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(No17) 京都国立博物館「龍馬の翔けた時代」鑑賞記 その1

 この「龍馬の翔けた時代」の開催期間は平成17年7月16日から8月28日。
 直接的な関連イベントではないのだが、「京都らくご博物館」というイベントがあったので、その日に観に行った。

 



1章 黒船の時代

 当日の展示の順番は、図録の作品番号とは若干違っているが、図録の順番でみていくこととする。
 それと、観た直後の掲示板でも書き込んだのだが、私は何年かに一度司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をふと手に取り、文春文庫全8巻を通読している。

 この展示会を観た直後にも読みたくなって、一気に読み通した。

 今まで違うのは、読んでいて、あ、ここに出ている手紙が展示されてたな、などと感じた点である。

 逆に言えば、展示会をまわっている時、あっ、これ『竜馬がゆく』に出ていたなとか思いながら観ていたのだ。

 よって、以後、印象に残った展示物を紹介する時、『竜馬がゆく』に出ていたものなら、それも併せて紹介していきたい。

 ところで、右写真は当日のきっぷ。
 チラシの表面では、この写真1点だけが載せられている。
 慶応3年頃、長崎で撮ったとされている坂本龍馬の写真である。

 チラシ表面では、足元まで写っているので、龍馬の靴を拝むことができる。
龍馬展のきっぷ

 なお、この写真の原板は高知県立歴史民俗資料館蔵とのことだが、本展示会には出展されていない。

  また、本展示では「龍」馬、司馬作品では「竜」馬なので煩雑ではあるが、それぞれの表記に従っておく。

1 ペリー浦賀来航図(嘉永6年=1853)

 別に、同じ題名の絵があるようだが、前期(7月16日〜8月7日)のみの展示。それは、重文である。
 本作は、黒船の横っ腹に、上半分が白く下半分が黒いボールが描かれていたので何かな?と思ったのだが、どうもこれは「外輪」を表しているようだ。図録の解説に「黒船の絵は様式的で実景というには遠い」とあるが、チラシ1の「黒船絵巻」に描かれた外輪と比しても単純化しすぎのように感じる。

5 北亜墨利加合衆国 水師提督ペルリ之肖像(江戸時代)

  ペリー提督の絵姿は多く描かれたそうだが、恐怖や憤り、洋夷に対する蔑みやらがないまぜになり、(また冷静に写生したものなどはなかったろうから)天狗や鬼のイメージが投影されたものが多い。
 その中でも、本作は「バケモノ」度では、トップクラスではなかろうか。  

11 黒船絵巻(江戸時代)

 大部の絵巻物であるが、その一部はチラシ1で。

14 長崎海軍伝習所之図 陣内松齢筆(昭和2年)

 日米和親条約が結ばれた翌年の安政2年(1855)、幕府がオランダから海軍士官を招いて開いた長崎海軍伝習所の絵である。
 出島の沖で黒煙をたなびかせ、日の丸の旗を掲げているのが練習艦「観光丸」であろう。

 『竜馬がゆく』3巻P178では、千葉重太郎勝海舟をくさして「やつは軍艦奉行並で、日本海軍の創始者であるといばっていながら〜勝といっしょに長崎の海軍伝習所で蘭人から教わった連中も〜船にあれだけ弱い男はいない、といっている」とのセリフを吐いている。 

 また4巻P322では、龍馬が、大久保一翁から神戸海軍操練所の練習艦として観光丸を与えることを知らされるシーンが描かれている。


章 土佐と坂本家 

16 漂巽紀略 河田小龍編著(ひょうそんきりゃく。嘉永5年=1852)

 『竜馬がゆく』2巻P171には、龍馬が洋学を河田に学ぶところが描かれている。
河田小竜は、狩野派の画家で〜大そうな著書があるのだ。『漂巽紀略』という。巽(そん)とはタツミの方角(南東)のことで〜『アメリカ漂流記』ということである。
〜漂流したのは、土佐の漁師万次郎で、11年間アメリカを流浪して帰国した」。

22 坂本家先祖書並系図(重文。江戸〜明治時代)

  龍馬の父八平こと坂本長兵衛が記した先祖書。
 『竜馬がゆく』には、兄である長男権平、長女千鶴、次女栄、三女乙女のことがよく出てくるが、系図には姉達の名前が記されず、ただ「女 ○○妻」としか書かれていない点が時代を感じさせる。
 「龍馬」と書かれた下に小さく「直柔」と書かれている。

