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(No144) 正倉院学術シンポジウム2009「皇室と正倉院宝物」 聴講記 その2

 平成21年10月31日(土)に、上記シンポジウムを聴きに行った時のメモの続き。

 
 

 


第1部 研究発表

「孝謙天皇と正倉院宝物」 奈良国立博物館研究員 野尻 忠

【 一 孝謙天皇について(年表から) 】

(1) 出自と系譜
(2) 誕生から即位まで
(3) 孝謙天皇の時代
(4) 孝謙太上天皇から称徳天皇へ

 

 正倉院というと、つい聖武天皇光明皇后が着目され、孝謙天皇は両者に比べるとあまり出てこないので、そこにスポットをあてるのが今回のねらいです。

 資料の年表でご説明します。

 その前に、系図をご覧ください。

 天武天皇の子が草壁皇子、さらにその子が文武天皇
 そして文武天皇と、藤原不比等の娘の藤原宮子との間に生まれたのが聖武天皇で、天武天皇の直系です。

 さらに、聖武天皇と、藤原不比等の娘である光明皇后との間に生まれたのが阿倍内親王、後の孝謙天皇です。

 その後、神亀四(727)年に、聖武天皇に基王(某王)が生まれましたが、翌年死亡してしまいます。

 基王が死んだ年に、聖武天皇と県犬養広刀自の間に安積親王が生まれます。男子なので後継順位としては上なのですが、藤原氏の勢力が衰えるのを恐れ、738年に阿倍内親王が皇太子に立てられました。

 744年には安積親王が没したため、これでライバルはなくなりました。そして、749年に即位して孝謙天皇となります。

 孝謙天皇は、758年に譲位、大炊王が即位して淳仁天皇となります。

 しばらくは光明太皇太后と、孝謙太上天皇、淳仁天皇の三者でうまく折り合いをつけていたのですが、760年に光明太皇太后が没して以来、孝謙と淳仁の関係が悪化し、764年には淳仁を廃し、重祚して称徳天皇となります。

 そして770年に没します。これが孝謙天皇の生涯の主な流れです。

【 ニ 東大寺と大仏の造立 】

 史料3の『続日本紀』天平勝宝四年四月乙酉条に大仏開眼会のことが書かれています。

 僧一万とか雅楽という字句があり「未嘗有如此之盛也」、これほど盛んなことはいまだ嘗てなかったと書かれています。

 ここには「天皇」としか書かれていません。開眼会は752年、孝謙天皇の即位は749年なので、この天皇は当然孝謙のことです。

 『続日本紀』を読む限り、大仏開眼会には孝謙天皇しか出席していなかったかのようです。
 もちろん、これは『続日本紀』が、あくまで天皇を中心として書かれたものなのでこういうことになりますが、これを補うのが史料2の『東大寺要録』供養章です。

 ここには、開眼会のあった年の4月4日に、太上天皇(聖武)と太皇太后(光明)が東大寺に行幸したとあり、9日の記事には、太上天皇、太后、天皇が併記されています。


【 三 六種の献物帳 】

 東大寺に献納された献物帳が、先ほども紹介のあった五種です。

  史料7(『続日本紀』天平勝宝四年六月丙申条・癸卯条)には、七七四十九日に興福寺で「斎」をしたという記述があります。

 東大寺に関しては来年の法要は東大寺で行うので、それまでに歩廊を完成させよとあるだけです。

 『続日本紀』をみる限り、聖武天皇の法要に光明皇后や東大寺に出てきません。

 『国家珍宝帳』は、光明皇后の御製です。孝謙天皇がどう関わってくるかというと、東大寺献物帳には天皇御璽が押されていますが、これが押せるのは天皇のみです。

 史料10は『屏風花氈等帳』ですが、これには願文がありません。末尾に「今月十七日 奉勅」とあります。もちろん、奉勅を出せるのは孝謙天皇だけです。

 史料12は、6番目の献物帳である『法隆寺献物帳』です。
 ここには「金光明等十八寺」とあります。つまり、東大寺、法隆寺以外にも十六の寺、計十八の寺に献納されたということです。

 もちろん、法隆寺ですら5点ほどですから、他の寺はもっと数少なかったでしょうが、こうした献納は、孝謙天皇も公認していたと思われます。



【 四 正倉院宝物に残された足跡 】 

 聖武天皇遺愛の品々は北の双倉(ならびくら)に納められました。
 正倉院から物が持ち出された「出蔵」の歴史をみてみたいと思います。

 孝謙天皇時代は、薬が中心でした。

 史料15(『双倉北雑物出用帳』)には人参伍拾斤とあります。
 天平勝宝十月三日とありますので納められてからわずか三月半ほどのことです。これが最初の出蔵の記録です。

 同じ史料に「沙金を大仏像料として出した」とあります。ただ、この沙金(砂金?)は、献物帳に記載がないため、いつ、どのように入ったのかは分かりません。

 そのほかには、東大寺の行事で花氈を一度持ち出したという記述があるだけで、後はすべて薬です。

 薬はもともと納める際に、病に苦しむ者は使いなさいといった記述が『種々薬帳』にある(「・・・・若有縁病苦、可用者・・・・・・」)ので、持ち出して使うのは当然です。

 また、大仏のために金を出すのも公的なものです。

 同じ史料15の屏風(歐陽詢真跡屏風)を持ち出したというのが、私的な目的で倉内の物を持ち出した最初の例(天平宝字六年十二月十四日)です。
 なお、この屏風は孝謙太上天皇が道鏡禅師に渡したという記述もあります。

 なお、『続日本紀』では道鏡は宝字七年の記事に初めて出てきます。史料15は、それより先に道鏡の名が文書に表れた例です。

 先ほど光明皇后存命中は、孝謙と淳仁はかろうじて仲良くしていたが、光明没後は対立したと申しました。

 その関係が悪化して宝字6年5月には、孝謙は出家しています。その際、「私(孝謙)が国の大事を行う。淳仁は小事をやっておればよい」という意味のことを言ったそうです。

 史料の宝字八年九月十一日に武具を持ち出したという記載は、間違いなく仲麻呂恵美押勝)の乱の先手を打って、朝廷勢力が武装し、仲麻呂を追討した時の記事です。

 その後、称徳天皇は、東大寺に行幸しました。(史料20『続日本紀』天平神護三年二月)

 また、称徳天皇は新たに宝物を献納しています。これが史料21に記載された銀壺などです。
  


 お疲れ様でした。

 いつものことですが、録音などをしておりませんので記録違い、記憶違いはご容赦ください。

 
  

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