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(No100) 特別陳列「お水取り」鑑賞記 その2 

 2007年2月17日(土)、奈良国立博物館主催「講話と粥の会」で、講話の後、奈良国立博物館西山厚教育室長の解説で特別陳列「お水取り」を見学させていただくことになった・・・・・の続き。


 


【 6.本行 】
【 (1) 初日 】


【 (2) 食堂作法 】

 観音様に粥を先にお供えして、それから僧が食べます。昼の食堂作法の時も同じ。
 それがこの道具です。(重文 金銅鉢 奈良時代 8世紀)

 東大寺では、奈良時代のものを平気で昭和19年頃まで実際に行事を使っていました。いくら何でもということで、最近、保管されるようになりました。
(※ 石野注)
 図録には、食堂作法時の写真が載っていた。以前の上司永照師のお話で、五合の飯が盛られるが相当な量だとおっしゃっていた。その写真を見ると、正座した練行衆の前には黒塗りで足の高いお膳(二月堂机というらしい)があり、その上に外は黒、中は朱塗りの大きな鉢が乗せられている。
 そして、その鉢には、こんもりとうず高く飯が盛られ、黒いしゃもじが差されていた。確かにすごい量です。

 その膳の下に、食後に器を下げるため置かれるのが二月堂練行衆盤。
 重文 二月堂練行衆盤 (鎌倉時代 永仁6年=1298)の画像は、奈良博だよりにて。また、リンク切れになるまでは、奈良博HPにて。 



【 (3) 六時の行法 】

 こちらには、二月堂の礼堂が再現されています。
 これは実は3月8日からの姿なんですね。小観音さんがおさめられた厨子が前に来ています。
 3月7日までは大観音が前に、小観音さんはその後ろにいらっしゃるのですが、8日から小観音さんが前に回ってくるのです。
(※ 石野注)
「小観音の厨子は普段は内陣中央に立つ大観音の前に置かれているが、試別火の2月21日に大観音の後ろに移され、上七日の最終日である3月7日夜、礼堂に出御する。その後改めて内陣正面の須弥壇上に据えられ、同像は下七日の本尊となる」(「図録」)

 先ほども申し上げたように修ニ会とは、ともかく観音におわびし続けるものなのですが、どうでしょう、私が観音なら、そんなに謝られてばかりだと、だんだん気が重くなってきますね。
 そこで、いわゆるキリスト教でいう賛美歌のように、観音を誉め讃えるんですね。
 今、場内で声明が流されているんですが、ちょっとお聴き下さい。今、「南無観自在菩薩」と言ってますね。これがフルネームです。そして・・・・・はい、今、「南無観自在」と言ってます。
(ちらっと腕時計を見て)時間もないんですが、せっかくですから、「南無観」になるところまで聴いていきましょう。
(※ 石野注)
「悔過法要の中心は、称名悔過(十一面観音を讃える)・宝号(十一面観音の名号を唱える)・五体投地(体を板に打ちつける)・五仏御名(十一面神呪の功徳を讃える)・大懺悔(おおいさんげ)・小懺悔(しょうさんげ)で、五体投地を除くと、これらは美しい節が付いた声明(コーラス)でもある。〜
〜現在、宝号は「南無観自在菩薩」、「南無観自在」、「南無観」の順に縮めながら唱えられ〜」(「図録」)

 礼堂には白いカーテンが掛けられ、そのカーテン内が内陣と呼ばれます。
 カーテンの内部は見ることができません。練行衆の影がカーテンに映ります。それが良いのです。

 決められた僧が出てきて五体投地をします。
 礼堂に置かれた板に膝を打ちつけます。その瞬間には、激しい音とともに、二月堂全体が振動します。その光景は、一度見たら忘れることができません。

 板は礼堂の床まで10cmくらいの隙間があります。もし、その隙間がなければ、一発で骨折ですね。

(※ 石野注)
 奈良国立博物館新館2階の会場で礼堂や内陣がモデル展示されていた。
 礼堂の板の間の端には、長い板が置かれていた。中心からやや外れた場所に、別の板が敷かれており、ちょうどシーソーのようになって、片方が浮いている。ここが先生の言う10cmくらいの隙間であり、おそらく白い布を巻いて、座布団みたいな感じでクッションにし、そこへ膝を打ちおろすのであろう。

 



