移動メニューにジャンプ

(No111) 京都国立博物館 特別展覧会「狩野永徳」 鑑賞記 その1

 2007年10月16日(火)〜11月18日(日)、京都国立博物館にて開催された特別展覧会「狩野永徳」の鑑賞記。


  狩野永徳とは

 皆さんは詳しくご存じかもしれないが、私自身は、「狩野派」という言葉は知っているが、実際のとこ「狩野○○」できっちり把握している人物はいなかった。

 お恥ずかしい話だが、狩野探幽という名前が一番覚えがあり、「永徳」も記憶しているような感じはするが、代表作にどんなものがあるか?とか、誰が誰の子供か?とか全然確かな知識はない。

 で、図録などから簡単に概説を。

 狩野元信(1477〜1559)は30代で父正信の家督を相続して以降、狩野派隆盛の基礎を築いた。

 その後、家督は三男松栄(1519〜92)が相続し、さらに松栄の長男永徳(1543〜90)に相続された。

 『言継卿記』天文21年(1552)正月29日の記事に、公家の山科言継(やましなときつぐ)が、三年ぶりに帰洛した13代将軍足利義輝のもとに挨拶に馳せ参じた人々の中に孫を連れた元信の姿が見かけたとあるそうだ。
 元信は早くから永徳の才能に着目し、英才教育を施していたようである。

 こうした元信傘下で修行していた時代と思われる作品としては、州信印(永徳の使用印)を捺す「花鳥図押絵貼屏風」「老莱子図」「四季山水図屏風」などが挙げられる。

 また、比較的早い時期の永徳作品で注目されるのが上杉本「洛中洛外図屏風」である。

 その後、永徳は織田信長に認められ、安土城諸御殿の障壁画制作を命じられ、弟子を引き連れ安土に移住する。

 聚光院の「花鳥図襖」「琴棋書画図襖」は、永徳前半期の作と考えられている。

 信長没後、永徳は信長の後継者である豊臣秀吉にも重用された。秀吉発注と考えられる作品としては、「織田信長像」「唐獅子図屏風」「檜図屏風」などが挙げられる。

 

 



1 墨を極める

【 1 国宝 花鳥図襖 狩野永徳 京都府・聚光院 】

 図録解説によると、聚光院とは戦国武将の三好長慶(1522〜64)の菩提を弔うため創建された大徳寺の塔頭であり、そこには狩野松栄・永徳親子による障壁画が64面備えられているとのことである。

 この花鳥図は、「筆さばきは荒々しく、墨調も極度に単純化されている。また景物の数も限定されると同時に極端なまでの近接拡大化が図られており(これを大画方式と呼ぶ)、画面は著しく動的な趣致を帯びている。なかでも大地を鷲掴みにして立つ老梅や巨松の姿は圧巻で、あたかも巨大な動物が激しく身をくねらせ、己の存在を主張しているかのごとき印象すら抱かせる」(図録P246)。

 また、「金碧画の代表作を『洛中洛外図屏風』(48)や『唐獅子図屏風』(67)とみるならば、本図は水墨画の領域における永徳芸術の頂点に位置する」とある。このコーナーのタイトル「墨を極める」の由縁であろう。


 画像は、リンク切れになるまでの京博HPのここ(「展示作品紹介」から)あるいはここ、または本HPのここで。


【 2 国宝 琴棋書画図襖(きんきしょがずふすま) 狩野永徳 京都府・聚光院 】

 タイトル通り、右方から琴・将棋・書・画に興じる高士たちの姿が描かれている。

 「強靭かつ鋭利な筆線と執拗なまでの描き込みによってもたらされる量塊感は、まさしく永徳固有のもの」とある。 


   

【 3 国宝 竹虎図壁貼付 (ちくこずかべはりつけ) 狩野松栄 京都府・聚光院 】

 「軽妙で、どこかユーモラスな雰囲気を備えたものとなっている。また岩や波の表現にみる、松栄特有の震えるようなリズミカルな筆遣いも印象的である。〜いくぶん地味な印象は拭えないが、画面全体に漂うほのぼのとした雰囲気は観る者の心を和ませるものがある。松栄の特徴がよくあらわされた作例として高く評価されよう」とある。

 この「ほのぼの感」の理由については、後で永徳の竹虎図が出てきたところで考察してみたい。


【 5  花鳥図押絵貼屏風 狩野永徳 】

 画像は、リンク切れになるまでの京博HPのここ(「展示作品紹介」から)で。

 『本朝画史』(著:狩野永納)には、(1) 永徳は画法を父松栄でなく祖父元信から受けたこと、(2) 細筆を用いて丹念に描く「細画」の制作が中心で、粗放な筆墨によるスケールの大きい「大画」制作は希だった・・・と書いてあるそうだ。

