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2008年8月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 8月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。

※ 今回の書評は掲示板に掲載したものとは相当違います。



(632) 『広田弘毅』(著:服部龍二。中公新書)

 先月読んだ『落日燃ゆ』(著:城山三郎。新潮文庫)と隔たりがありすぎるので、比較表形式で対照してみる。 
  『落日燃ゆ』 『広田弘毅』
子供の頃書いた字 P11
 「無名の一小学生」だった広田が水鏡天満宮の額の字を書いた。
P13
広田が書いたのは「天満宮」という掲額ではなく「水鏡神社」という石碑の文であり、しかも17歳、中学時代
★ 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』に依拠しているため ★ 新資料(広田の長男に確認)
玄洋社との関係 P15
 玄洋社の正式な社員ではなく、生涯、そのメンバーにならなかった。
P5
広田は、玄洋社の一員だった。
P229
(東京裁判時に)「玄洋社の一員となったのはまだ青年だったころで、外交官になってから説得されて再び加わった〜」と述べた。
★ 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』に依拠しているため ★ 新資料(東京裁判)
縁談 P27
 資産家や名門の娘を世話しようという話がいくつも持ち込まれたが、広田は相手にせず、静子と結婚した。
P22
「駐英公使や外相を歴任し、のちに首相となる」「三菱財閥の創立者、岩崎弥太郎の長女と結婚し」「岩崎の四女と結ばれたエリート外交官の幣原喜重郎と義兄弟になって」いた加藤高明から「三菱財閥の令嬢との良縁」が申し入れられていた。
 「しかし広田は、加藤からの縁談をあっさりと断って」「玄洋社の領袖月成功太郎の次女」でいわば幼馴染の静子と結婚した。
天羽声明 P143
 天羽とは、広田のソ連大使時代、参事官だったが満州事変で狼狽し、冷静な広田と対照的だった人物。
 定例記者会見時に「日中間に紛争をひき起こす原因となるような外国の介入は排撃する」という趣旨の話をしたが、これを、神経質な記者が、日本のモンロー主義宣言、中国からの英米駆逐論ととり、アメリカなどから非難めいた質疑がくる騒ぎとなった。
 これは、広田の真意にないことで、広田は改めて自ら記者会見を行い、この騒ぎを収拾した。
P76
 外務省情報部長の天羽が日本が単独で東アジアの秩序維持に当たることを宣言し、これが大問題となったが、実はこれは重光葵外務次官が広田の頭越しに亜細亜局第一課長守島に書かせたものだった。
P79
 東郷欧米局長がこの声明を非難すると「ふがいなくも広田は『自分は全く知らざる間に発出したものなるにより欧米諸国の大公使より聞かれた場合には其趣旨を以て弁明してほしい』」と答えた。
★ 大した事件ではなかったと描写 ★ 広田が組織を掌握できておらず、無責任な発言をしたと表現
中国大使館格上げ P151
 昭和10年、在華日本代表を公使から大使に昇格させた。広田は、これをほとんど軍部に連絡せず、閣議にかけた。
 こうした広田の協和外交の努力に対し土肥原や板垣はテロ工作で妨害した。
 広田は関東軍あて厳重戒告などを出してもらったが、現地の勢いは止まらない。

(そして外交の基本路線を確立するため、三原則を定めた)
P92
 「広田外交の絶頂」と表現しているが、同時に「大使昇格の根回しを受けなかった陸軍軍人たちは激怒し、『今後陸軍は広田さんのヤルことを妨害する』(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』)と公言した」とあり、同書で守島は「広田さんに『対支政策即(すなわち)対陸軍政策』ということがよく判って居なかった」と語ったと引用している。
 土肥原奉天特務機関長らが中国に対し圧力を加えたが「陸軍出先と協議するよう中国に求め、外務省としては関与しないとの意向を示し」「親日派とすれば、広田に裏切られた思いだろう」。
★ 中国側の深い謝意、欧米諸国の追随などメリットを強調 ★ デメリットを強調
対華三原則 P155
 中国への一方的な要求ばかりのようだが、すべて「協和」をめざす穏健なものである。広田の狙いは、むしろ、これによって、軍の行動に枠をはめることにあった。
P97
 広田三原則は中国への要求ばかりなのだから、中国が乗ってこないのも当然で」(中国側が提案した)三原則に排日の取り締まりという対日譲歩が含まれていたこととは対照的だった。広田に期待していた汪兆銘〜ら親日派の失望は想像にあまりある。
★ 積極的に評価 ★ 消極的に評価
二・二六事件 (特に詳しい描写なし) P105
 二・二六事件が起こったのは、まさに広田の外交が行き悩んでいたときであった。これによって息を吹き返した広田は、一気に首相へと上りつめることになる。広田にはまだ運が残されていた
★ 東北の農民の荒廃を見かねて蹶起(けっき)した青年将校に「名門」でない「平民」をみている ★ 広田がこの事件を利用して得をしたかのような表現
首相を引き受けた理由 P167
 吉田が、「元老が新首相は軍服でなく背広を着たやつがいいと言っている」と説得したことに共感

