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(No16) 大阪市立美術館「興福寺国宝展」鑑賞記

 この「興福寺国宝展」の開催期間は平成17年6月7日から7月10日。
 終了間際なのだが、関連イベントで7月9日(土)に、大阪大学文学部助教授 藤岡穣氏による「運慶と定慶 興福寺鎌倉復興をとげた天才と奇才」という講演会があったので、その聴講も兼ねて見学に行った。

 



I 興福寺鎌倉復興期の尊像

 展示室入ってすぐ、四天王が出迎えてくれる。
 最初のスペースの陳列順序を簡単に図示するとこうなる。

飛天
釈迦如来
頭部、右手、左手
飛天
薬上菩薩立像
仮金堂所在
  薬王菩薩
仮金堂所在
法相六祖坐像(伝行賀)
康慶
  法相六祖坐像(伝玄ム)
康慶
  金剛力士立像 吽形  
広目天
康慶 仮金堂所在
  多聞天
康慶 仮金堂所在
増長天
康慶 仮金堂所在
  持国天
康慶 仮金堂所在
    ↑入り口  

 入り口入ってすぐの四天王は、現在仮金堂に所蔵されている康慶運慶の父)の作。つくりは全体的に重厚で、一方、踏みつけられている邪鬼の表情などは、ダチョウ倶楽部のようにユーモラスで、けっこう現代的だ。
 増長天の画像は、チラシその2にて。

  四天王のつくる空間を抜けると、正面で待ち構えるのが金剛力士立像 吽形。阿吽(あうん)の「うん」。口を閉じ、力を蓄積する形。
 良かったのは、周囲を空けて、仁王の後姿を観覧できるようになっていた点。
 吊り上がった眉、力のこもった「まなこ」、小鼻が盛り上がり、固くむすばれた「への字」口が忿怒(ふんぬ)の貌をつくる。首筋に浮き上がる血管、強く踏みしめた両脚・・・といった「表(おもて)」側は、けっこう見る機会もあるが、背筋(はいきん)の盛り上がりや、たなびく衣の裾の模様などを堪能できた。

 続いては法相六祖坐像。これも康慶の作と言われている。右側が玄ム(げんぼう)、左側で、立て膝し、口をゆがめ斜め上を見上げている(はっきり言って悪人面)なのが行賀と伝えられているが、異説もあるらしい。

 次にどーん!と立っているのが薬上薬王の両菩薩。高さ3.6mで迫力がある。仮金堂所在。左側の薬上菩薩の方が、顔の金箔の剥げが多い。

 その奥が、釈迦如来なのだが、残念ながら完全体ではない。1717(享保2)年の被災で焼失した西金堂本尊の丈六釈迦如来像と考えられている。
 その他、同じ本尊の一部分と思われる右手、左手も発見された。
 このほか、この西金堂本尊の光背仏と考えられる飛天や化仏も展示してあった。確かにどれも「あずき色」の漆の具合から同一作品の一部なのかな?と思わせる。

 こうした、金剛力士像、玄ム像、薬王菩薩像については、チラシその2にて。玄ム像以外は、大阪市立美術館HPの「主な作品」のページでも、確認できる。

 あと、陳列順序はうろ覚えなので、違っていたらごかんべんを。

 小さなガラスケースに人が群がっている。天燈鬼立像だ。普段四天王に踏みつけられている邪鬼が独立して仏前に燈籠を捧げるというユニークな作品で、他に類例がないとのこと。
 ちょうど蕎麦屋の出前のような格好(自転車で、片手にハンドル、片手にざる蕎麦のセイロを何枚も重ねて持つ・・・・・で、もってバランスを崩したあげく転倒というお決まりギャグをやりそう)。康弁(運慶の三男)作という説がある。
 画像はチラシその2で。(ついでに、右のチケット画像でも)

 そこを右に曲がると、薄暗い中に立つ190cm以上の無著(むじゃく)と世親(せしん)に迎えられ、はっ!とする。
 両像は北円堂に所在するもので、いずれも運慶作と伝えられる。
 無著はインド名アサンガ、世親はヴァスバンドゥという兄弟僧。無著が老年、世親は壮年。
 世親は眉根を寄せ、抑制した憤りのようなものを内に秘めているように思える。その玉眼に見据えられると、思わずたじろいでしまいそうだ。
天燈鬼

 それに比し、無著の、何とも透徹した、諦念を含んだまなざしの哀しみときたら、表現することが難しい。
 すべてが見通され、すべてが理解され、しかし、こちらからは何も無著の「なか」には手を伸ばすことができない。そんな無力感にとらわれてしまいそうだ。

