移動メニューにジャンプ

(No173) 大阪市立美術館 没後150年歌川国芳展・記念講演会 聴講記 その1


 平成23年5月14日(土)に大阪市立美術館に「没後150年 歌川国芳展」を観に行った時の記念講演会のメモ。

 

 


「国芳の画想」  岩切友里子(浮世絵研究家/本展監修者)


 いきなりアクシデント。用意していたパワーポイントのファイルが壊れて使えないとのこと。
 で、先日外国で講演した時のファイルが残っていたので、それで講演するというのだ。

 先ほどから「WARRIOR PRINTS」とか英語のスライドが映し出されているのでおかしいな?WARRIOR PRINTSって、「戦士の版画」?それって「武者絵」じゃないの?なんて思っていた。

 会場で配付されたレジュメでは「3.洋風表現の摂取」、「4.歌舞伎 大南北(四代目鶴屋南北)の時代」、「5.見世物文化」まであったが、結局、今日は武者絵とか読本・合巻の辺までしか講演できない・・・とのことで、かなりガッカリ感の中で講演が始まった。

 いただいたレジュメの内容は、白地のコーナーで紹介。

 

(右写真は切符)

 

 

 

 

 

国芳の画想 その土壌



文化・文政という時代

 文化・文政期は、歌麿・写楽に代表される寛政時代から、さまざまな文化の性質が大きく変化を見せた時代で、この期に浮世絵師を志した青年時代の国芳は、多方面で新しい文化の洗礼を受け、その各々の要素は、後年の国芳の画作に大きな影響を与えている。

 

1.勝川春亭を中心とした武者絵の革新

 大判三枚続の定着。ワイドな画面を貫く物体。力感のデフォルメ・動感描写。

 歌川国芳は、歌川豊国と同年代の浮世絵師です。(注 私のメモにはそうあるが、国芳は豊国の弟子である。聞き違いかもしれない。まあ、弟子入りする以上、同時代は同時代なんだが)

 文政10年頃まで関東での仕事がほとんど確認されていません。売れっ子の絵師ではなかったのです。

 彼が有名になったのは「通俗水滸伝」のシリーズで、これで大変な売れっ子となりました。

 

 それまでの「読本」(よみほん)の挿絵は白黒でした。それが錦絵となってカラー化された時のインパクトは大きかったと思います。

 「通俗水滸伝」シリーズが人気だったので、今度は日本の人物による「本朝水滸伝」というシリーズなどが出版されました。
 豪傑108人とありますが、確認されているのは30図です。


(画像を表示)
 左が「じらいやものがたり」に出てくる「おがたしゅうま」。右は「本朝水滸伝」の犬山道節です。
注 右写真は
35 本朝水滸伝剛勇八百人一個 犬山道節忠與


 なお、尾形周馬の画像は探せなかった。


 「おがたしゅうま」という名前は知らなかった。ガマの出てくる自来也説話』は少し知っている。その中の一登場人物なのか?と思った。どうも、自来也、又は後の「児雷也」の本名が尾形周馬らしい。

 犬山道節「南総里見八犬伝」の登場人物。

 このように架空の人物が錦絵になることは文化の頃はまだありませんでした。

 紙を3枚連ねるワイドスクリーンの技法が確立したのですが、『絵本太閤記』騒動で歌麿や豊国が罰せられ、太閤記も絶版となりました。

 文化元年(1804)、喜多川歌麿歌川豊国、勝川春英、勝川春亭、戯作者の十返舎一九が手鎖などの刑を受けた。秀吉人気を招いたことが徳川幕府ににらまれたためと思われる。

 大判三枚続に相応しい、太閤記に代わる題材を提供したのが勝川春亭です。

(画像を表示)
 右は、春亭の「かまた兵衛」。左は国芳の「出雲伊麿」です。
 注 左写真は、
37 山口屋版武者絵シリーズ「出雲伊麿」(いずものいまろ)

 

 図録の解説には、文化期の勝川春亭の大判「鎌田兵衛」の影響のことが書かれている。
 画像は探せなかった。

 また、この「伊麿」に描かれている怪魚は「鰐鮫」である。

 この二つの絵は一見、受ける印象がずいぶん違います。春亭の絵はくすんだ感じ、国芳の絵は鮮やかです。
 
 天保期以降、それまでの本藍・つゆ草の藍に代わって「ベロ藍」、いわゆるプルシアンブルーが用いられるようになりました。
 ですから色の違いによる印象の違いは、時代の違いなのです。

 色にとらわれずに、構図や筋肉の描写などを観ると、国芳の出雲は、春亭の影響を受けていることが分かります。

 なお、国芳は描線に「うす紅」を加え立体感を出しています。
 「ベロ藍」って面白い名前だなぁと思っていたが、どうも紺青(プルシアンブルー)の別名、「ベルリン藍」がなまったようだ。

(画像を表示)
 右は、春亭の怪童丸(金太郎)の「鯉つかみ」の絵。
 左は、図録の表紙にもなっている国芳の 
40 「坂田怪童丸」 の絵です。 



 国芳の方が水流の表現が洗練されていますし、鯉も立体的に描かれていますが、春亭の絵を基にしていると言えます。

(画像を表示)
 右は、春亭が描いた大江山酒呑童子
(しゅてんどうじ)
 左は、国芳が描いた
85 大江山酒呑童子 の絵です。

 
 酒呑童子は昼は人間、夜になると鬼の姿となると言われています。

 この絵では、半分牙が出てきて、鬼になりかけていることが表現されています。

 国芳も、酔いつぶれた酒呑童子を源頼光(みなもとのらいこう)の四天王が討とうとしている場を描いています。
 より明確に、半分鬼になりかけていることを表現しています。


 続いて岩切先生は、勝川春亭の「宇治川合戦」の画像を表示。

 これについては、佐々木四郎高綱梶原源太景季の描写に関することよりも、右側の橋に飛んできた矢が迫り、刺さっていく迫真的な描写のことが取り上げられていた。

 なお、図録には、
7 忠臣蔵十一段目両国橋勢揃図

 の解説で「両国橋が近景から遠景に弧を描いて渡る描写」と春亭「宇治川合戦」との類似性に触れられている。


 国芳の
10 宇治川合戦之図 については、図録に収録されているが、特に春亭作品との比較が明確でないので、画像は載せない。 

 次に岩切先生は、国芳と春亭の牛若丸に関する絵の類似性について述べられたが、具体的にどの絵か覚えてないので省略する。

(画像を表示)
 この絵は、勝川春亭が描いた、木曾義仲の四天王の大蛇退治の絵です。四天王ですが、うわばみを退治しているのは3人です。
 こうした3連で、人物が3人の場合、両端の人物は中央の人物の方を向くのが、それまでの常識でした。
 春亭の絵はそうなっていません。しかしながら、向かって左端の人物は、視線は外側を向いていますが、大蛇に突き立てた剣の方向は内側を向いているので、力の方向としては中央に集中し、散漫な印象は与えません。


 この絵は国芳の

5 三井寺合戦 新田四天王勇力   です。

 新田義貞の部下の四天王が三井寺に攻め込んだ時の様子を描いています。これも、両端の人物の視線は外側を向いており、常識的な構図とは違っています。

 武士が持っている赤い大きな柱のようなものは、大卒塔婆です。この2本の卒塔婆は逆Vの字を描いています。ですから中央に収束する印象を受けます。
 また、画面中央のところで、崩れ落ちる屋根瓦も中心部分に流れ、全体をまとめています。

 

 

 


 

 お疲れ様でした。

 
 
  

inserted by FC2 system