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(No18) 京都国立博物館「龍馬の翔けた時代」鑑賞記 その2

 この「龍馬の翔けた時代」の開催期間は平成17年7月16日から8月28日。
 直接的な関連イベントではないのだが、「京都らくご博物館」というイベントがあったので、その日に観に行った。
 で、その鑑賞記の続き。



5章 親しい者への手紙


  本展示会のメインは、龍馬の書簡であって、チラシには「現存する龍馬の書簡の約半数にあたる60余通の直筆書簡を展示いたします」とある。

 私は書道についてはわからないのだが、龍馬の字は、久坂玄瑞のそれなどと比べると伸びやかで、それこそ”奔馬”のような勢いがある。

 あと気付いた特徴としては、漢字に振り仮名がついたり、難しい単語には、小さな平仮名で注釈がついたりして、親切である。

 助詞の「は」は、カタカナで書かれる。後述の57書簡では、「おつかハし」と助詞以外でも「ハ」を使っている。
 思うに、龍馬は、邪魔臭がりなので、平仮名で「は」と筆先をくねくねさせるのが好きでなく、手っ取り早く、カタカナで左右にちゃっ、ちゃっと「ハ」と書くことを好んだのではないか。
 これも龍馬が草書体の続け字で手紙を書いていたら、逆に「ハ」というのは流れを途切れさせてしまうが、龍馬は続け字はあまり用いないのである。 

  


55 龍馬書簡(推定慶応元年夏=1865。坂本乙女宛)

 54 龍馬書簡(推定慶応元年夏。池内蔵太宛)では、池自身に、風邪と聞いたがお大事に、と見舞っている。
 56 龍馬書簡(推定慶応元年秋。坂本乙女宛)では、池の母の安否を尋ね、「蔵ハ〜一軍の参謀となり〜事なき時ハ自ら好て軍艦ニ乗組候て稽古致し候〜」と書いている。

 本書簡でも、「池蔵ハ此頃八度の戦 段々軍功もこれあり〜」と書いている。

 36の書簡もそうだが、いかにも池内蔵太を弟のように親身に可愛がっていることが感じられる。

 池は数奇な運命をたどった。
 同6巻P327は「池内蔵太ほど、勤王志士として華麗な前歴をもっていた男も世にないであろう。土佐脱藩後、文久3年、天誅組の挙があったときこれに参加し〜元治元年の蛤御門ノ変では長州軍のなかにあり〜長州藩が4カ国連合艦隊に攻められたとき遊撃隊参謀として奮戦し、のち竜馬の団体に投じた」とある。
 それほど歴戦の勇士であり、死地を何度も奇跡的に脱してきた男が、亀山社中所有(出資者は薩摩藩)の帆船を船将(キャプテン)として航海中、暴風雨に巻き込まれ沈没。池は船将として一人船橋にとどまり、船と運命をともにしたのであった。 

57 龍馬書簡(慶応元年9月7日付け。坂本権平・乙女・おやべ宛)

 『竜馬がゆく』では、乳母の名前が「おやべ」さんなのでややこしいのだが、本書簡では宛名に「おやべ」とあり、その後の追伸部分で姉の乙女に「かの南町のうバ どふしているやら
時ゝきづかい申候。もはやかぜさむく相成候から、なにとぞ わたのもの御つかハし〜」と乳母に優しい気遣いをみせている。
 だから、宛名の「おやべ」は乳母ではなく、図録で62−11の解説にあるのと同様、姪の春猪の別称なのであろう。

60 龍馬書簡(推定慶応2年頃。坂本春猪宛)

 同4巻P385では「竜馬が、勝海舟に従って長崎に向かったのは文久4年つまり元治元年2月9日のことであった。
〜長崎に入ったのは、この月の23日であった」。そして長崎でフランス製のおしろいを買い、姪(兄権平の娘)春猪に手紙とともに送ったとしている。そして、その手紙というのが
「このごろ、外国のおしろいともうすもの御座候。ちかぢかのうち、差しあげ申し候あいだ、したたか、お塗りなられたく存じ候。お待ちなさるべく候。かしく   竜  
河豚の春猪殿」であるとしている。

 司馬遼太郎は、この書簡が好きなのか、2巻P258でも紹介しているが、そこでは宛名は「菊目石(あばた)の春猪殿」としている。

 本書簡が、その「したたか御ぬり被成たく存候」の書簡である。
 宛名は河豚でも菊目石でもなく「春猪御前」となっている。また、署名は「竜」ではなく、龍馬となっている。 

62−1 坂本八平訓戒書(重文。嘉永6年3月17日付け。龍馬宛)

 同1巻P146では遊里の冴という女性から誘惑された龍馬が、こんな行動に出ることが描写されている。

「『守り袋じゃ。ここに、それはいかんと書いてある。』
〜龍馬がこのとき守り袋からとりだした紙きれには、こんな色里で披露するには似つかわしくない無骨な父の八平の筆蹟で、こう認(したた)められていた。