 上図左が本花鳥図十二面のうち「枇杷に緋連雀図」であるが、右は祖父元信が描いた花鳥図。粉本(お手本)に基づき忠実に描いているといえる。


  

【 7  老莱子図 狩野永徳 菊屋家住宅保存会 】

 「画題の老莱子(ろうらいし)は二十四孝(中国の太古より元代までの孝子二十四人のこと)のひとりで、周代の人。七十歳になっても老父母の前ではけっして年老いた姿をみせず、幼児のなりをして舞い戯れ、両親を楽しませたという」とある。

 図録では本画の人物の顔や岩の描き方が(2)の琴棋書画図襖と共通し、「永徳初期作の可能性が濃厚な細画」としている。

 例えば、面長で顎の尖った老莱子の面貌が、琴棋書画図襖の高士のそれに通じるとあるのだが、私は一方で、同じ老莱子を描いた(8)の二十四孝図屏風の面貌とはずいぶんイメージが異なるなあと感じるのだ。

     
老莱子図 琴棋書画図襖 二十四孝図屏風

 また、巨岩にみられる「執拗なまでに凹凸を重ねていく過剰な立体表現」は、琴棋書画図襖ではより徹底した形で見出されるとある。

老莱子図 琴棋書画図襖 二十四孝図屏風

 これまた、確かに老莱子図の岩と琴棋書画図襖の岩は似てるなあと思うのだが、二十四孝図屏風図の老莱子を描いた部分の岩とは少しイメージが違う気がする。

 もっとも、別に二十四孝図屏風が永徳筆ではない!・・・・なんて主張する気はこれっぱかりもない。老莱子の袖のラインなんかは通じるものがあると思うし。 




【 8  二十四孝図屏風 狩野永徳 福岡市博物館 】

 「款印はないものの、永徳の比較的早期の作とみなされる大画面の遺品」とある。図録冒頭で「本展では〜二十四孝図屏風を永徳真筆とみなす立場にあり」と書かれているので、本画を永徳真筆としない意見もあるのだろう。

 「筆法は永徳若描きと目される『四季山水図屏風』と同じ行体手法を取るが、諸景物の表現はそれに比してよりはっきりと永徳の個性を示しており、聚光院『花鳥図襖』や『琴棋書画図襖』〜や『許由巣父図』のそれとの間に多くの類似点が指摘される。その反面、筆遣いは力強いが洗練度に欠け、墨調にもすっきりしない点が認められることは否定しえない」ともある。

二十四孝図屏風
琴棋書画図襖 鷺烏図屏風(出展なし) 花鳥図襖


 図録解説者が人物の顔、懸崖、水流などで類似しているものを比較対照しているのが上図である。言われてみると、「二十四孝図屏風」の方が下段のものより少しもっちゃりしてるかなぁ?とは思うが、よくわからない。


【 9  四季山水図屏風 狩野元信・永徳 香雪美術館 】

 「右隻は元信の真体山水図の代表作として夙に有名だが、左隻については永徳筆という伝承がありながらも〜単に桃山時代の補作とされて、ほとんど顧みられることのなかったものである。だが細部を詳しく観察していくと〜随所に聚光院『琴棋書画図襖』との親近性が認められる」とある。

 とりわけ「短い皺を並べるように鋭く打ち込む岩法は永徳の個性を明瞭に伝えるものといえよう。もっとも、筆致それ自体は(2)=琴棋書画図襖ほど強靭かつ鋭利ではなく、書き込みも過剰ではないが、かえってそれが本図の作期が早いことを暗示しているようにみうけられる」とある。下図で比較しても、確かによく似ている。

四季山水図屏風 琴棋書画図襖

 さらに図録解説では、遠山も比較している。

四季山水図屏風 琴棋書画図襖

 そして「いくぶんたどたどしい輪郭線の特徴が、元亀元年(1570)頃の作とされる『渡唐天神像』の衣文線のそれと近似することも注意されてしかるべきであろう」としている。
 琴棋書画図襖の方の山の輪郭には迷いがないが、四季山水図の方は若干行きつ戻りつしている感じがあるということだろうか。では、次に、輪郭線のたどたどしさが似ているという「渡唐天神像」を観てみよう。

 