P168
 元老西園寺の秘書から、元老が、広田は大命を受けてくれるか心配されているとの電話を受け感激
P112
 一木枢密院議長が対ソ緊張緩和を期待して、広田を推薦した。西園寺も近衛に拒否され人材が払底していた。
 
 広田が受けたのは二・二六事件、ひいては陸軍への怒りからである。
首相に対する評価 P170
 新首相となって帰ってきた広田に、
「おめでとうございます」の声が浴びせられた。
 だが、広田は、ぶすっとした表情で、ただ、「うん」というだけ。
P121
 感きわまる広田は目をうるませた。
〜割れんばかりの拍手と歓声が広田と静子を包み込んだ。生涯忘れえぬ歓喜の夜は、どこまでもふけていった。
「名門をくずすな」という天皇の言葉 P169
 冷水を浴びせかけられた感じ
 陛下は自分が草莽の身だから言われたのか、側近が言わせたのか、いずれにせよ、自分は50年早く生まれ過ぎた
P109
 天皇発言の真意は広田の出自を問題視したというよりも、そのころ議論となっていた貴族院改革や華族制度改革について慎重を期すように告げた可能性が高い」とか、広田は「むしろ天皇を軍記粛正に利用しようとすらし」て勅語の下書きをしたことを強調。
★ 広田は非常にショックを受けたと描写 ★ 天皇発言はそれほど重要なものではないと描写
現役武官制の復活 P183
 軍部の言い分は、<この事件(二・二六)の責任をとって予備役に退いた大将たちが、また大臣として復活してきては〜派閥争いが再燃するし、粛軍を徹底して遂行できなくなる>というもので〜広田としては〜粛軍を目的としている以上、突っぱねるわけに行かない。閣議にかけると、これといった反対論もなく、また西園寺公の意見も「『どうせ陸軍大臣のいうことをきかなければならないのなら、なるべくあっさりきいてしまったほうがいいじゃないか」ということなので、広田は了承した。
 もっとも広田はこのとき〜現役将官の中から総理が自由に選任できるようにさせ、予備役の適任者を現役に復帰せしめる道のあることも認めさせた。〜広田としては、名をすて実をとった取引で、とくに軍部に屈した印象はなかった
P126
 復活に広田が強く抵抗した形跡はない。
 その理由として、粛軍が名目である以上、反対することは大義名分に欠けていた。
 また、「広田自身が、政党政治にそれほど愛着を感じていなかった」。
 最後に交換条件を得たとするが、「結局うやむやになった。詰めの甘さが広田らしい」。
★ 復活を防止することができなかったのもやむを得ず、交換条件を考えれば大した問題ではない ★ 重大な問題にもかかわらず、広田自体、復活を防止することをあまり望んでいなかった。
 本人の主張する交換条件も実効性はない。
近衛の暴走を止められなかった点 P221
 近衛首相は〜官邸に〜各界の有力者を集めて〜政府の決意を発表し、理解と指示を求めた。〜毅然とした対決の姿勢だけが強く打ち出され〜歓呼を浴びた。
〜これまでのように軍部の尻ぬぐいをするのではなく〜先制の一手を打ったという感じであった。
〜それは〜スタンドプレイを好む名門中の名門の人の人柄にもよるものであった。そして、歴史はこの夜つくられた。
 首相官邸で近衛が気炎を上げていたほぼ同じ時刻、現地では停戦交渉が合意に達した。
〜それとは行き違いに、近衛内閣の強硬声明が、また各新聞の強硬論が、世界に向かって流れ出した。
〜とくに「出兵」の文字が、国民政府を刺激し〜国民政府中央軍は、大挙して北上を開始した
P158
 近衛は連日のように新聞記者や財界人らを首相官邸に招き、華北への派兵を声明して協力を要請した。陸軍に対して後手になりがちな近衛が、先手を打って主導権を回復しようとした〜「先手論」といわれるもの〜国民の戦争熱を煽りはじめた近衛は、不拡大方針をみずから転換した
〜広田は、近衛の「火遊び」を戒めることもなく、追随しがちとなっていた
部下との関係 P225
 7月20日、午前の閣議で、杉山陸相が〜出兵の提案をしたのに対し、広田や米内光政海相が反対し、この提案を見送らせた。だが、その日の午後になって、中国軍がまた日本軍を射撃し〜この夜の閣議では、万一の事態に備えての動員準備案が承認された。
〜この閣議決定を不満とし〜石射東亜局長は〜部下の課長と連名の辞表を〜提出した。
〜いつもは温厚な広田が声をはりあげていった。
『黙れ、閣議の事情も知らぬくせに余計なことをいうな!』
〜辞表を出したいのは、むしろ広田の方であった。〜三男正雄が広田の心中を察するようにして、
『いっそ、やめてしまったら』
というと、広田は答えた。
『そういうことをすりゃ、自分はいいだろうけど』
と。
 石射をひきとめたのも、同じ理由からであった
P155
 東亜局長の石射は、広田に冷ややかだった。
「副総理格の入閣だと伝えられたが、私には広田外相に新味も強味も感じられなかった。〜軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった」