一、片時も不忘忠孝(ちゅうこうをわすれず)、修行第一之事
一、諸道具に心移り、銀銭不費事(つかわざること)
一、色情にうつり、国家之大事を忘れ心得違有間(こころえちがいあるま)じき事右三ヶ条胸中に染め、修行を積みめでたく帰国専一に候事。以上。
丑三月一日                    老父
龍馬殿」

 図録写真では「丑ノ三月”吉”日」とある。また、解説や出品目録には「”十七”日」とある。どれが正しいのであろうか。

62−2 桂小五郎書簡(重文。慶応2年2月22日付け。龍馬宛)

 図録解説によると、後に出てくる裏書の礼と寺田屋で襲われて負傷したことに対する見舞いの手紙らしいが、私にはちょっと読めない。ぼやっと見ていると何だかパスパ文字とかウィグル文字とか、そんな感じがする。


62−6 坂本龍馬書簡(重文。慶応3年6月24日付け。坂本乙女・おやべ宛)

 龍馬は、後藤象二郎とも接触したが、この会合は土佐藩の上士・郷士双方から裏切り者扱いされた。
 同7巻P145に「龍馬の姉の乙女でさえ怒った。
『〜後藤象二郎は、半平太殿をはじめ幾多の勤王志士を殺した人物ではないか。そなたは、その仇敵と手をにぎった〜』という急便を送ってきたほどであった。〜
 龍馬は、この乙女の叱責の手紙に対し、つぎのような手紙を書き送っている。
『私一人にて五百人や七百人の人をひきい、それによって天下のお為をするより、二十四万石をひきいて天下国家の御為を致すほうがよほどよろしく、おそれながら(と竜馬はおどけ)これらの所には乙様の御心では、少し心が及ぶまいかと存じ候。』」とある。

 ここに書かれた手紙が本書簡。
 また、同7巻P48には「『〜おれの姉(乙女)でさえ、ぶうぶう怒っちょる手紙を書きおくって来おった。お前(まん)は金儲けに脱藩したのか』 
〜竜馬の返事は大意こうであった。
『・・・乙様のおっしゃること、私が利をむさぼり天下国家をわすれている、という文意のように拝察。しかしながら他藩士のように藩費をつかう便宜もない上に、逆に、諸生を五十人も養っています。諸生一人につき一年の経費はどうしても六十両は要ります・・・』」とある。

 ここの「返事」というのも本書簡である。
 7巻P48に該当する部分を本書簡から抜書きしてみる。
「○先頃より段々の御手がみ 被下候(くだされそうろう)。おゝせこされ候文に
私を以て利をむさぼり
天下国家の事おわす
れ候
との御見付のよふ存
ぜられ候
○又 御国の姦物役人(カンブツヤクニン)
だまされ候よふ御申こし

 右ニケ条(ヂョウ)ハありがたき
 御心付ニ候得ども およばず
 ながら天下ニ心ざしおのべ
 候為とて 御国よりハ
 一銭一文のたすけお
 うけず諸生(ショセイ)の五
 十人もやしない候
 得バ 一人ニ付一年どふ
 しても六十両位ハ
 いり申候
ゆへ〜」

 また、本書簡では後藤象二郎を弁護して
「中にも後藤ハ実ニ
同志ニて 人のたましいも
志も 土佐国中で外
ニハあるまい
と存候〜」と書いている。



62−7 坂本龍馬書簡(重文。文久3年6月29日付け。坂本乙女宛)

 同4巻P384には「巷間、うわさがある。
幕府では外国艦船に手ひどくたたかれている長州藩の苦戦を黙ってみている。だけでなく、馬関海峡での砲戦で損傷した外国艦船を横浜で修理する便宜さえあたえているというのだ。竜馬の血がゆるさない。
去年、姉の乙女に手紙を送っている」とあるが、その手紙というのが本書簡。

「然ニ誠になげくべき事ハ ながとの国に軍(ユクサ)初り〜あきれはてたる事ハ
其長州でたゝかいたる船を江戸でしふくいたし〜
是皆姦吏(カンリ)の夷人(イジン)と内通(ナイツウ)いたし候ものニて候」とある。
 そして、有名な一節に続く。
「〜右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺 日本(ニッポン)を今一度せんたくいたし申候


62−11 坂本龍馬書簡(重文。慶応元年9月9日付け。坂本乙女・おやべ宛)

 本書簡では、龍馬は「おりょう」について長々と紹介している。

 『竜馬がゆく』3巻P338では龍馬と楢崎龍との出会いをこう設定している。

 龍馬はお多鶴さま(土佐藩家老福岡家の御息女)に清水の明保野亭に誘われて向かう途中、火事場の見物に寄る。燃えているのは楢崎将作という、安政の大獄で捕縛されて牢死した勤王家の医者の屋敷。
 父のかたみの脇差を取りに次郎という息子が火事場に戻った。それを追おうとした姉娘をとどめ、腰の大小を預けて火事場に飛び込み、息子を助けた。ところが龍馬は大小を預けたことを忘れて明保野亭に向かったので、そこへ先ほどの姉娘が届けに来た・・・・・というのがきっかけなのである。
 数日後彼女のことをひょっこり思い出した龍馬が焼け出され先に訪ねてみると、おりょうはいない。大坂に行ったとのことであるが・・・・・というところ。
 本書簡に書かれたおりょうの武勇伝は以下のとおり。

