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(No12) 藤田美術館「藤田家の茶道具」鑑賞記

 第113回春季展であり、開館五十周年記念の「藤田家の茶道具」展を観てきました。
 会期は平成16年3月20日から6月6日。  

 


 大戦にも焼け残った土蔵を展示館としているそうだ。
 受付で700円也を支払い、ついでに平成3年の「館蔵名品展」の図録を買う。

 展示室に進み、緋毛氈を敷いた階段を上がって、まず2階へ。


 最初に出迎えてくれるのは、江湾山水図(狩野正信 筆。室町時代。縦68×横33)。
 手前に松、中ほどに湾曲した入り江、そして遠景にごつごつした山岳。
 余白の多い、すっきりした山水画。


 続いて古銅角木花入(こどうつのぎはないれ。大名物※注1。明時代。高さ24.1、口径2.0)。
 「首の非常に長い、いわゆるゾロリと称する形の花入であ」る。なお、うちの末っ子がいま夢中なアニメは「かいけつゾロリ」。
 角木とは何か、というと要は「鏑矢」の形に似ているからそう呼ぶそうだ。

 画像は藤田美術館HP内のここから。

注1 「おおめいぶつ。名物といわれる道具のうちで、利休以前の東山時代に珍賞されたもの」(『陶磁用語辞典』保育社カラーブックス)

なお、「名物」とは「茶器の名物の中で利休時代のものを単に名物と呼び、織田信長・豊臣秀吉が津田宗及・千利休らに選ばせたもの」(同)


 古井戸茶碗 銘 老僧は李朝時代の作。
 古田織部
(※注1)が豊臣秀吉から拝領した茶碗だそうで、「老僧」という銘は織部がつけたと伝えられているそうだ。
 その枯れたようなたたずまいから、つけられたものなのだろうか。
注1 「ふるたおりべ。茶人。〜織部の茶は利休が侘茶に徹したのに反して、豪放さと芸術的作意を外に表わし武人の茶として大きな足跡を残す」(前掲辞典)

 

 私の好きな青磁の作品があった。砧青磁 袴腰香炉 銘 香雪(龍泉窯。南宋。高さ10.5、口径13.5)。


 黒楽茶碗 銘 ほととぎす(常慶 作。桃山時代)も、楽家二代目常慶の作は現存するものは数少ないとのことなので、大変な名品なのであろう。
 「沓形で大きくゆがんだ個性的な姿」とチラシにはあったが、まだまだ茶道に暗く、値打ちがよくわからない点がもどかしい。


 さて、いよいよ今回のメインといってよい曜変天目茶碗(建窯。南宋。大名物。国宝。高さ6.8、口径12.3、高台径3.6)である。
 ぱっと見は地味である。黒い茶碗の中に白く細いわっかが散っているようにしか見えない。
 展示ケースの下に「自由にお使いください」ということで懐中電灯が置いてあったので、さっそく照らしてみる。
 見違えた。斑文の周りに月の暈のように玉虫色の光彩が。

 色も青いところ、水色っぽいところ、やや緑がかったところ、紫めいたところと千変万化である。
 光を当てる角度によって色も変化する。
 斑文の周囲だけでなく、縦方向にも色がついている。モルフォ蝶の鱗粉のようでもあり、極北のオーロラのようでもある。

 『建窯瓷』(著:葉文程・林忠幹。二玄社)によると、この輝きは「釉面に生じた極めて薄い被膜が起こす光の干渉作用によるもの」だそうだ。

 画像は藤田美術館HP内のここから。

 
 大井戸茶碗 銘 蓬莱(李朝時代。大名物。高さ8.5、口径15.2、高台径5.8)は、井戸茶碗(※注1)の中でも大振りな姿から「大井戸」と分類されるそうだ。
 武野紹鴎が愛用したため、「武野井戸」とも称される。

 胴のあたりには斜めに線が入ってるし、高台まわりは何かちぢれたようになっているが、図録の解説では「胴に強いロクロ目(※注2)が力強く残って景色を添え〜高台の周囲のかいらぎ(※注3)も十分に現われ、その姿が非常におもしろい」とある。 

 画像は藤田美術館HP内のここから。

注1 「朝鮮茶碗の首位にランクされるもの。生産地〜名称の由来は〜不明」(『陶磁用語辞典』保育社カラーブックス)