 両菩薩像の画像は、チラシその1又は、大阪市立美術館HPで。

 十二神将(東金堂所在)は四体展示されていた。
 迷企羅(めきら)大将は十二支のうち酉(とり)のしるしを頭上に頂く。その横の安底羅(あんちら)大将は、兜の上に申(さる)が。

 迷企羅の向かい側には、摩虎羅(まこら)大将。左手にマサカリを持つ。炎のような髪の毛の中には卯(う)が。
 摩虎羅の横には、寅(とら)を頂く真達羅(しんだら)大将。真達羅は、武器を持たず合掌(指先は伸ばして合わせず、交差している)のポーズ。

 左側に定慶(康慶の弟子)作の梵天立像。右側には東金堂所在の文殊菩薩坐像
 そして、その奥に薬師如来像の頭部が展示されている。
 この薬師如来はもともと飛鳥の山田寺に安置されていたが、興福寺衆が東金堂の本尊として強奪してきたと講演にあった。 1411(応永18)年の火災で体部は失われ、頭頂部も過半がない。後頭部がざっくり失われている写真も横に展示されているので、猟奇事件の被害者のようである。
 東金堂の現本尊の台座部分に頭部だけ納められていたのが、昭和に入って偶然発見されたそうで、つくづく数奇な運命に翻弄される薬師如来さまである。

 迷企羅大将立像は、チラシその2で、薬師如来像頭部は、チラシその1又は大阪市立美術館HPにて。




I 春日社寺曼荼羅の世界 

   京都国立博物館所蔵の興福寺曼荼羅図は、現存する春日社寺興福寺曼荼羅図の中でも最古と目されているそうだ。残念ながら前期(6月7日〜26日)のみの展示で、私が観たのは複製写真。展示会場ごとに出展作品が違うのは、まだあきらめがつく。(なかなか、東京とか他都市までは行けないし)
 ただ、同じ会場で期間によって「ああ、これは今日は見れないのか・・・」と思うのは悔しいものである。
 本図は五重塔以外、堂宇は描かれず、安置仏が南面した状態で正面から描かれる。
 よって、詳細な仏像カタログのような史料価値も有する。

 画像は、チラシその3又は大阪市立美術館HPにて。

  春日社寺曼荼羅図にも、いくつかのパターンがあるようだ。
 上記の興福寺曼荼羅図は、その名の通り、ほとんど興福寺しか描かれていないのだが、大抵は、絵画上部に春日大社の堂宇、回廊などが俯瞰的に描かれている。そして、社の向こうには御蓋山(みかさやま)が描かれる。

  で、手前の興福寺の部分は、先ほどの興福寺曼荼羅のようにむき出しというか、中の諸仏だけが描かれているもの、逆に概観というか、建物しか描かれていないもの、その折衷的なものなどいろいろである。
 



III 興福寺をめぐる絵画 南都絵所の展開


 このコーナーでまず目についたのは春日赤童子像(かすがあかどうじぞう)で、清賢の筆になる。大和郡山市指定文化財というHPで画像が見られる。
 体を「くの字」にして、右手を左腰の前に持ってきて杖をつく。そして、その右拳に左手の肘をのせ頬杖をついているのだ。上目遣いのその表情といい、現代的なセンスが感じられたのだが、「春日赤童子」のポーズとしては、どうやら定番らしい。

 厨子入り吉祥天倚像(ずしいりきっしょうてんいぞう)は、小さなお仏壇のような容れもの(厨子)に入った吉祥天像である。像の作者は寛慶という14世紀中葉に活躍した仏師だとか。
 厨子の観音扉の内側には梵天と帝釈天が描かれているそうだ。画像はチラシその3で。
 どちらが梵天で、どっちが帝釈天なのか、私には区別がつかない。向かって左は花の入った皿のようなもの、向かって右も何か盒(ごう)のような、容れものを持っているのだが。
 吉祥天の奥の壁には白象が描かれている。体つきを見ると四つんばいになった猪八戒としか思えないのだが、確かに鼻は長い。よく見るとキバも伸びていた。

 玄奘三蔵絵は、非常に色鮮やかである。この展示は後期(6月28日〜7月10日)のみ。
 雪深い険しい山道をゆく三蔵一行。周りのお供は悟空などではなく、普通の人間。
 チラシその3でも大阪市立美術館「主な出品作品」の画像でも収録されていないのだが、会場展示の絵では、谷底に落ちてしまった犠牲者のお供や馬も描かれている。