「〜十六ニなる女ハだまして母にいゝふくめさせ 大坂に下し女郎ニうりしなり
夫(それ)おあねさとりしより 自分のきりものをうり其銭をもち大坂にくだり 
其悪もの二人を相手に死ぬるかくごにて 
刃ものふところにして けんくわ致し
わるものうでにほりものしたるをだしかけベラホウ口(グチ)にておどしかけしに
元より此方ハ死かくごなれバとびかゝりて
其者むなぐらつかみ かを
(※ 顔)したか(したゝか?)になぐりつけ
わるもの曰ク 女のやつ殺すぞといゝけれバ 女曰ク 殺し殺サレニ
はるゞ大坂ニくだりてをる 夫ハおもしろい
殺せゝといゝける
ニ さすが殺すというわけニハまいらず
とふゝ其いもとおうけとり〜」

 要は女衒のような悪者が母(楢崎未亡人)を言葉巧みに騙しておりょうの妹を女郎に売ってしまった。それを知ったおりょうは、着物を売って旅費にして大坂へ向かい、その悪者相手に(刃物をふところにして)喧嘩(つまり、奪還交渉)をした。
 悪者は腕の刺青を見せつけ脅し文句を並べたが、おりょうはもとより死すら覚悟しているから、それにひるむどころか跳びかかって胸倉を掴んで顔を殴りつけた。
 悪者は「女!殺すぞ」と言ったのだが、おりょうは「命のやりとりをするために、はるばる江戸から大坂までやって来たんだ。そりゃあおもしろい。さあ、殺せ殺せ」と迫ったものだから、さすがに殺すというわけにもいかず、妹を返したというのだ。まったく何という行動力、無鉄砲さであろうか。



62−12 坂本龍馬書簡(重文。慶応2年12月4日付け。坂本乙女宛)

 これも有名な手紙。

 同6巻P284には「『此竜女が居ればこそ、竜馬の命は助かりたり』と、竜馬は兄権平へ書き送っている」とある。

 また、本書簡にも「今年正月廿三日夜のなんにあいし時も 此龍女が
おれバこそ龍馬の命ハたすかりたり
」とある。

 「正月廿三日夜のなん(難)」とは、薩長同盟をまとめ上げた(慶応2年1月21日)直後の龍馬が、長州の三吉慎蔵と伏見寺田屋に投宿中、幕吏の襲撃を受けた事件のことである。
 この場面は、『竜馬がゆく』の中でも名シーンのひとつと思う。

「(捕吏。)と思ったとたん、おりょうはそのままの姿で湯殿をとびだした。自分が裸でいる、などは考えもしなかった。
 裏階段から夢中で二階へあがり、奥の一室にとびこむや、
『坂本様、三吉様、捕り方でございます』
と、小さく、しかし鋭く叫んだ。
 竜馬はその言葉より、むしろおりょうの裸に驚いた」

 ともかく、龍馬と三吉はその包囲陣を奇跡的に突破した。しかしながら、竜馬は重傷を負ったので、薩摩藩西郷隆盛の好意で、傷の療養を兼ねて塩浸温泉というところへ湯治をすすめたのだ。
 龍馬は、この温泉行におりょうを伴った。
 同6巻P304には、「竜馬は〜新婚旅行」という「西洋風俗があるのをきいている。〜この風俗の日本での皮切りは、この男であったといってよい」とある。

 この手紙が有名なのは、おりょうと霧島の東峰高千穂岳に登り、頂上で、天孫降臨の際に神が突き立てたという天逆鉾(あまのさかほこ)をつぶさに眺め、二人がかりで抜いてみたというような模様を絵入りで解説している点である。
 高千穂岳の絵にイからニまでの記号をふり、それぞれの区間ごとに登山路の難易の違いを述べたり、逆鉾は、さらに別図で正面図と側面図の両方を描き、材質も述べるなど、実に詳細で具体的である。



62−14 坂本龍馬書簡(重文。文久3年3月20日付け。坂本乙女宛)

 これもなかなか有名。
 同3巻P213には「文字は金釘流だがふしぎな雅趣があり、維新志士の書のなかでは『最も風韻ゆたかな書風』といわれている。
 文章もおもしろい。当時の書簡文の型にこだわらず、云いたいことを書いている。この点、古今、豊臣秀吉の手紙の文章とともに、書簡文の傑作とされている。
 そもそも人間の一生はがてん(合点)の行かぬはもとよりのこと、うん(運)のわるい者は風呂より出でんとしてきんたまをつめわりて死ぬる者あり」とある。

  画像はチラシその2をご参照ください。「○○○○をつめわりて」というのは3行目から4行目にかけて。画像が粗いので、文章までは読めないと思いますが、悪しからず。



  まだまだ続くのだが、長くなったので、この辺でいったん切ることとする。
 どうも長々とお疲れ様でした。

 
  

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