25 小栗流和兵法三箇条(重文。文久元年=1861)

 同1巻P14には、「竜馬が14歳のときから〜小栗流の道場をもつ日根野弁治のもとに通いはじめて〜19歳になるまでの5年間に、5尺8寸にまでのびた。
〜この正月の日根野道場における大試合(おおよせ)〜の翌日、日根野弁治は、小栗流の目録をあたえた。わずか19歳である」とある。
 また、23 小栗流和兵法事目録(重文。嘉永6年=1853)も展示されていた。図録の23の解説では、「嘉永六年晩春と記されており、龍馬が江戸に出立する19歳の春の発行である」とあるから、上記の目録がこれであろう。

 この三箇条の画像は、リンク切れにならないうちに、京都国立博物館HP「龍馬の翔けた時代」→「展示作品紹介」→「土佐と坂本家」・「龍馬脱藩と攘夷」・「描かれた幕末の争乱」と続けてクリックしていただきたい。

26 武市半平太書簡(安政4年=1857。島村源次郎宛)

 図録の解説によれば、安政4年8月17日付けで、武市半平太が親戚の島村源次郎にあて、ある土佐藩士の不祥事の事後処理について書きおくった長文の手紙とのこと。
 図録にある「読み下し文」を見てやっとわかったのだが、龍馬という文字が何箇所も見え、また、「以蔵」という文字も見える。岡田以蔵のことなのだろうか。

28 笑泣録(武市半平太筆。元治元年=1864頃)

 武市半平太が、高知南会所での獄舎の様子を自ら描いたもの。

 同4巻P219では「山内容堂が藩庁に命をくだして、武市半平太を筆頭とする土佐勤王党の幹部をいっせいに逮捕したのは、文久3年9月21日であった。
〜武市は、門前から駕籠にのせられ、南会所に運ばれた。
〜武市の獄室は士格の待遇だから、いわゆる牢屋ではない。畳二帖敷ほどの板の間で、小さな厠(かわや)と手水(ちょうず)をつかうはしりがついている。
 三方は板囲いで、一方は目が四寸ほどの格子になっており〜
 牢役人は〜みな半平太に同情し、ついには心酔し〜獄中の半平太から学問の教えをうけ、ひそかに師弟の縁を結んだほどであった」とある。

 この絵から感じられるのは、意外にも、のびやかなユーモアである。半平太とおぼしき鬚面の男がぽつねんと牢内に座っているのだが、牢の横では見張りの役人があくびをしたり、煙管で煙草をふかしたりしている。また、牢の前ではちょうど食事時なのか、七輪にやかんを乗せ湯をわかしている者もいれば、しゃもじを乗せたおひつを横に置いて、めしの差し入れ口の前で座っている者もいる。
 もちろん、志半ばの半平太が、投獄されたことを残念に思っていない筈はないが、切腹自体はとうに覚悟のうえだったのであろう。

 

29 久坂玄瑞書簡(文久元年(1861)12月21日付け。武市半平太宛)

 同2巻P367には「久坂玄瑞の日記〜ひどく癖のある悪筆〜」とある。この書簡の字も確かに癖がある。


 



3章 龍馬脱藩と攘夷


30 神戸海軍操練所鬼瓦(文久3年=1863)

 同4巻P7には「神戸という地名は、慶応3年12月7日の開港まで、ほとんど世に知られなかった。
〜この名もない漁村に、勝は竜馬とともに、『神戸軍艦操練所』というものを建てようというのだ。
〜現今の地名でいえば、神戸市生田区加納町64で〜神戸税関のあたり〜
 が、竜馬と勝海舟が立っている当時には、びょうぼうたる砂浜〜
 文久3年5月の春、諸藩士や浪人たちが、航海練習生になるために、ぞくぞくと神戸にやってきた。」とある。

 神戸海軍操練所の遺物としては、葵の紋の入ったこれと、31 神戸海軍操練所絵図写(明治43年=1910)くらいしか残っていないそうである。

 この鬼瓦の画像は、リンク切れにならないうちに、京都国立博物館HP「龍馬の翔けた時代」→「展示作品紹介」→「土佐と坂本家」・「龍馬脱藩と攘夷」・「描かれた幕末の争乱」と続けてクリックしていただきたい。
   また、チラシ1でもどうぞ。 