P161
 「外務省は広田さんの消極的な態度にはほとんどあきれ返って、下の者がまるでサボタージュというような状態だ」と語るのは、近衛首相にほかならない。

 広田は、これといった議論もないまま派兵に賛成したことを石射に伝えた。
 愛想を尽かした石射と上村は、無気力な広田に辞表を提出した。
 広田は、珍しく感情をあらわにした。それでもあくまで辞表を提出しようとすると、態度を一変させて辞表の撤回を懇願した。
 外務省の部下に見限られたのは否定しがたい。

 

船津工作 P230
 その後も停戦への努力をやめず、船津という人物を特使として派遣しようとした。
 広田は、軍部の反対を押し切り中国側の受諾できる停戦協定案を作成した。
 しかし、川越大使がその任務を強引に代行し、中国側の軍事行動などもあって交渉は不調に終った。
P166
 船津工作に熱心だったのは、広田というより石射だったが、大山事件をきっかけに川越による和平交渉は途絶えた。
 しかし広田が伝えていた和平条件は、軍事力行使を圧力に満州国承認など中国が既に拒否していた懸案も解決しようとするもので大山事件がなくても妥結したとは思われない。
★ 広田は努力したが外部情勢で挫折 ★ 広田は消極的
有田工作 P233
 「信頼する有田元外相を特使として上海に派遣した」が「戦火に妨げられて」停戦交渉は「実現できなかった」。
P164
 みずから訪中することを嫌った広田は、代わりに元外相の有田を中国に差し向けることとしたが、漠然とした計画であり、広田が連絡をしなかったので有田は上海に入ることもできなかった。
★ 広田は努力したが外部情勢で挫折 ★ 広田は消極的
トラウトマン工作 P235
 広田は、なお和平への希望をすてなかった。
 もはや国民政府と直接交渉する道を絶たれた以上、第三国に橋渡しを依頼する他はない。
P239
 日本側の申し出は『広田の提案』としてディルクセン、トラウトマンという二人のドイツ大使の手を経て、南京の蒋介石に伝達された。
〜蒋介石の回答も、12月14日に予定されていたこの会議(注 大本営・政府連絡会議)にかけられることになった〜が、その1日前の13日、首都南京が陥落。またしても、強硬論を鼓舞する結果となった。
P171
 広田は11月2日、ディルクセン大使に和平の7条件を示した。