注2 「ロクロづくりのとき、その回転に伴い器物の表面についた筋あと。一つの景色とする」(同)

注3 「釉がちぢれて荒れた様子が鮫皮に似ているところから呼ばれ〜技術的には焼成不足からくる欠陥であるが、井戸茶碗などでは腰部や高台付近にみられるのを一つの景色として賞美する」(同)





 さて、続いて1階に下りてみる。

 籐組楕円形共蓋茶籠(江戸時代)、黒漆地三番叟蒔絵茶箱などが並ぶ。
 イメージとしては、「お裁縫箱」って感じだろうか。

 それぞれの箱(籠)の前には、そこに収納される茶入、香合(※注1)、茶碗、茶筅、茶杓などが並べられていた。

 セットされたそれぞれの品も仁清(※注2)作の色絵鴛鴦香合宋胡録(※注3)の香合、唐物茄子(※注4)の茶入、唐物文琳(※注5)の茶入、また、茶碗も塩笥(※注6)、青井戸 銘 隼(※注7)、粉引(※注8)、刷毛目 銘 浪月(※注9)、赤楽 銘 青苔(※注10)など、バラエティに富んだ名品ばかり。

注1 「こうごう。薫物(たきもの)の香を入れる蓋付の器」(前掲辞典)

注2 「ののむらにんせい。京焼の巨匠」(同)

注3 「すんころく。タイの旧都、スワンカロークの窯でできた焼物。1294年、中国の陶工によってはじめられたと推定される」(同)

注4 茶入とは、「ひき茶を入れる陶製の器」(同)。
「唐物茶入のうちで茄子を第一と」する。(図録解説)

注5 「中国の故事に天子に美しい林檎を献上したところ、文琳郎の官を授けられたというのがあり、それ以来林檎を文琳と呼んだという。この種の茶入の形が林檎に似ているからこの名称が起こった。茄子や肩衝とともに唐物茶入の代表的なもの」(図録解説)

注6 「しおげ。朝鮮で塩や味噌を入れていた壷が渡来して、わが国の茶人に茶碗として愛用された。口縁が開いていて、その下が狭まり胴が膨らんだ小型の壷で〜独楽茶碗ともいう」(前掲辞典)

注7 「朝鮮産の井戸茶碗の一種で、総体が青い色調」(同)

注8 「こひき。高麗茶碗の一手で、粉吹ともいう。鉄分の多い胎土に全面たっぷりと白泥をかけ、その上に透明釉を施して焼いたもの」(同)

注9 「はけめ。色土の上を化粧するのに、ロクロにのせて刷毛で白泥を引」いた茶碗(同)

注10 「あからく。赤い楽焼をいう。素地に酸化鉄の粘土を塗り、そのうえに透明釉を掛けて焼造したもの」(同)


 絵替小皿 尾形乾山作(※注1 江戸時代)などを経て、黒楽茶碗 銘 千鳥 ノンコウ作(江戸時代)へ。
 「ノンコウとは楽家三代道入のことで、光沢のある茶碗が特徴である。銘は表面にある二つの三角形を千鳥の足跡と見立てたものである」とチラシにあった。

 また、前掲辞典には、(ノンコウ)「の名の由来については諸説あるが定説はない。楽家最高の名工といわれ 、ノンコウ以前の楽焼は色合いに光沢がなかったが、上釉や窯の研究により光沢のある優雅な楽茶碗を完成させた」とある。

 確かに、黒々と艶やかに濡れ光ったような茶碗であって、照明の加減か、ぎらついている印象さえ感じた。
 私自身の好みでいくと、正直言ってあまり好きなタイプではない。

 チラシでは、近くに焙烙 伝 長次郎作(桃山時代)というのが展示されていた筈なのだが、よく覚えていない。
 長次郎というのは、楽焼の始祖である。
 ところで、北大路魯山人が『魯山人陶説』の中で楽焼三代について評しているので、参考までにご紹介したい。

「 長次郎(安土、桃山時代)・・・・・日本陶芸史上唯一の芸術家」

「 長次郎の茶碗は、難癖をつけるところが先ずないのです」

「 長次郎は見ても、こいつはしっかり者だなというところはありません。ただ暖かい、まどかな、感じのいい楽に付き合える人間のようです。そうして貫禄では劣りません。
 朝鮮茶碗の中で井戸茶碗というのが有名ですが、なぜ井戸茶碗がいいのかというと、品格がよくて、貫禄という重さがあるのです。
〜そういうよさでは長次郎が個人作家としては一番秀れた人だと言って間違いない」

