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(No137) 奈良国立博物館 まほろば講座「香を聞く 香木を識る」聴講記 その1

 平成21年5月10日(日)に、標記イベントを聴きに行った時のメモ。

 講師は「銀座香十」社長、日本香堂顧問の稲坂良弘さん。
 


 日本には1400年もの香の文化があります。

 沈香(じんこう)とか伽羅(きゃら)という言葉がありますが、沈香のうち最高のものが伽羅と申します。今日は皆さんに伽羅を二種聞いていただきます。
 本日は香道でいう最も良い形、聞香
(もんこう)の形で聞いていただきます。

 香木を直接くべたりはしません。香木は燃やしてしまうと、一瞬で燃え尽きて灰になってしまいます。その瞬間強い香りはしますが、すぐに消えてしまいます。

 聞香では燃やしません。香炭団(こうたどん)を灰の中に入れ、間接的に熱を加えます。
 香りのメッセージを心が聴きとめる。そう考えていただきたいと思います。

 本日は香席ではありませんので、あまり堅苦しいことは申しません。

 香道は茶道と同時期、足利将軍、8代義政の頃に形になりました。香道は、茶道と同じ人が始めたと言ってよいのです。

 昨年は『源氏物語』の千年紀と言われました。紀元で言いますと1008年に、『源氏物語』が初めて文献、『紫式部日記』に記されたと言われております。

『紫式部日記』
「〜局に物語の本ども取りにやりて隠しおきたるを、御前にあるほどに、やをらおはしまいて、あさらせたまひて〜」

 一条天皇中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)に仕えたのが紫式部です。『源氏物語』は、平安王朝の香の文化がふんだんに取り入れられており、54帖の随所に香が登場します。

 登場人物の性格や、場面の背景などをすべてが香で語られるのです。

 一条天皇と中宮の藤原彰子の文化サロンの才女が紫式部ですが、その前の中宮定子(ていし)との文化サロンに仕えた才女が『枕草子』清少納言です。

 『枕草子』の中で清少納言は、心ときめきたるもの、つまりリフレッシュのため、「よきたきもの」、ルームフレグランスを用いるということを書いています。
 一人臥したる。手足を伸ばして寝転がる。「かしらあらい」、シャンプーをして、「けそうして」、ちょっとおしゃれをしてみる。
 そして湯上りにはおる着物も、香をたきしめると、誰に見せるわけでもないけれど心のうちはいとおかし。

 どうですか。第一線で活躍するOLさんがブログで記すような一節だと思われませんでしょうか。

第二十九段
 心ときめきするもの。〜よき薫き物たきてひとり伏したる。〜かしら洗ひ化粧じて、かうばしうしみたる衣(きぬ)など着たる。ことに見る人なき所にても、心のうちはなほいとをかし。

 光の君が女性と出会う場では必ず香が出てきます。若紫もそうです。末摘花も夕顔もそうです。夕顔から託された扇を開いた時、たきしめられた夕顔の香りがたちのぼるのです。夕顔の「花」は名目にすぎません。
 出会いだけでなく、別れの場でもそうです。藤壺との場面でも法華八香、黒方が多くを物語ります。

 第五帖の若紫の場では、源氏はわらわ病み、今で言えばインフルエンザでしょうか。これの治療で加持祈祷をしてもらうために田舎にやって来ました。
 すると、雀が逃げたと泣いている女の子がいます。しかし、その様子からただの山里の子供ではないことが分かります。

 短い文章の中で三つの香が出てきます。まず、その子供の家に行くと、空薫物(そらだきもの)、空間に香りをたきしめることをしています。これで、この家は宮家の血を引く家ということが分かるのです。『源氏物語』は、最初から本になっていたのではなく、初めは朗読されていました。その後、書きとめられて書物になったのです。
 当時の貴族階級は、源氏に出てくる香の描写を耳にするだけで、その背景が分かったのです。