P173
 幣原は南京攻略前の和解を進言したが、広田は南京攻略まで和平すべきでないという杉山陸相の見解をそのまま幣原に示した。

P178
 高揚する世論とポピュリズム政治に動かされた広田は、蒋介石政権との交渉を見限りはじめるとともに、傀儡政権の樹立という陸軍の構想に取り込まれだした。
★ 広田は努力したが南京事件のため挫折 ★ むしろ広田は、成立に消極的だった
和平条件のつり上げ P244
 「陸軍や一部の閣僚から〜条件が次々に出され、解決案は苛酷なものに変わって行」き、「軍部は高姿勢で〜この条件が容れられなければ、軍事行動を継続するだけだという」。
 広田はディルクセン大使に、この条件の伝達を依頼したが、大使はこの条件は厳しすぎるし、回答期限が短すぎるという。
 「広田にも、それがわかっていたが、陸軍の態度が強硬である以上、とにかく、これによって瀬踏みする他はない。いまの広田にできることは、回答期限を(注 当初案の”年内”から)正月の5、6日ごろまで延ばすことだけであった」。
P175
 広田は、日本陸軍が快進撃した現在となっては、以前に示した条件では交渉しがたいとディレクセンに語った。
 陸軍にも率先して広田は、和平条件をつり上げようとした。
P180
 12月22日、広田は新しい和平の4条件を大使に伝えた。ディレクセンが「中国政府が受け入れるとはとても思えない」と難色を示すと、広田は「軍事情勢の変化と世論の圧力があるので、これ以外にありえない」と反論した。

P194
 昭和天皇も、広田に失望していた。〜猪木正道〜は、広田を容赦なく批判した。
「駐日ドイツ大使に〜和平のあっせんを頼みながら、南京攻略後の閣議では、真っ先に条件のつり上げを主張するなど、あきれるほど無定見、無責任である〜」
〜天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と〜中曽根康弘に伝えている。

★ 新しい条件を追加できるというのは、軍部を説得するため広田が予め申し送りしていたが、厳しくしたのは軍部 ★ つり上げたのは、むしろ広田
トラウトマン工作の打ち切り P249
 軍部からだけでなく、政党からも、交渉打ち切り説が強くなったが、広田は閣議にはかって、15日まで待つことにした。

 しかし、14日にディレクセンから伝えられた回答は「条件を詳しく説明を」というもので、「文書でこそ示さなかったが、すでに口頭で詳しく伝達ずみで〜今さら何を、という感じ」で、ディレクセンも「国民政府はこれ以上、調停を望まず、戦争継続に進む肚(はら)のようだ」という観測を示し、閣議では「誠意がない。遷延策と判断する他ない」という結論となった。
P183
 広田は蒋介石の病気で回答が遅れていると知りながら、回答の遅れを誠意なき遷延策とみなすようになった。
P187
 14日段階で中国から具体回答がなかったことを広田は誠意なき遷延策と閣議で報告し、あらためて翌15日を回答期限とすることの同意を取りつけた。事実上、トラウトマン工作を打ち切ろうというものだった。

 1938年1月15日になると大本営政府連絡会議で工作打ち切りが論議された。
 参謀次長の多田駿は慎重論を唱えたが、広田は「永き外交官生活の経験に照らし、支那側の応酬振りは和平解決の誠意なきこと明瞭なり。参謀次長は外務大臣を信用せざるか」と言い、蒋介石政権との交渉を最終的に見限った。
★ 遅れていたが、広田が15日まで延長した。しかし、14日に不十分な回答が来たため、閣議として遷延策との判断になった。 ★ 広田は、蒋介石の病気で回答が遅れていることを知りながら、回答期限の遅れを認めなかった。
 14日の回答後に「15日を最終期限」としたのは広田であり、翌日に再回答できる筈もないので実質上打ち切りを進めたのは広田。
 15日の会議でも、参謀本部の慎重論に反対。
「相手にせず」声明 P250
 16日には「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」という政府声明が発表された。
「外務省においては、『否認』とか『国交断絶』」でなく「当座は無視するという意味で『相手にせず』という言葉を選んだのだが、時の勢いの中で、近衛はこれを『否認より強い断固たる決意を示す』という説明をした。
 また、『この声明の後で、もし蒋介石が和平を申し出てきたら、相手にするのか』との質問が出たとき、近衛は、広田〜より先に答えた。『絶対に相手に致しません』と。
 和平交渉の望みは消えた」。
P188
 1月16日に広田は、ディレクセン大使に中国との交渉を打ち切ると伝えた。その日のうちに近衛内閣は「爾後国民政府を対手とせず」と声明した。
 近衛声明と呼ばれるものだが、立案したのは外務省である。
南京事件 P246
 報せをきいた広田は激怒し、杉山陸相に会って抗議し、早急に軍紀の粛正をはかるよう要求した。
 南京の日高参事官は現地軍の首脳を訪ねて注意を促し、朝香宮にも軍紀の自粛を申し入れた。
 現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、陸軍省軍務局に強い抗議をくり返し、即時善処を求めた。