35 龍馬書簡(文久3年5月17日付け。坂本乙女宛)

 実は、この書簡は前期のみの展示であったので、現物は見ていない。

 同4巻P12には「手紙の末尾が、『エヘンエヘン、かしこ』でおわる大得意の文章である。
『このごろは天下無二の大軍学者勝麟太郎といふ大先生の門人となり』と、大が二つも重なって、乙女姉さんをこけおどしている。〜
『ことのほか可愛がられ候て、まづ客分のやうな者になり申候。〜』」とある。
 ただ、現実の文面を見ると「大」軍学者ではなく、「天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生」と書いてある。「大が二つ重なって」というのは、司馬遼太郎の見誤りか、それとも創作なのか。こんな引用した手紙の文面を加除するというのもおかしいので、ケアレスミスか。

36 龍馬書簡(文久3年6月16日付け。池内蔵太母宛)

 龍馬が、藩の後輩である池内蔵太(いけくらた)の家族に宛てた書簡。

「いささか御心をやすめんとて」と書き出している。後の「蔵が一件」というのは内蔵太が尊王の志から脱藩したことをさしており、「朝廷というものハ国よりも父母よりも大事にせんならんというハきまりものなり」と家族を慰めている。

 「ヘボクレ役人や、あるいハ ムチャクチャをやぢの我国ヒイキ我家ヒイキ」、「ヘボクレ議論にどふいしてメソゝ」など、カタカナを多用しており、おもしろい。




4章 描かれた幕末の争乱

41 近世珍話(前川五嶺筆。慶応3年=1867)

 元治7年(1864)の禁門の変の様子を描いた絵巻。
 絵巻の一部は、リンク切れにならないうちに、京都国立博物館HP「龍馬の翔けた時代」→「展示作品紹介」→「土佐と坂本家」・「龍馬脱藩と攘夷」・「描かれた幕末の争乱」と続けてクリックしていただきたい。

51 龍馬書簡(元治元年6月28日付け。坂本乙女宛)

 『竜馬がゆく』4巻P275では、「陸奥陽之助は〜『〜御国(土佐藩)では、武市さん以下の同士に大難がふりかかっているというのに、よく軍艦練習ができますな』といった。
『わしは早まらん。幕府がどうこうといったところで、潰す時勢というものがある。腫物(ねぶと)もヨクヨク膿まねば針を着けられん』」と言わせている。
 なお、大難とは、武市半平太の投獄をさす。また、陸奥陽之助とは、後の外相陸奥宗光である。

 さらに、同6巻P236に「竜馬のいう、『小野小町の雨乞いも歌の霊験によったものではない。きょうは降る、という見込みをつけて小町は歌を詠んだ。見込みをつけるということが肝要である』という理論どおり」とある。

 本書簡には「かの小野小町が名歌よみても、よくひでりの順のよき時ハうけあい、雨がふり不申。〜
 につたただつねの太刀おさめて しほの引しも、しほ時をしりての事なり。(※ 新田義貞の故事)
 天下に事をなすものハ ねぶともよくゝ はれずてハ、はりへハうみをつけもふさず候」とある。書簡の文句を巧みに小説のセリフに活かしたのであろう。 

52 馬関戦争図(藤島常興筆。明治時代)

 同5巻P375には「長州軍が京都において惨敗し、惨憺たる敗走を遂げたのは、この年元治元年7月である。名づけて禁門ノ変、または蛤御門ノ変。
〜同8月初旬には、長州の攘夷的挑発を怒った英仏米蘭の軍艦16隻、運送船2隻が〜馬関(下関)海峡にあらわれ〜た。
山県有朋、当時まだ若かった〜山県狂介が、壇ノ浦砲台の隊長になり〜酒樽十丁のカガミをポンポンと抜き、
『さあ、何はなくとも眼下にならんだ夷艦18隻、あれを肴にぞんぶんに飲んでくれい』
といったのはこのときである」とある。

 絵巻の右側には、砲台の高みに仁王立ちになって、眼下の洋艦に向かい大手を広げている剛毅な男が描かれているが、上記の山県のような男がごろごろしていたのだろうか。






 このあと、「9章 近世後期の絵画」まで続くのであるが、少し長くなったし、京都国博HPの本展示紹介もいつ閉鎖されてリンク切れになるかわからないので、とりあえずここまででアップしておく。


 どうも長々とお疲れ様でした。

 
  

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