 龍馬が暗殺された京都近江屋の子孫に伝えられたアルバム。

 図録に載せられた写真のうち、「幕末写真館」というサイトでは、中島作太郎(信行)、後藤象二郎山内容堂高杉晋作木戸孝允(桂小五郎)、お竜

「坂本龍馬と海援隊」というサイトでは、菅野覚兵衛渡辺剛八山本洪堂・・・・・が、それぞれ載せられているので、ご参照されたい。

 
85−2 近藤長次郎写真

 近藤長次郎、通称「饅頭屋」は、私にとって脇役ながら非常に印象の強い人物の一人である。
 同6巻P129には「高知城下、竜馬の生家の裏側の道路には、水道がながれている。だから一帯を、水道町といった。
 水道町に、大黒屋というまんじゅうやがある。長次郎はその家の子である。
〜藩ではその秀才ぶりに驚嘆し、町人ながらも苗字帯刀をゆるし〜た。土佐藩ほど階級にやかましい藩が、一介の書生をその学問のゆえに武士待遇にした、というのはめずらしいことである」としている。

 近藤は、龍馬に代わり、長州藩の兵器購入の周旋をみごとにやってのけた。井上聞多伊藤俊輔を英国商人グラバーにひきあわせ、最新式の武装を短時日で完了せしめ、これを多とした長州藩主毛利敬親(たかちか)に破格の拝謁をゆるされたほどであった。

 礼をしたいという井上、伊藤に、英国留学させてくれないかと頼み、了承された。しかし、近藤はこれを亀山社中の同志には一切隠していた。
 英国留学も日本人の私的な海外渡航は正式には認められていないから、形の上では「密出国」となる。密出国と同時に密脱盟しようとしていたのである。

 近藤が写真術の開祖上野彦馬を訪ねた時のやり取り、そして、近藤の野望が洩れたきっかけを同6巻P345では、こう描いている。
「竜馬に心酔しているこの男は、決して髪に櫛を入れず、びん髪のそそけ立つままにまかせている。えりもとはみだれ、小倉袴にはのし目がなく、乞食袋のようによれよれになっていた。
 小柄なくせに、大刀がめっぽう長くて、ぶかっこうとも何とも言いようがない。足は素足で、下郎のはくような竹の皮草履をはいていた。
『よろしゅうござるな』
『あ、待ってくだされ』
と、饅頭屋はふところから六連発のピストルをとりだし、引きがねに指をかけ、その手を膝の上に置き据えた」

 上野から出来上がりは15日ほどかかると言われ、出国が3日後であったため何とか間に合わせてくれと頼み込んだ。その押し問答の中で、つい密出国のことを洩らしてしまい、その壮挙に感動した上野は善処を約束した。
 翌日、社中の白峰駿馬という男が写真を撮ってもらいに上野を訪ねた。上野は、同じ社中の白峰は当然近藤の出国を知っていると思ったので、英国渡航を控えた近藤の写真が急ぐので、と断り、秘事が社中の知るところとなった。

 社中には「凡(およ)そ事の大小となく、社中に相議してこれを行ふべし。もし一己の利のためにこの盟約に背く者あらば、割腹して罪を謝すべし」という隊則があった。
  龍馬がおればうまくさばいていただろうが、薩長同盟、寺田屋の難などで長期の留守であったので検断は沢村惣之丞(別名、関雄之助)に一任されることになった。
 同6巻P352はこう続ける。
「『弁疎は無用だ。みずからをかえりみて直(なお)くんばそれでよし。やましければ席を立って奥座敷へゆき、さっさと腹を切ればよい』
と、関雄之助はいった」。

 なりふりかまわず命だけは助けてくれと涙ながらに嘆願することも、社中の皆は彼を残し、町へ出てしまっているのだから逃亡することも可能であったろう。
 しかし、近藤は町人あがりであるゆえに、なおさら「武士らしさ」、「潔さ」にこだわらずにはいられなかった。

85−3 梅花書屋居士袴裂

 図録解説には、近藤の切腹は慶応2年1月14日とある。梅花書屋居士とは、近藤の戒名。この市松模様の袴切れ端の裏地には、切腹時の血痕が付着している。


 写真は、前出「坂本龍馬と海援隊」というサイトのここで。または「幕末写真館」というサイトのここで。出展されていた高知市民図書館蔵の写真と同じものだと思います。
 前者のサイトでは白峰駿馬、そして沢村惣之丞の写真も掲載されています。

94 龍馬俚謡(慶応3年 梶山鼎介宛)

 同6巻P369に「(これをつまり、朝がえりというのだな)
 竜馬はちょっと蕩児のような気分になりながら、上機嫌で本博多町への道をいそいだ。
〜その上機嫌のまま、小曾根の離れ座敷にもどると、おりょうは気むずかしい顔をして煎茶の仕度をしていた。
(これはいかん)
〜即興の唄で返答しようというのである。

『恋は思案のほかとやら
肥前の瀬戸の丸山で
猫も杓子も面白う
あそぶ郭の春景色
ここに一人の猿まわし
狸いっぴき振りすてて
義理も情けも無き涙
ほかに心はあるまいと
掛けて誓いし山の神
家(うち)にいるのに心の闇路
さぐりさぐりて出(いで)てゆく』

 舌打ちしたくなるほどおりょうが腹が立ったのは、彼女が言うべきせりふまで早手回しに唄の中に織りまぜられているのである」とある。

 小説では長崎丸山のお元と遊んだことになっていたが、図録解説では、慶応3年春、下関の伊藤家でおりょうと暮らしていた頃、下関稲荷町の遊郭で朝帰りした龍馬が、その時偶然訪れた長府藩の梶山鼎介に三味線を弾きながら即興で作って唄ったものとある。
 よって、実物で「あなとのせとのいなりまち」となっているのを小説では丸山に替えられている。