P324
 広田はもちろん〜「殺害」にも、「殺害の共同謀議」にも関係はなかった。「防止の怠慢の罪」を問われるわけだが、しかし統帥権独立の仕組の下で、一文官官僚として何ができたというのであろう。

P348
 カーの訊問は、「広田は閣議に持ち出したか」など、当時の外務大臣には実行できないことを次々に質問しかける形であり、これに対して石射は「聞いていない」など、ごく簡単な否定の返事をくり返すことが多かった。このため、法廷には、広田が虐殺事件を知っていながら格別の努力をしなかったような印象を与えた。
 石射は広田のライバルの佐分利に可愛がられ、東亜局長当時広田と衝突したこともある。
 このことはかなり深刻な結果をもたらすことになった。
 佐藤賢了は、閣議は行政事項に限定され、南京事件のように作戦・統帥に関することは扱えないということは外国の判検事には理解できないので、自ら証言台に立ち、外相としては陸相に警告し、陸相を通じて禁圧する以外の方法がないことを説明すべきだと説得したが、広田は発言しなかった。

P184
 南京事件を知った「広田は、石射を介して陸軍省軍務局に厳重注意を申し入れ〜さらに〜杉山陸相に軍紀粛正を要望したものの、閣議には南京事件を提起しなかった」。

P251
 石射によると、広田は南京事件について報告を受けていながら、その情報を閣僚に示さなかったことになる。

P252
 石射によると、広田は南京事件を閣議に持ち出さず、南京事件が続くなかで陸相に一、二回ほど提起しただけで、陸相以外にはまったく注意を喚起しなかったというのである。
 結果的に石射は、広田が南京事件を熟知しながらもほとんど措置をとらなかったと証言したに等しい。検察側の証人であるかのような石射の発言は、広田の不作為を犯罪的なものとして法廷に強く印象づけた。
東京裁判で広田が証言しなかった理由 P292
 人間しゃべれば必ず自己弁護が入る。結果として、他のだれかの非をあげることになる。検察側がそれを待ち受けている以上、広田は自分は一切しゃべるまいと思った。
P349
 有田は和平交渉に赴く途中で板垣関東軍参謀に圧力をかけられたことを口述していたが、板垣は不利になるので語気強く撤回を迫った。
 他人を傷つける形の証言は広田の本意ではないので撤回に応じたが、これを不満として弁護人の守島は辞任した。
P245
 広田は自分に責任があると自覚していたし、軍人の圧力にも閉口していたからである。
P249
 その資料は広田に有利な半面で、板垣には打撃になるため「板垣がえらい勢いで広田に食ってかかった」。
 有田から広田に提供された資料がどのようなものかは不詳である。
★ 他人を傷つけたくないゆえに自己弁護しない ★ 責任を自覚していたこと及び軍人の脅迫が怖くて証言しなかった
開戦回避への吉田の貢献 P199
 広田内閣時代「外務省は〜イギリスとの友好関係を確保する何らかの協定を結ぼうとし、吉田大使に訓令を出したのだが、吉田はイギリス側に声ひとつかけなかった。
〜イギリスとの友好保持に賭けた広田の期待は、旧友を起用しておいたことがかえって仇となって〜消失〜防共協定は〜日独伊三国だけの軍事同盟に向かって傾斜して行く」。

P251
 広田の望まぬ方向へ、事態はまっしぐらに動き出していた。もっとも広田は、和平への希望を完全にすてたのではなく〜イギリス駐在の吉田茂大使に訓令を出し、イギリス政府に何らかの働きかけをするよう指示した。
 だが、吉田は一向に返事をよこさなかった。
P209
 辞職を考えた東郷外相に広田は「辞職すれば開戦派が後任となるから、辞職せずに日米交渉をまとめるように求めた」。

