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(No120) 奈良国立博物館 正倉院学術シンポジウム2008 「正倉院展60回 その歴史と未来」聴講記 その1

 平成20年11月3日(月・祝)に、正倉院学術シンポジウム2008という催しに応募して当たったので聴きに行った。
 場所は奈良県新公会堂レセプションホール。時間は13:00〜17:00の予定。
 


第1部 研究発表

1.「明治期の正倉院 〜宝物の調査・展示・評価〜」 
東京学芸大学教授 鈴木廣之

 
 1872年(明治5)5月27日〜10月20日に、天保4年(1883)以来40年ぶりに正倉院が開封され、いわゆる壬申検査が行われました。

 この壬申検査を担当したのは、文部省博物局の町田久成内田正雄蜷川式胤(にながわのぶたね?)の三人です。
 蜷川が遺した文章をみると、彼らは個人的にも喜んでこうした調査に参加していることがわかります。

 蜷川の『奈良の筋道』という文章の1872年8月12日の記事には「〜芝居ヲ見ニ行ク心ちニテ〜早朝より楽しミテ」といった記述がある。

 1875年(明治8)4月1日から6月19日まで、第1回奈良博覧会が開かれ、大仏殿内で正倉院御物が公開され、17万人もの人が入場しました。

 1877年(明治10)12月26日、イギリスのデザイナー、クリストファー・ドレッサーが来日し、翌年4月3日まで約4ヶ月滞日しました。
 彼は、1878年2月3日に町田久成の案内で興福寺、東大寺、正倉院を訪問しました。
 彼は、1882年の『日本、その建築、美術および美術工芸』という著作で、(白瑠璃の碗は)「明らかにアラビア作である。〜しかし日本人はそれがどこから来たのか知らず、ただ、彼らの皇帝が千二百年にわたってそれを所有してきたことを知るだけである」と書いています。
 この段階で、日本では正倉院宝物があまり西アジアと関連付けされていなかったことがわかります。

 1879年(明治12)5月1日から9月19日まで、大蔵省印刷局長得能良介(とくのうりょうすけ)とエドワルド・キヨソネらが、宝物調査にまわっています。

 同じく1879年11月15日から翌年1月2日にかけて、アーネスト・サトウウィリアム・アンダーソンが関西を旅行し、79年12月7日には東大寺大仏殿を訪問しています。

 1884年(明治17)5月に、正倉院は農商務省博物局から宮内省に移管しました。

 1888年(明治21)の5月から9月にかけ、九鬼隆一(宮内省)らが近畿地方宝物調査をしました。これにはフェロノサ岡倉覚三ビゲロウらも参加しました。
 この頃から法隆寺とならび、正倉院は不動の評価を受けるようになりました。

 フェロノサの「奈良ノ諸君ニ告グ」という演説(1888年6月5日。於奈良・浄教寺)の文章が残っており、日本開明の遠因は「希臘ノ歴山帝(注 ギリシャのアレキサンダー大王)ガ東征シテ文明ノ種子ヲ遺シタルニ起リ」としています。つまりヘレニズム文化がインド・中国などを経て、さらには朝鮮半島を経て日本に伝わったとしています。

 

 


2.「正倉院宝物の公開 1940/1946」 奈良国立博物館学芸部長 西山厚


 まことに失礼な話だが、先の鈴木教授のお話はだいぶあっち飛び、こっち飛びして話の筋が追いにくかった。上記のメモは、当日配布の資料2種を総合して、時系列的に石野が整理して並べ替えをさせてもらったものである。
 これまた失礼至極なのだが、途中から睡魔に襲われまくっていた。

 で、続いて、私が崇め奉っている西山先生のお話である。現金な話だが、若干の仮眠をとったおかげもあり、眼はパッチリ!と冴えまくっていたのであった。

 1946年、昭和21年にいわゆる第1回正倉院展が開催されたといわれています。
 実は、昭和15年に、東京帝室博物館
(現在の東京国立博物館)で「正倉院展」が開催されていました。
 今までこの両者は戦前・戦後で時期を異にしてることもあり、分離して考えられがちでしたが、実は密接な関係があると私は考えています。

 今回のパワーポイントの資料の表紙に白瑠璃碗の写真を使わせてもらっています。これは今回、第60回正倉院展の展示物のメインの一つですが、先ほどの1940年、46年の両展覧会にも共通して出展されていたのです。

 昭和21年の正倉院展では14.7万人が入場しました。これは奈良博にとって過去の10数年分の入場者数に該当します。

 しかし、この時、切符
(右図参照)は20万枚刷っていたのです。

 では、なぜ20万枚も刷ったのでしょうか?

