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(No124) 奈良国立博物館 「第60回正倉院展」公開講座 「正倉院宝物とシルクロード」 聴講記 その1

 平成20年11月8日(土)に、奈良国立博物館工芸考古室長 内藤栄 氏の講演を聴きに行った。その時のメモを。
 


「正倉院宝物とシルクロード」 内藤栄



  内藤さんは、この夏イランへ調査に行かれた結果を活かし、今日は新説を発表されるそうです・・・・という司会の前振りがあった。


 今年は雨が多いですね。昨夜の燈火会も雨で中止になりました。
 これは、今回出品された虹龍が悪さをしていると噂されています。
 この夏、ゲリラ雨が降りました。ちょうどその日、出展作品の調査で虹龍を裏返したりしてたんです。
 梱包の日も雨でした。
 運搬する日も晴れていたのに、虹龍を運び出す時に雨が降り出しました。さすがにこの時は笑いが止まりましたね。招待日
(注 内覧日のことか?)も雨でした。

 燈火会は、夏にやっていたのだが、正倉院展関連イベントということで奈良国立博物館周りで11月7日、8日に再度開催されたようである。

 虹龍については、ここで。
 この奈良博HPには「記録として古いものでは、醍醐寺(だいごじ)の座主(ざす)満済(まんさい)の記した『満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)』に、永享元年(1429)、足利義教(あしかがよしのり)ら一行が宝庫で「龍の日干」を観たとの記録がある。同書にはこの小龍がある故に宝庫の開検時には毎回雨が降るという伝聞が記されており、永享元年の当日にもその時間に降雨があったこと、遡って至徳二年(1385)の足利(あしかが)義満(よしみつ)による拝見時にも雨が記録されていることなどを伝えている」との記事がある。

 今回、第60回目で記念誌が発刊されたのですが、それを見ていて私の本日の講演と同じテーマが過去の記念講演にあることを発見しました。

 昭和58年に樋口隆康先生が講演されているのです。
 シルクロード研究の大家である樋口先生と同じテーマなんておこがましいのですが。

 また、昭和42年には、当時の西村奈良国立博物館学芸課長が「シルクロードと正倉院宝物」という、前後入れ替わっただけで同じテーマの講演をしております。

 さて、皆さんに白瑠璃碗がササン朝ペルシアからのものと申し上げても驚かれないと思います。
 しかし、正倉院宝物がシルクロードと深い関係にあるということが、昭和21年の第1回正倉院展当時、既に通説となっていたでしょうか?
 決して、そうではありません。

 そもそも第1回正倉院展はなぜ行われたのでしょう?

 それは一つ目には戦争で疲れた国民を癒すため。
 二つ目には敗戦による民族的劣等感を払拭するためという理由です。

 つまり、日本にはこんな素晴らしい宝物があるということで誇りを取り戻そうということです。
 いわば、正倉院宝物は天平文化と考えられていたのです。

 学術シンポジウム時の西山厚氏の資料の「昭和21年6月8日付け奈良県観光協会長小野正一氏から、松平慶民宮内大臣あて請願書」にも、「正倉院御物の在りますことは、日本民族の〜唯一の絶大なる誇りであります。
 民族的劣等感乃至卑屈感が蔓延〜」という一節がある。

 このことが如実に表れているのが、目録の白瑠璃碗の解説文です。三行ほどの短い解説文ですが、そこに「外見は、はなはだ今のカットグラスに似る」という一節があります。

 どちらかというと、薩摩切子のイメージでとらえられていました。ササン朝ペルシアのイメージはありません。そこまで遡っては考えられていなかったのです。

 白瑠璃碗とペルシアが結び付いたのは昭和30年代に入ってからで、東大のふかえしんじ
(注 google したが、字がわからない)教授がイランの首都テヘランに調査に行ったおり、たまたま入った骨董屋で白瑠璃碗と同じものを見つけました。
 「譲ってくれ」と言ったのですが、主人が渋ります。教授はハッタリで「10ドル出そう」と言ったところ、それではあまりに高いと感じた主人が「そこまで言うなら、タダで持っていっていいですよ」と言ってくれたそうです。

 どうもこの碗は盗掘品だったようなんですが、教授は出てきた場所がアムラッシュという場所であるとつきとめました。
 そこはカスピ海の南にあたり、盗掘品の集まる場所だったんですね。

 「アムラッシュ」でgoogleすると、こんな記事があった。

 さらに教授は、実際の出土がデーラマーンであることもつきとめ、そこへ行きました。
 すると、地元の人は「こんなもの、少し掘ればいくらでも出てくるよ」と言ったそうです。

 これで白瑠璃瓶なども含め、ササン朝ペルシアのものであるとわかってきました。

 正倉院展側もこれに機敏に反応し、それからササン朝ペルシアを意識した展覧会が2、3回続きました。

 白瑠璃瓶は奈良博HPのここで。

 この頃からシルクロードがクローズアップされてきました。
 松本清張氏が文章を書いたり、井上靖氏が小説を書いたりしました。

 今日来られている皆さんは年齢層が様々ですが、50代、60代の方はこうしたシルクロードブームをリアルタイムで経験しておられる素晴らしい年代なんですね。
 NHKの番組で興味を覚え、平山郁夫の絵でロマンがかき立てられ・・・・。

 ところが、今の高校生はシルクロードに興味を示さないんですね。怖い、と言うんです。何故?と訊くと「あの辺は、危ないでしょ」って言うんですね。まんざら当たってないこともない。
 昨年、ペルシア文明展だか何だかゆう展覧会が全国で巡回展覧されたんですが、あ、奈良博は入ってませんが、あまり当たらなかったそうです。
 シルクロード熱は冷めつつある、と言ってよいかもしれません。

 


 「奈良はシルクロードの終着駅」ということを、いつ頃からかわかりませんが、誰かが言い出しました。
 この言葉はイメージ先行で、実際とは違うと思います。

 シルクロードはやはり、東は長安、西はローマなんですね。

 シルクロードには、
(1) 草原の道、
(2) オアシスの道、
(3) 海の道、の三つがあると言われています。

 あと、日本人は「(4) 遣唐使の道」を付け加えたがっているのです。しかし、それはシルクロード交易で長安に集まった品々を遣唐使が選んで日本へ持ち帰っただけです。
 つまり、そこには「貿易」は存在しないんですね。
 唐のフィルターを介している。

 ですから、「遣唐使の道」とか「奈良はシルクロードの終着駅」という言葉は、ロマンをかき立てるけれど、事実には即していないと言えるでしょう。

 

<参考>

  左図は、新シルクロード博のHPから。

 草原の道とオアシスの道(2本)が描かれている。

 うっすらと長安から奈良への道も描かれている。

 後の話に出てくるが、長安を経由せずに朝鮮半島へつながる道も描かれている。

 下の地図は、wikiの地図。特に海岸伝いの「海の道」をご参照いただきたい。 

 

 下の地図は『新シルクロード』(NHK出版)の衛星写真MAP。

 
下の地図でウルムチを経由する道が草原の道。天山山脈の北なので天山北路
 クチャを通るのが、オアシスの道のうち、西域北道とか、天山山脈の南だから天山南路とか、タクラマカン砂漠の北だから漠北路と呼ばれるルート。
 同じくホータンを通るのがオアシスの道のうち、西域南道とか、タクラマカン砂漠の南を通るので漠南路と呼ばれるルート。

 

 


 


 まだまだ続くが、ここでいったん切る。

 いつものことですが、メモ間違い、記憶間違いはご容赦ください。

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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