「 二代目常慶でありますが、これは現物をあまり見たことがないので批評は出来ませんが〜桃山らしいふくよかな、薄作りながら力のあるものです。しかし、長次郎のような格高い貫禄、重みのあるものではありません」

「 長次郎三代 のんこう(江戸初期)・・・・・のんこうには長次郎にみられる強さはない。豊かさに於いても格段に劣る」

注1 「おがたけんざん。〜仁清に師事し、元禄12年(1699)京都鳴滝に窯を築いて兄光琳との合作を多くつくった」


 さて、1階のメインは、小堀遠州(※注1)が所持していたという菊花天目茶碗(室町時代。中興名物(※注2)。重文。高さ6.8、口径12.1、高台径4.6)であろうか。

 図録の解説によると、「素地は鼠色の粗い瀬戸の土を用い、内外面に黒飴色の俗称古瀬戸釉をかけて、焦げた部分は柿釉となり、金属的な光沢を放っている所も現われている。
 縁にかかる弱い透明性の白釉は内外に長く流れて〜菊の花のように見え」る。

 画像は藤田美術館HP内のここから。

注1 「こぼりえんしゅう。茶人〜茶は古田織部についたが、遠州の茶は武家風と公家風をあわせた『綺麗さび』といわれ、大名茶を完成したといわれる」(前掲辞典)

注2 「茶器のいわゆる名物のうち、藤四郎以下後窯、国焼などの名品で、名物に漏れたものを小堀遠州が選んだもの」(同)

 あと、志野一文字香合(桃山時代)が展示されていたのだが、これが5月1日から交趾大亀香合(こうちおおがめこうごう。明時代。大名物。高さ6、長さ10、底幅4、底長5.8、胴幅7.9)に展示替えされるそうだ。

 なお、この大亀香合は、図録解説によれば、「多数にある形物香合のうち最も大形で、製作は優秀、豪華であり、古来から非常に有名〜安政2年(1855)に上梓された形物香合相撲番付(で)〜この種の香合の第一位として尊重している」とある。

 また、図録には、(藤田)「傳三郎翁骨董蒐集雑記」という一文が載っている。
 そこには、翁は、馬越恭平という人物から明治32年に田村文琳茶入(明時代。名物)を6000円で入手した。
 しかし、その後一向に、この茶入を披露する茶会が開かれない。
 馬越がそれを訝って尋ねると「これに釣合う一具が整わない」との返事。そこで、その一具とは?と重ねて問うと「大亀香合」と静かに言い放ったという。

 その後時が流れ、明治45年、翁は老齢と持病の喘息が悪化し、死の床にあった。
 しかし、大亀香合が売りに出されると知り、茶道具商戸田露朝に必ず落札するよう臥床から注文を発した。
 そして、入札当日。戸田は一番の高値札7万3千円でいったん落札したが、持ち主の生島家が売り渋って引っ込めてしまったため、入札会場は収拾がつかなくなってしまった。

 しかし、戸田は、前の値も当時破格の値であったが、さらに9万円の値を提示。
 無事落札して、病床の翁のもとに駆けつけ、耳元に口を寄せ、入手したことを伝えると、翁は「それは満足」と言い、にっこり笑って瞑目し、そのまま息を引き取ったというのである。

 それほどの名品であるのだが、写真を見る限りでは、そこまでの価値があるものなのか、どうも私にはわからない。 

 画像は藤田美術館HP内のここから。


 書道展でも、自分が書をかじっておればもっと価値がわかるのだろうな、と思った。
 芸術、美術はわかる、わからないではなく、自分にとって美しい、おもしろいと感じるかどうかだけだ、という意見もある。しかし、理解の深みというか、わかる、わからないという部分もやはりあるのではないだろうか。

 そういう意味で、自分に茶道の心得があれば、この茶道具展も、より理解できたのかなと感じる。
 で、会期が6月までだし、会場は自宅から近いところ(家と会社の間にあるので、定期で行けるのだ)にあるので、大亀香合が展示される5月以降に、機会があればもう一度行ってもいいかなと思っている。

  

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