【 10  渡唐天神像 狩野永徳 愛知県・定光寺 】

 図録によると「渡唐天神像とは、東福寺を開いた聖一国師(円爾)の助言によって天神が一夜にして中国に渡り、かの地の高僧無準師範に参禅したという伝説に基づき描かれたもの」とある。
 なお図録では無準師範という人名に振り仮名がついていなかったが、以前聴いた講演によると、確か「ぶしゅんしばん」と読む筈である。

 その鑑賞記はここであるが、とりあえず関係の深い部分だけを下記に抜き出しておく。

3.破庵派

 
圜悟克勤の法嗣である虎丘紹隆の法系である破庵祖先を派祖とする禅僧のグループ。

 この派では無準師範(ぶしゅんしばん。四川省の人。破庵祖先の法嗣)が有名。

 東福寺の開山(かいざん。寺院の創始者)である円爾(えんに。駿河出身)や、日本に禅を伝えた無学祖元は無準の法嗣。

 (9)でいう「たどたどしい輪郭線」というのは、たとえば下図左のような部分(特に右袖の辺り)を指すのであろうか。

 渡唐天神像は、「中国の道服を着た正面向きの立像で、前で組んだ腕に梅枝を抱き、肩から鞄(嗣法の証として無準から授けられた袈裟が納まる)を提げるのを通例とする」とある。

 さらに永徳の祖父元信が生み出した「元信様渡唐天神像」は「均整の取れたプロポーションと端正な顔立ち、そして腰を少しひねる点に特色が見出される」とのことである。

 本画は「永徳28歳頃の比較的早い時期の作」ではないかとされている。

 左図の梅の描きぶりは「黒点を多用した梅枝などの表現に永徳風が顕著である」といわれている。

 あと、永徳の特徴としては「『M』あるいは『W』字形を呈する裾の線」というのが挙げられている。

 上図は、この永徳本「渡唐天神像」の裾の部分である。

 ちなみに、元信筆の「松下渡唐天神像」(京都国立博物館)の裾の部分を下に掲げておいた。

 これは実に穏やかな裾のラインを呈している。

 

 

 


 


【 11  柿本人麻呂像 狩野永徳 群馬県立近代美術館 】

 一目観て、何か懐かしい気がした。
 何故か、と思ったら、こないだ読んだ『水底の歌 柿本人麿論(下)』(著:梅原猛。新潮文庫)に京都国立博物館所蔵の「柿本人麿像」が載っていたからであった。
 それは永徳作ではないが、ポーズが全く同じなのでデジャブ(既視感)を感じたのだ。

京博本「柿本人麿像」 永徳本「柿本人麻呂像」 許由巣父図 仙人高士図屏風

 図録解説者は、永徳本「柿本人麻呂像」と仙人高士図屏風の人物の「面長で彫りの深い顔立ちが〜酷似している」と指摘している。私は、許由巣父図の許由の顔に似ているなと先に思った。

 京博本は鎌倉時代の作と目されているらしい。京博本より永徳本の顔の方が上品そうに見えるが視線の向きが微妙である。


 

【 14  老松竹虎図 狩野永徳 アルカンシェール美術財団 】

 「図様は松栄の手になる聚光院『竹虎図壁貼付』のそれに近いが、スケールの点では本図の方がはるかに大きい。また松栄画に看取される温和な雰囲気は本図にはなく〜画面には激しい躍動感とともに、ある種の緊張感さえもたらされている」とある。

 要は松栄本はのんびりした感じだが、永徳本は張り詰めた感じがするということだろう。それはなぜだろうか?

 私は松栄本「竹虎図壁貼付」(上図)のほのぼの感の理由として三つ挙げたい。
 一つ目は、虎の視線だ。何か横をきゅっと向いてるみたいで、いたずらっぽい感じがして可愛い。
 二つ目は、獰猛な虎のすぐ側に、レンゲか何かみたいな、可憐な野草の花が描かれていること。
 三つ目が、岩も(ひょっとして岩じゃなくて土くれなのかもしれないが)丸っこいこと。

永徳「老松竹虎図」
永徳「老松竹虎図」 花鳥図襖 永徳「老松竹虎図」

 永徳本の岩は丸っこくなく、虎は怖い眼で正面を向いている。花もない。
 図録解説では、岩などの細部表現は聚光院「花鳥図襖」のそれと見紛うほどよく似ているとしている。上図真ん中で、比較画像を載せている。似てると言えば似てるが、花鳥図襖の岩の方が、かなりエッジが立っている。それだけ研ぎ澄まされたということなんだろうか。