96−9 龍馬書簡(慶応3年5月28日付け。伊藤九三宛)

 慶応3年4月23日の夜、海援隊のいろは丸が紀州藩明光丸に激突され沈没した。龍馬は万国公法に拠って賠償金を取り、もって後世の範にしようとした。

 本書簡では「後藤庄次郎も大憤発ニてともに骨折居申候。

此頃長崎中の商人小どもニ至るまで唯紀州をうての紀州の船をとれのと〜知らぬ人まで戦をすゝめに参り申候。

〜薩州へたのみてわびを申出候得ども〜鞆の港へすておかれ候事ハ〜私ニあいさつ致した位でわ すみ不申(もうさず)〜」とある。

 前段、後藤云々の部分は同7巻P273に「土佐の本国から、参政後藤象二郎が長崎にやってきた。〜
『どうだろう、問題解決の法を藩にあずけてくれては』
と後藤は言った。竜馬は了承した」とあるように後藤が補償交渉を引き受けたことをさすのであろう。

  また、中段は、同7巻P268に「ひまで、親切者が多い土地だから、西浜町の海援隊本部(土佐屋)にやってきては、
『しっかりお願い申します』
と声をかけてゆく町人が毎日数えきれない」とあるように、長崎のまちで、ちっぽけな浪人結社海援隊と五十五万五千石、徳川三百諸侯筆頭の紀州藩との喧嘩が話題となり、龍馬らが市民の絶大な支持をうけたことをさす。

 後段の「薩州へたのみて」というのは、同7巻P280に「紀州藩はすでに敗北を覚悟していた。〜そこで適当な調停者はないかと物色するうちに〜伊予松山藩の小村大介という者が、
『薩摩藩の五代才助がいい』
と智恵を貸してくれた。
〜『紀の者が先刻きて』
と、五代は竜馬に会うなりいった。
『おいに調停してくれと頼んだ。土も、如何、おいにまかせてくるるか』」とあるのをさす。

 また、「鞆の港へすておかれ」というのは、同7巻P250で
「『高柳楠之助殿と申されたな』
と、竜馬は、この紀州藩の船長にいった。
『わが船は沈んだ。事後の始末について話しあいたい』
『この船は長崎にゆく』
〜海難事故は、事故現場のそばで解決するのが国際的常識である。〜
『この近くの港といえば備後の鞆(現在、福山市に編入)だ。そこまで舵をまげられよ』

〜腰越が海をみてあっと叫んだ。港内にうかんでいる明光丸の煙突から煙がのぼりはじめた。汽罐(かま)を焚きだしたのである。
〜(まさか)
と竜馬は近視の目をそばめ、港内の明光丸を見つめると、なるほど煙があがっている。
(やつら、そこまで舐めたか)」とあることをさす。
 このことは、よほど龍馬は腹に据えかねたようで、88 龍馬書簡(慶応3年5月28日付け。おりょう宛)でも「土佐の士(サムライ)お鞆の港にすておきて長崎へ出候ことハ中ゝすみ不申」と書いている。

98 三吉慎蔵日記抄録

 先述した伏見寺田屋の難に遭った時の記録が興味深い。
「拙者ハ手槍ヲ構ヘ坂本氏ヲ後ニ立テ」と三吉が龍馬をかばっているようだし、親指を斬りつけられ負傷した「坂本氏ヲ肩ニ掛ケ」寺田屋を脱出したようである。

 裏手の民家を蹴破って血路を開き、材木置き場の棚へ上がったことも書いてある。
 また、寺田屋内で囲まれた時に「此上ハ拙者必死ニ打チ込ント云フヲ坂本氏引止メ」るところや、棚の上で「種々死生ヲ語リ最早逃路アラス 此処ニテ割腹シ彼レノ手ニ斃ルヲ免カルニ如カスト云フ 坂本氏曰ク死ハ覚悟ノ事ナレハ君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ 若シ途ニシテ敵人ニ逢ハゝ必死夫レ迄ナリ僕モ亦タ與所ニテ死センノミト」いうところも書かれている。
 同6巻P267などに描かれた、三吉がともすれば短兵急にもはやこれまで、と命を捨てようとし、龍馬がそのたびにあきらめずに生き延びる可能性を探っていくシーンである。

 ともに死地を脱した三吉と龍馬の間には、深い友情と信頼が築かれたようである。

 103 龍馬書簡(慶応3年5月5日付け。三吉慎蔵宛)で「一同なんだ(涙)おはらい難有がりおり申候」とある。いろは丸が沈んだ際、龍馬と海援隊隊士は4月29日から5月8日まで下関に滞在し、三吉のもてなしを受けたが、三吉の懇切な歓待ぶりが想像できる。

 また、104 龍馬書簡(慶応3年5月8日付け。三吉慎蔵宛)では、おりょうの身の振り方を三吉に託している。

107 紋服(重文。坂本龍馬着用)

 龍馬が滞在していた京都河原町の醤油商井口家に伝わったもの。
 画像は、チラシその3にて。  





  あともう少しなんだが、近藤長次郎への思い入れなどもあって、長くなったので、ここでいったん切りたい。しかし、近藤が無尽燈を見あげ、心の中で(すこし、あせりすぎた)とつぶやくシーンなど、ほんと大好きなのですよ。

 どうも長々とお疲れ様でした。

 
  

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