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(No14) 講演「運慶と定慶」聴講記 その1(大阪市立美術館「興福寺国宝展」鑑賞記)
この「興福寺国宝展」の開催期間は平成17年6月7日から7月10日。
終了間際なのだが、関連イベントで7月9日(土)に、大阪大学文学部助教授 藤岡穣氏による「運慶と定慶 興福寺鎌倉復興をとげた天才と奇才」という講演会があったので、その聴講記も兼ねまして。
いつものように録音しているわけでもなく、単におぼろげな記憶に頼って書いているので、藤岡先生の話と、図録などの解説等を適当にミックスして書いていく。
レジュメが4部に分かれていたので、まず、それを示し、その後に解説を加えたい。
I. 興福寺の鎌倉復興
1. 治承兵火
2. 復興の画期
3. 康慶による南円堂の復興造像
4. 東金堂における定慶の活躍
5. 西金堂の復興造像
6. 運慶による北円堂の復興造像 |
1. 治承兵火
奈良の興福寺は、東大寺、春日大社などにもほど近い名刹で、藤原氏の氏寺であり、朝廷から保護を受ける官寺でもあった。
治承4年(1180)12月28日、父である平清盛より「南都を討て」の命を受け奈良を攻撃した平重衡(たいらのしげひら)が民家に放った火が、冬の強風にあおられ、興福寺と東大寺に飛び火した。
興福寺は、ほとんど焼失してしまったのである。
2.復興の画期
興福寺の復興事業は、建久5年(1194)の興福寺再興供養を境に、前期と後期に分けられる。
興福寺の復興は、焼失の翌年に早くもスタートする。
養和元年(1181)6月、沙汰分担(さたぶんたん)が定められる。
この段階で、中金堂が公家(注 「くげ」と読むのかと思ったが、先生は「こうけ」と読んでいた。朝廷ということだろうか)、講堂・南円堂は氏長者(藤原氏一族)、食堂(じきどう。寺院関係者の生活の本拠というべきか)は寺家の担当ということになった。
なお、興福寺の伽藍配置は、有名な猿沢の池の北側に南大門があり、その向かって右(東側)に五重塔、また門の左、西側に南円堂がある。
南大門を入った北側に中金堂、その右に東金堂、左には西金堂がある。
さらに、西金堂の北側、つまり西金堂をはさんで南円堂と正対する位置に北円堂がある。中金堂の北側には講堂があったが、現在では仮金堂が、また東金堂の北側には食堂があったが、現在では国宝館が建設されている。
ごく簡単に図示すると、このようになるだろう。
北円堂 |
仮金堂
<講堂(跡)> |
国宝館
<食堂(跡)> |
西金堂(跡) |
中金堂(跡) |
東金堂(跡) |
南円堂 |
南大門(跡) |
五重塔 |
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猿沢池 |
|
3.康慶による南円堂の復興造像
事業全体が沙汰分担ということで担当が定められたように、各堂宇の本尊の造像の担当が定められた。
藤原先生の資料や図録解説によると、講堂が院尊(当時の造仏界の最高位である法印であった)、中金堂が明円、東金堂・食堂が成朝、そして、南円堂が康慶(運慶の父)に割り当てられたのである。
図録解説では、当時奈良仏師としては傍系であった康慶が南円堂の担当を割り当てられたということは、既にその名が認められていたことを示すとある。
藤原先生の資料では、文治4年(1188)6月に、康慶が南円堂の仏像を造り始めるとある。
南円堂の本尊は、不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)で、現在の南円堂にはそのほか、四天王立像が配置されている。
この四天王の作者が誰なのかについては、後に再検討する。
4.東金堂における定慶の活躍
上記2の沙汰分担でも東金堂・西金堂の割当は明確でなかった。結局寺家の担当となったようだが、本尊造立まで手が及ばず、文治3年(1187)3月、飛鳥・山田寺の薬師三尊像を強奪するという暴挙に出たようである。
東金堂には、維摩居士(ゆいまこじ)坐像、文殊菩薩坐像、十二神将立像などが配されている。
このうち、維摩居士は康慶の弟子である定慶が、建久7年(1196)5月に完成させた。文殊菩薩もおそらく、同じ頃に定慶が完成させたと考えられている。
このほか、定慶は、建仁元年(1201)12月には東金堂の帝釈天を、翌建仁2年(1202)3月に東金堂の梵天を造立した。
5.西金堂の復興造像
西金堂も寺家沙汰となったようである。
西金堂の本尊は釈迦三尊像で、担当は成朝であったが、なかなか完成しなかったようだ。
その本尊は、頭部ほか断片的に残っている。
このほか、薬王菩薩・薬上菩薩の立像、金剛力士像、天燈鬼・龍燈鬼像などが西金堂に祀られていたようである。
なお、薬王・薬上菩薩が造立されたのは、建仁2年(1202)の8月と9月、また、龍燈鬼を康弁(運慶の三男)が造立したのは建保3年(1215)4月(天燈鬼もおそらく同時期)と考えられている。
6.運慶による北円堂の復興造像
運慶が北円堂の仏像を造り始めたのは承元2年(1208)12月のようである。
本尊は、弥勒如来坐像。
無著・世親像のモデルは、5世紀頃インドで活躍した碩学の兄弟僧であるが、鎌倉彫刻の頂点を示す運慶の傑作である。
続いて、第2部へ。
II.運慶の事蹟と現存作例
1.運慶の事蹟
2.円成寺大日如来像
3.願成就院の諸像
4.浄楽寺の諸像
5.金剛峰寺八大童子
6.滝山寺聖の諸像
7.六波羅蜜寺地蔵菩薩と重源上人像(東大寺俊乗堂) |
レジュメの1から7まで一括して、藤原先生の資料から抜粋して一覧表にしてみる。
その他、六波羅蜜寺(京都)地蔵菩薩は「六波羅蜜寺」:「寺の歴史」で、
光得寺(栃木)大日如来坐像は、栃木県文化財リストで、
個人蔵の大日如来坐像は、「新発見の大日如来像と運慶」で、
東大寺(奈良)俊乗堂重源上人坐像は「東大寺」:「彫刻」で、
それぞれ画像が確認できるが、いずれも運慶の作と推定されている。
さて、あと講演は「III.仏師定慶について」と「IV.南円堂四天王の位置づけ」が残っているのだが、だいぶ長くなりそうなので、ここでいったんアップすることとする。
特に、「IV.南円堂四天王の位置づけ」が私にとっては非常におもしろかった。オススメですので、次回にどうぞご期待いただきたい。
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