【 16 重文 許由巣父図(きょゆうそうほず) 狩野永徳 東京国立博物館 】

 「画題の許由と巣父はともに中国上代の伝説に登場する隠士。尭帝から天下を譲りたいといわれた許由は、汚れた話を聞いたと頴川の水で耳を洗う。そこへ牛を牽いてきた巣父は、汚れた水を牛に飲ませるわけにはいかぬと立ち去ったという」とある。

 許由の顔は(11)のところに載せたが、左図は、許由の裾の部分である。

 「許由と巣父の面貌は明らかに永徳のそれを示しており、強靭で、裾が『M』ないしは『W』字形を呈する衣文描写などもまさしく彼固有のものといえる」とある。

 となると、左図のような表現は永徳筆かどうかを判断する指標として記憶しておかねばならないようだ。




【 17 重文 仙人高士図屏風 狩野永徳 京都国立博物館 】

 「右隻は三株の松の下に集う仙人・高士たちの姿を描くもので、松の根に腰掛けるのは鉄拐、そして瓢箪を肩に担ぐのは呂洞賓であろう。また大きな編笠を背負う童子を従える高士については、これを蘇東坡とみる説がある」とのこと。

 画像は、リンク切れになるまでの京博HPのここ(「展示作品紹介」から)あるいはここ、または本HPのここで。 

 (李)鉄拐(りてっかい)だの呂洞賓(りょどうひん)というのは、いわゆる「八仙」といわれるメンバーである。これについては昔にHPに載せたので、ここを参考にしていただきたい。

 「筆法は聚光院『花鳥図襖』や『許由巣父図』などと同じ行体画に属するが、諸景物を形づくる筆線はそれらよりも切れ味鋭く、かつスピーディーである。反面、力感や量感という点では両図より見劣りすることは否定し難く、その点をもって永徳筆を疑問視する向きもある。〜本図みる鋭角的で平板な岩の形態が、天正18年(1590)に制作された『檜図屏風』のそれと近似することも見逃せない」とある。
仙人高士図屏風 檜図屏風




【 19 松鶴芦雁図屏風(しょうかくろがんずびょうぶ) 伝・狩野永徳 】

 「両隻下端には『祖父永徳法印真画也』と記す狩野安信(1613〜85)の紙中極めがあるが、(1)や『許由巣父図』(16)あたりと比べると、力感や緊張感に乏しい点は否めない。また松枝や土坡にも無理矢理引き伸ばしたような不自然さが看取され、鶴の形姿も(1)のそれよりいくぶん華奢で目が大きく、どこか優しげな雰囲気を備えていることがわかる。
〜(永徳真筆でなく作者は)嫡男の光信(1565〜1608)はその最有力候補であって、彼の若描きと目される南禅寺『竹鶴図襖』には先の特徴を備えた鶴の姿が見出せる」とある。

松鶴芦雁図屏風 竹鶴図襖 花鳥図襖

 上図左の「松鶴芦雁図屏風」は孫の安信が祖父(永徳)の作品だと書き入れており、永徳作か?伝えられている。
 上図中の「竹鶴図襖」は、永徳の嫡男光信筆と目されている。
 そして、上図右の「花鳥図襖」は永徳筆とされている。

 そこで、まず両端の鶴を比較してみる。図録には、「松鶴」は、「花鳥図の鶴」より「いくぶん華奢で目が大きく、どこか優しげな雰囲気」としている。
 「華奢」というのは、「松鶴」は「花鳥図の鶴」より頭が大きくて首が細いので、そう見えるのではないだろうか?「花鳥図の鶴」の頭は首の部分とそれほど大きさが変わらないので、胴体から太いウナギが伸びているようにも見える。その点、「松鶴」の首は頭を支えきれずに折れるのではないか?とやや心配に思える。

 目は、それほど極端に大きさが異なるわけではないが、言われてみると「花鳥図の鶴」の目はやや横長。「松鶴」の目はつぶらで丸い感じ。

 あと気付く点としては、「松鶴」の胴体がずいぶんふっくらと言うか、ぽってりしている点。だから「松鶴」は「花鳥図の鶴」よりやや女性的と言うか、「優しげ」に見えるのではないだろうか?

 で、「竹鶴」を観てみると、確かに「花鳥図の鶴」よりは遥かに「松鶴」に似ている。

 よって私も、図録にある「光信が最有力候補」という説に賛成である。


  


  

 どうもお疲れ様でした。

 
  

inserted by FC2 system