 これは昭和15年(1940)に現在の東京国立博物館で開催された「正倉院御物特別展覧」を参考にしたためです。

 このスケッチ
(左図参照)は当時の様子を描いたもので、最終日には殺到する群衆により正面の鉄扉の門が壊されたそうです。

 昭和15年は、いわゆる紀元2600年にあたり、記念行事とされたこともあって、入場者数は11月5日から24日までの20日間で417,361人を数えました。

 1日平均で約2万人です。奈良は東京ほど人口が多くないので、半分の1日1万人を想定して、20万枚の切符を刷ったと考えられます。



 昭和15年の「正倉院展」をお手本とした21年の「正倉院展」は、目録もそっくりです。(右図参照)


 さて、昭和21年の、いわゆる第1回正倉院展は、どのような経緯で開催されることになったのでしょうか。

 それは地元有力者から、開放せよとの声が上がったからです。

 昭和21年6月8日付けの奈良県観光協会会長小野正一から宮内大臣松平慶民あての請願書の原本が宮内省に残っています。

 では、なぜ地元は公開を迫ったのか。
 当時、正倉院の宝物が奈良帝室博物館に戦火を避けるため避難していました。 
 奈良帝室博物館が正倉院から預かっていた宝物は、北倉72件、中倉90件、南倉105件の計267件といわれています。

 これを戦争も終ったので正倉院に返そうということになったのですが、地元から「どうせ返すなら、一般開放してから返せ」という声があがったそうです。

 この267件のうち出展したのは33件
(北:7、中:14、南:11、仮:1)でした。この出展する33件を選出したのは、当時の奈良帝室博物館の職員でした。しかし、第2回以降、今日に至るまで出展する宝物を選ぶのは正倉院側ということになっています。

 この第1回の出展目録の「案」が文書で残っています。当時の学芸員が展示品のバランスを取ろうと苦心したメモ書きがその文書に残っています。

 これは会場陳列案です。(左図)

 図面上部が西側正面入り口です。

 入り口入ってすぐ(○印)が図録売場です。まず、ここで図録を買ってもらおうというのです。よく考えてますね。

 奈良博本館会場のメインは中央の1室から3室なのですが、そこをあえて使わずに、回廊だけしか使っていません。

 さらに回廊も片側しか使っていません。ぐるっと一周して入り口に戻ると混雑するので北側(図面右側)に臨時に出口を設け、そこから出しています。人の流れが交錯しないよう、よく考えられています。

 図面右下の○印のところが白瑠璃の碗です。

 この陳列案では、麻布菩薩
(まふぼさつ)鳥木石夾纈屏風(とりきいしきょうけちのびょうぶ)は、間に二つの作品がはさまっています。しかし、当時の公開風景を撮った写真では、両者は隣同士で並んでいます。つまり、当初案はあくまで案であって、現場で実際に並べてみて、より良い方に並べ変える。そんなことは我々(学芸員)にとっては当たり前のことなんですね。

(当時の新聞記事のスライドを表示)
 この新聞記事の見出しに「正倉院の御物を毎年定期に公開」とあります。この昭和21年の第1回正倉院展は、本来は1回きりのものでした。
 どうせ返すなら、見せてから返せ、ということで開かれたものですから、今後も続けようとは考えられていませんでした。ですから切符にも図録にも、どこにも「第1回」という文字はないのです。
 この会期中に、記事のような「毎年公開」と決まったのです。
 これは会期中の昭和21年11月3日に日本国憲法が公布(施行は翌年5月3日)されたことが大きいと思います。
 正倉院の宝物は「天皇の宝物」、「御物」から「国有財産」、国の宝物に変わりました。

