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(No145) 正倉院学術シンポジウム2009「皇室と正倉院宝物」 聴講記 その3

 平成21年10月31日(土)に、上記シンポジウムを聴きに行った時のメモの続き。

 
 

 


第1部 研究発表

「正倉院宝物の模造 〜その歴史と意義〜」 
  宮内庁正倉院事務所保存課整理室長 西川 明彦

【 一 正倉院宝物模造の歴史 】

(1) 江戸時代末        → 記録に刀剣あり
(2) 明治5年          → 壬申検査(古器旧物保存)
(3) 明治8〜12年       → 奈良博覧会社・仏国博覧会(殖産興業政策)
(4) 明治25〜37年      → 御物整理掛(宝物の修理)
(5) 昭和7〜12年       → 帝室博物館(大正12年関東大震災後に企画)
(6) 昭和47年〜        → 皇室からの材料提供(茜・小石丸)

 古くは江戸末頃に正倉院宝物の模造が始まったという説がありますが、文献に記録はあっても現物は残っていません。

 私は今でいう模造ではなく、正倉院宝物風の工芸品が作られた・・・・くらいの意味ではないかと思います。

 明治元年に神仏分離令が出ます。これがエスカレートして廃仏毀釈運動となりました。仏教をすべて否定するものです。

 こうした行き過ぎを是正するため「古器旧物保存」という動きが出てきます。文化財としてみる意識の目覚めといってよいでしょう。

 その時点で、日本の仏教美術品等がどのような状態になっているのか全国調査しようとしたのが「壬申検査」です。

 この当時は本格的な模造は少なく、せいぜい拓本や模写等が中心でした。

 明治8年には奈良博覧会社が設立されました。博覧会に出すために、今回展示されている
唐鋤について非常に精巧な模造品が作らています。(写真を表示)
  技術レベルとしては現在と比べてもそれほど劣りません。

 これも今回展示されている
です。展示物は先のガラス玉が2個ほどしか残ってませんが、こちらはもっと数が多くなっています。

 このようなブームで奈良には、「おんこ社」(石野注 そう聞こえたが、自信なし)という模造専門の民間会社ができました。
 そのせいで、現在でも奈良近辺の骨董屋では、正倉院宝物を名乗るものが出ることがありますが、ほとんどは、そうした会社が作ったイミテーションです。

 民間でなく国が乗り出してきたのが、明治25年から37年にかけての御物整理掛です。 当時は、模造そのものより、本格的に修理する準備のための試作という意味が大でした。

 これは楽器の
箜篌(くご)です。バラバラになっており、軽率に復元して取り返しのつかないことになってはいけないので、まず模造品を作ってみてから、復元に取りかかったのです。


 
赤漆文欟木御厨子も、バラバラに壊れていたのを明治時代に修理しました。

これは、いったん模造では2段ということで復元されたのです。その後、それまでより背の高い「たて板」が見つかったので、あらためて3段の厨子として復元されました。

(石野注)
 ちょっと「ちゃちい」背の低い収納箱の画像が出る。この辺の話が読売新聞のコラムにある。

 また、先ほどの箜篌については、ここの西川氏論文のP27挿図62あたりを参照されたい。


 整理掛の模造事業は明治37年の日露戦争で沙汰やみになってしまいました。

 次に昭和7年から12年にかけて帝室博物館が模造に取り組みました。事業は「模造すべし」という詔が出て、昭和3年頃から始まったのです。

 なぜ昭和3年頃から始まったか、というと大正12年の関東大震災が契機になったのです。
 さらには昭和3年に昭和天皇が即位され、あらゆる事業もスタートを切るということで、このあたりから事業が始まったようです。

 これも現在展示されている金銀平脱鏡の・・・・模造です。これは昭和7年に模造されました。なぜ分かるか・・・というと書いてあるのです。
(石野注 表示された鏡の像を大写しにしていくと、外縁部に「昭和七年十一月 模之(之ヲ模ス)」と刻まれているのが見えた)

 戦争が近付き事業は終わり、昭和47年からは正倉院事務所が取り組むことになって、毎年1〜2点を模造しています。


 

【 ニ 現在の模造の目的と方針 】

(1) 模造の目的
ア 宝物に万一のことがあった場合に備える
イ 模造により制作当初の姿を彷彿できるようにする
ウ 宝物に代えて展示等に利用する

(2) 選定基準
ア 美術工芸品として価値が高く精巧なもの
イ 歴史資料として希少価値が高いもの
ウ 原宝物は破損、隠滅しているが復元可能なもの

(3) 基本方針
ア 復元模造:形を似せるだけでなく、同じ材料、技法で製作当初の姿を再現
イ 分析装置やX線透過装置を駆使するなど、科学的な調査を実施
ウ 製作者が身につけた伝統的な手法および経験から得た知識を頼りに模造
エ 文献史料等を参考に試作実験を行い、材料や技法を吟味する

(4) 意義と課題
ア ひと   → つくり手、伝えるひと
イ もの   → 材料の調達
ウ こころ  → 技法の再現

 

 現在の模造事業の方針や目的は、昭和7年〜12年の頃のそれを引き継いでいます。

 私は昭和63年に事務所に入ったのですが、当時は「万一のこと」ということにリアリティが持てませんでした。
 これだけ大事にしているのに何があるのか?盗難もないだろう、と。
 
 そう思っていた矢先の阪神大震災はショックでした。無になってしまうということはあるんだ、と。それで、先人が関東大震災でショックを受け模造事業が始めた理由が実感できました。

(石野注)
 私も、先ほどの模造事業開始の話を聞いて、阪神大震災を想起していた。
 阪神大震災の後、大阪市立東洋陶磁美術館を観に行った時、展示物が四方からビニールコードで支持されている光景に違和感を感じながらも、「あんなことの後やから、しゃあないか・・・」と感じたのを覚えている。今ではすっかり慣れてしまったが。



 模造は、作られた当時の姿を再現するよう努めます。
 これは、展示されている花形皿ですが、現在展示されているものは、器内部の朱や外側の絵もこれほど鮮やかではありません。

(石野注)
 以前にも紹介したが、このHPの作品が、まさに「古色付け等を施す現状模造ではなく、制作当初の姿を再現する」というもの。


 模造品は、いわゆる伝統作家、伝統技法を用いる作家の方々に頼みます。しかし、伝統技法といっても、せいぜい江戸時代のころの技法で、天平時代の技法を伝統作家が分かっていたことは1回もありませんでした。この話になると作家とケンカになるのですが。

 天平時代の技法というのは、文献にはけっこう出ているのです。こうした技法を伝統作家に「通訳」するのが、我々の仕事かなと思っています。

 作家の人は、模造に付き合うと必ず損をするのです。時間単価というか、我々の出せる謝礼は、しれているのに、時間ばかりやたらにかかりますから、普通に今まで通りの自分の仕事をする方がよっぽど儲かる。
 ですから、賛同してくれる作り手を見つけるのが大変なのです。

 また、技術を公開したくない人では意味がない。たまたま再現できたけど、これは自分だけでいいんだ、なんて人だと、本当にがっかりしてしまいます。


 あと、「もの」の面ですが、これは何より当時使用していた材料が調達できるか、この一点です。

  


 お疲れ様でした。

 いつものことですが、録音などをしておりませんので記録違い、記憶違いはご容赦ください。

 
  

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