【 (4) お水取り 】

 二月堂縁起のこちらは、お水取りに関する伝説を描いたものです。
 先ほどの二月堂曼荼羅にも閼伽井屋の横に黒と白の鵜が描かれています。

(※ 石野注)
 画像はリンク切れになるまでは、奈良博HPにて。

  若狭井から汲まれた香水(こうずい)を入れておくのが香水壷(重文 桃山時代 天正6年=1578)。
 画像は、、奈良博だよりにて。また、リンク切れになるまでは、奈良博HPにて。 

 この香水を参詣者に分け与えられる時に用いられるのが香水杓(こうずいしゃく 重文 鎌倉時代 建長5年:1253、建長7年:1255)。
 画像は、特別陳列チラシにて。 

 


【 (5) お松明 】

  松明というのは、練行衆の足元を照らす明かりにすぎないのですから、上堂してしまえば用済みですから消してもいいのですが、それを欄干の所で振っているだけの話です。



【 (6) その他の行法 】

  内陣にはカーテンが下ろされていたんですが、特別な行事のみ正面の帳
(とばり)が巻き上げられます。達陀(だったん)というのは室内で松明を振り回すので、あれでカーテンが下りていたら即、炎上です。
(※ 石野注)
「『達陀』は3月12・13・14日の後夜におこなわれる。堂司と7人の平衆が八天(火天・水天・芥子・楊枝・大刀・鈴・錫杖・法螺)となり、交互に礼堂に向かって正面に走り出る。このうち火天になった堂司は、長さ3mもある達陀松明を内陣で引き回し最後に礼堂の床に投げ倒す」(「図録」)

 


【 (7) 下堂 】


【 7.さいごに 】


 講話、見学、お粥賞味と続いて、後は二月堂見学だったのだが、折り悪く強い雨が降り出した。
 二月堂見学といっても、別に特別公開で奥まで拝観できる、というわけではなく、ただ現地まで案内するだけで、そこで解散ですとのことだった。
 ということで、ややコストパフォーマンスに不満を感じつつ、二月堂に足を伸ばすことはやめ、ついでなので平常展を観て帰ることにした。



 今回の平常展の目玉は、何と言っても法隆寺金堂の天蓋であろう。現地では薄暗いし近づけないから詳細はわからないが、今回は細かい装飾までよくわかる。画像は、奈良博だよりにて。

 しかし、私は一番感動したのは、法隆寺の多聞天立像(国宝)である。後で思い起こせば、先日法隆寺に行った時、「多聞天は奈良博で展示されてるそうで欠席」と書いた(鑑賞記63)が、その時はそんなこと忘れていたので「え?なぜ君がここに?!」って感じだった。

 天蓋と同じだが、実際現地で観る方が雰囲気というか趣きはあるのだが、ここまで克明に鑑賞はできない。
 四天王の研究(上半身編)、同(下半身編)でも法隆寺金堂の四天王はよく引用させてもらった。飛鳥時代の仏像の特徴として、衣文なども左右対称で、正直言って鎌倉期慶派の写実的、躍動的な四天王に比べると非常に単調な、類型的な描写のように思っていた。

 しかし、間近でしげしげ観ていると、胸の前で結ばれている紐の結び目や、中央部で垂れ下がっている衣の先とか、絶妙なバランスで左右非対称になっていることに気付いた。
 衣の裾のひだの折り返しも、実にシャープな感じで折り畳まれている。
 四天王って・・・・・・・・・・・・これでいいじゃん。そう感じた。

 光背が円形なのは知っていたのだが、横から観たことはもちろんない。円盤自体がやや前に傾いているし、支えの棒が後ろに付いているので、ちょうど衛星放送のパラボラアンテナを見ているような感じがしたのも新鮮だった。

 あと、興福寺の広目天立像(重文)も印象的だった。
 胸のところに菊華のような飾りがついていたのだが、左胸(・・・・だったと思う)の飾りは取れてしまっていた。すると、その下に、花を描いた絵が非常に色鮮やかに残っていたのだ。
 飾りの下に隠れていて表面にさらされる時間が短かった分、彩色が鮮やかに残っていること自体は常識的に考えれば理解できるが、隠れるところでも丁寧に描かれていたのだなあと感心した。(いや、むしろ、全体を同じように彩色して、上から適当に飾りを打ちつけたのか)

 


 


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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