 これに伴い、「帝室」博物館は、「国立」博物館に名前が変わりました。
 これが、昭和22年の図録
(右図参照)ですが、(上掲の)帝室博物館の図録と比べてみてください。
 「帝室博物館」とあった部分が「国立博物館」と変わっただけで表紙の感じはほとんど変わりませんね。

 このポスター(左図)をご覧下さい。「国立」博物館に変わったことを強調するため、「国立」の部分だけ色を変えています(下部○印)

 でも上部のタイトルをご覧下さい。国有財産になったというのに「御物」のままです
(上部○印)

 しかし、この辺の感覚は、60回目を迎えた今日
(こんにち)でも、あまり変わっていないようにも思えます。


(スケッチのスライドを表示)

 これは校倉の中のスケッチです。

 宝物の梱包は、高床式の倉庫の床下でやっていました。
 昭和55年まで、そうやっていたのです。
 これは昭和15年の頃から床下で梱包を始めていたのではないでしょうか?

 昭和56年には東京国立博物館で展示され、奈良での正倉院展はありませんでした。
 どうやら、それ以降、中で梱包するようになったようです。


 このイラストにもありますが、例えば白瑠璃の碗も梱包すると、こんなに大きな包みになります。

  こちらは磁鉢の梱包風景です。
 磁鉢を梱包すると、このような箱になります。この箱をひと回り大きな木枠の箱の中に入れます。

 そして、磁鉢の梱包は、大きな外箱から吊り下げられ、底や側面からも紐でつながれます。つまり、磁鉢の箱は、ひと回り大きな木枠の箱の中央部分に「浮いている」かたちになります。これでショックに備えるのです。

 このスケッチは、目録売場の風景です。客が押し寄せてきているので、まだ残っていますが「売り切れ」を宣言しています。

 このスケッチは、会場風景です。螺鈿紫檀琵琶(らでんしたんのびわ)の独立式展示ケース、我々は行灯(あんどん)ケースと呼んでいますが、そこに観衆が群がっています。
 解説文には、観衆が寄ってきて離れないさまを「家ダニの如し」と書いてあります。
 また、女性の方が熱心に鑑賞していたようで、「執念深いは、道成寺の清姫のみにあらず」とも書いてあります。
 この経験を生かして、閉館後に琵琶を独立ケースから壁付きケースに移したそうです。

 明治当初は、日本人一般は、御物の価値を誰もわかっていませんでした。

 しかし、明治8年(1874)の奈良博覧会には17万人の観客を集めました。展示物のメインは、完全に正倉院御物でした。
 明治8年段階で、正倉院御物のランクがぐっと上がったのです。
 また、明治8年に正倉院は内務省所管となりました。国家管理となったのです。また、南倉も勅封となりました。このように明治8年は正倉院にとって大きな変革の年でした。

 明治10年には天皇が奈良に行幸し、正倉院を天覧されました。こうゆうのが大きいのです。

 また、同じ明治10年に正倉院周辺の民地が買い上げられました。一帯を聖域化しようとする試みです。

 明治11年には法隆寺が宝物を献納しました。

 明治17年に正倉院は宮内省の所管となりました。正倉院の宝物は「御物」となりました。

 明治25年には宮内省に正倉院御物整理掛がおかれました。
 この頃から、思い切った修理が始まりました。
 これは、正倉院御物は天皇の宝物であり、いたんだ状態のまま保存するのではなく、当初の素晴らしい状態に戻そうというポリシーがあったと考えられます。

 正倉院御物の特徴は、一つ目は「天皇の宝物」であること、二つ目に「他を凌駕する」質と量であること、三つ目に「勅封」、すなわち非公開であることです。

 つまり、庶民は見られないものであったのです。

 正倉院御物の公開のことを「禁断の木の実を思うまま口にできることだ」と表現した人がいます。だから、人が殺到するのです。


 


 
 いつものことですが、メモ間違い、記憶間違いはご容赦ください。
 
 どうもお疲れ様でした。

 
  

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