 次に、屋敷の奥から名香(みょうごう)が漂ってくるとあります。祈りの香が、奥の仏間から香ってくるのです。
 三つ目は全く視点が変わります。「君の御追風
(おんおいかぜ)」。当時の貴族は自分だけの香りを持ち、着物や髪にたきしめました。

 ですから、貴族が動くと香りも動くのです。これが追風です。また、こうした香りの準備をすることを「追風用意」(おいかぜようい)といいます。
 逆に屋敷の、垣根の内側の人々は、垣の向こうに貴公子がいる。追風でそれが分かり、ざわめき立つとあります。

 
第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語

 瘧病にわづらひたまひて、よろづにまじなひ加持など参らせたまへど、しるしなくて、あまたたびおこりたまひければ、ある人、「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ人はべる。

 清げなる大人二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

 「何ごとぞや。童女と腹立ちたまへるか」
 とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、「子なめり」と見たまふ。
 「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」
とて、いと口惜しと思へり。

  南面いと清げにしつらひたまへり。そらだきもの、いと心にくく薫り出で、名香の香など匂ひみちたるに、君の御追風いとことなれば、内の人びとも心づかひすべかめり。

 1000年前に既に日本には香の文化の基本形が確立していました。こうした香の文化は1000年前に突然出現したのでしょうか。文化というのは、そういう現われ方はしません。
 平安王朝で開花した香文化には、先立つ400年の土台があったのです。

 仏教伝来に伴って清めるための祈りの香が伝わってきました。
 素晴らしい香で身を清め、香をたき、祈りを届かせるのです。

 『日本書紀』の595年、推古3年4月。推古というのは日本最初の女帝、推古天皇。摂政が聖徳太子です。この推古3年に流木が流れてきて、ただの木と思って火にくべたところ、素晴らしい香りがたちのぼったため、あわててとりだし、朝廷に献上したという記事が残っています。これが日本の文献に香木が最初に登場した事例とされています。

 『聖徳太子伝略』には、もう少し詳しい記事が残っています。土佐沖で船が難破し、積荷の香木が淡路に漂着したとなってます。
 その香木は「沈水
(ちんすい)の香」と言われます。木はもちろん水に浮きますが、「沈香(じんこう)」は比重が重く、すっ!と沈みます。『源氏物語』では、もっと縮めて「沈」と呼ばれたりしています。

 当時の大和の豪族たちは、香木の価値や使い方を知っていました。

 当時の中国王朝は隋。遣隋使の帰りの船に漢方生薬や香木が積まれ、日本に持ち込まれました。

 奈良の大仏は752年に開眼しました。
 鑑真和上(688〜763)が苦労の末、日本に来られたのは754年のことです。

 鑑真和上は743年から748年まで5回の渡航を試みましたが、いずれも失敗しました。

 743年4月の第1次渡航は、密告され失敗。同年12月の第2次渡航は難破しました。積載品目録に沈香が載っています。
 744年の第3次も遭難。同年第4次を決行しましたが、またも密告で失敗したと『唐大和上東征伝』にあります。
 748年の第5次渡航は最も悲惨な結果を招きました。船は海南島にまで漂着し、鑑真は失明しました。

 しかし、鑑真の執念は753年に第6次渡航を決行させました。
 遣唐使船の帰国便に乗りました。途中で都合があり、船を乗り換えましたが、天が加護しているのか、元々彼が乗っていた船は日本に着くことはできませんでしたが、乗り換えた船は沖縄からついに薩摩に着きました。
 そして、754年2月4日に平城京入りしたのです。

 光を失っていた鑑真に平城京の姿を見ることはできませんでした。
 しかし、鑑真は平城京でかぐわしい香に包まれた筈です。そして、きっと、この国では仏教が根付き、祈りの香りに抱かれていると感じたことと思います。


  


 ここで一度切ります。どうもお疲れ様でした。

 いつものことですが、録音しておりませんので記録違い、記憶違いはご容赦ください。

 
  

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