IV 解脱上人貞慶の事蹟

 解脱上人貞慶(げだつしょうにん じょうけい)は鎌倉時代前期の学僧で、1155(久寿2)年に生まれ、8歳で興福寺に入り、将来を嘱望されていたが、当時の仏教界に疑問を抱き、笠置寺(かさぎでら)に、さらには海住山寺(かいじゅうせんじ)に移って、1213(建暦3)年入寂したそうである。

 画像の貞慶はいずれも鼻が高くてとんがっており、口はすぼんで突き出ている。で、あごは肉がなく細い。魚でいうとクチボソって感じである。
 江戸時代に彫られた坐像も出展されている。図録の解説には「その形姿は興福寺に伝わる室町時代の画像とほぼ一致する」とあったが、少なくとも顔については坐像は少し美化していると思う。

 チラシその3にある笠置曼荼羅図では中央に弥勒磨崖仏と、貞慶が建立した十三重塔が描かれている。
 笠置寺は後醍醐天皇を受け入れたため、1331(元弘元)年、鎌倉幕府軍に攻められ全山焼亡し、弥勒磨崖仏も現在残るのは光背のくぼみのみとのことである。よって、曼荼羅に描かれた十三重塔も当然残っていない。
 「ぼちぼちいこか」というHPの「笠置の磨崖仏」というページでは石造の十三重塔の写真が載っている。せめても、ということで後に石塔を建てたのだろうか。



V 法相教学とその図像

 興福寺は法相宗大本山だそうだ。その辺を図録解説から引用する。
「興福寺は法相宗の寺院である。法相宗では、唯識(ゆいしき)の立場から、存在するものすべて(法)の本質とすがた(相)を究明するよう努める。
 あらゆる存在はただ自己の心(識)のあらわれにすぎない、とする唯識の思想は、弥勒の教えに基づいてインドの僧、無著世親(4〜5世紀)が体系化した。〜玄奘三蔵(602〜664)は〜『成唯識論』を成した。さらに、玄奘に師事した慈恩大師基(632〜682)は〜中国における唯識学を発展させ〜法相宗の宗祖として敬われる。その後淄州大師慧沼(ししゅうだいし えしょう)・濮陽大師智周(ぼくようだいし ちしゅう)と教学は引き継がれ〜日本僧玄ムが興福寺にその教えをもたらした」とある。
 なぜこうも長々と引用したかと言うと、こうした名前が、ここのコーナーでは連発されるからである。

 チラシその3に掲載されている法相曼荼羅図は、奈良・薬師寺蔵のものと思われる。HP上では判別しにくいと思うが、一番大きいのが弥勒菩薩。弥勒の足元、向かって右が無著、左が世親。
 その少し下、右が護法(十大論師の第一位)、左が戒賢(法相七祖の一人)。その下、弥勒の前に座っているのが、右が玄奘、左が慈恩。最後、一番手前だが右は濮陽、となると左は、名前のところが剥落した感じだが、淄州であろう。
 法相曼荼羅図は他にも種類が多く、描かれている人物の数もまちまちである。

 チラシその3では、慈恩大師像も載っている。さすが宗祖だけあって、単独出演の図像も多いのである。だいたい、どの慈恩像も、きりっとした眉を逆八の字にして、目をぎろっ!と見開いた、いかにも意志が強そうな感じの顔になっている。

 『成唯識論』は、上記チラシその3にも載っているが、「紺紙に銀界を施した料紙に金泥を用いてやや肉細の温雅な書体で書写されて」いる。



VI 中金堂再建にむけて

 
鑑賞記(14)でも書いていたが、もともと南大門を入ると正面に中金堂(左には西金堂、右に東金堂)があったのだが、現存しているのは東金堂のみ。
写経 友の会

 中金堂を建立する際、建物の安泰、永続を願って埋納される品々を鎮壇具というが、チラシその3の左下、銀製鍍金唐草文鋺も、中金堂鎮壇具の一つである。

 なお、現在、中金堂再建めざして、いろいろ活動が展開されている。
 
 写経に関するものが上掲左、友の会関係が上掲右。
 おこころざしのある方は、一度、HP興福寺にアクセスされてはいかがだろうか。

 なお、チラシその4では、南円堂、不空羂索観音坐像、四天王立像多聞天像について掲載されている。


 なお、本展覧会を写真いっぱいで紹介しているのがここ。リンク切れにならないうちにご覧ください。

 どうも長々とお疲れ様でした。

 
  

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