 吉田は辞職で東条内閣に打撃を与え、対米開戦を阻止するよう直言した。
 のちに東郷は、広田の助言にしたがい辞意をひるがえしたことに思い悩む。
 
★ 吉田に対しては一貫して否定的
 広田に予定されていた外務次官の田中首相に直談判し横取りする。
 独善的な態度に終始し、広田の和平努力に協力しない。
 東京裁判については沈黙を守り、広田の助命についても国民や外務省で動きが出て初めて腰を上げたが、総司令部で少将に一喝されるやマッカサーにも会わずに退散した。 
★ 肯定的
対米開戦に対する態度 P264
 11月29日、宮中で政府・重臣との御前会議があった。
 広田は「直ちに開戦すべきではない。また万万一開戦するととしても〜できる限り早く平和交渉の機会をとらえるべきだと申し上げた」。
P212
 重臣の三分の二が現状維持論で、東条と同様に対米開戦もやむなしという重臣は陸軍出身の阿部と林、そして広田である。
 広田について昭和天皇は、「全く〜思いもかけぬ意見を述べた」とのちに冷評している。
静子夫人の自殺 P312
 「静子ははっきり『わたしは先に死ぬわ』といった。〜夫の生への未練を少しでも軽くしておくためにも、静子は先に行って待っているべきだと思った。
〜静子の自殺は、米軍将校から簡単に広田に伝えられた。
 広田は最初は暗然としたが、やがて思い直した。
 夫婦の別れはすでに覚悟していたし、静子の死をまるで予感しないわけでもなかった」
P238
 「静子夫人が1946年5月18日に〜自害したのである。愕然とした広田は〜葬儀に出席することを求めたが、裁判所に却下された」。
重光への態度 P359
 判決文朗読も大詰めに迫った十一日の昼休み〜広田に会った三男正雄が、重光が頭を抱えこんでいる様子を見て、傍聴席で心配する声がきかれるといい、広田に
「重光さんに元気をつけて上げたら」
といった。
〜正雄の言葉は広田の頭に残って、翌十二日、それは判決申し渡しの日であったが、法廷の控室で、広田は重光の横にきて腰を下ろし、自分からあれこれ話しかけた。いつもにないことなので、<さすがの広田も心細くなったのか>と、重光はとりちがえた」
P258
 法廷の舞台裏で、広田は部下だった重光被告にあれこれと相談し、心細い胸の内を吐露していた
★ 広田は重光を心配して声をかけたが、重光は広田が不安になったと誤解した ★ 広田は重光に不安な心境を相談した
有罪判決の見込み P300
 広田は面会に来た家族に「この裁判で文官のだれかが殺されねばならぬとしたら、ぼくがその役をになわねばなるまいね」といった。
P244
「裁判では超然としていたとされがちな広田であるが、実のところ広田は迷い〜内心では、できることなら罪を軽減したいと願っていた〜少なくとも〜極刑を予期していたとは考えがたい」

P258
「相談された重光が『〜まさか〜極刑には処することはないと思う』と勇気づけると、広田は、『自分も其の通りに考える』と〜答えた」

P262
「最悪の幕切れにもかかわらず、広田は表情ひとつ変えなかった。
〜退廷後に広田は、『この判決はカミナリに当たったようだ』〜と〜もらしている。おそらく広田は、極刑までは予期していなかったであろう」
家族との面会 P362
 判決前日、娘がバスに向かってハンケチを振っていると重光から教えられた広田は「立ち上がり、窓の隙間に向って、はげしく帽子を振った。それまでにないことであった」。


P368
 死刑判決後、最後の面会で「格別の話題を持ち出すわけでなく、いつも通りの話しぶりで〜家の居間でたのしく雑談しているような面会になった。
〜遺言めいたことは一言も口にしなかった」。
P259
「目かくしされた窓のすき間から三人のわが子を見つけた広田は、席から跳び上がると、気も狂わんばかりに帽子を振り回した。〜ふだんは感情を表さない広田の豹変に、同乗していた被告たちは息をのみ込んだ」

P267
「広田が終始笑顔で遺言めいたことを口にしないため、子どもたち五人は温めていた別れのことばを胸間にしまい込んだ。〜またたくまに面会は、終わりのときを迎えた。
 するとたまらず広田は、『みんな一人ずつよく顔をお見せ』と金網に顔をこすりつけ、『これから寒くなるから身体に気をつけてくれ』と心底から声を絞った。〜広田だけは、泣くのをしのいでわが子たちの後ろ姿を見送った」
マンザイ P376
 「広田は花山にいった。
『今、マンザイをやってたんでしょう』
〜広田は首を横に振り、板垣に
『あなた、おやりなさい』
 板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。
 広田は、意識して『マンザイ』といった」
P269
「水盃を終えた広田が板垣に音頭をうながすと、一同は『天皇陛下万歳』と大きく三唱した」
★ 「マンザイ」は、広田の最後の痛烈な冗談。万歳と叫びながら日の丸を押し立てて行った果てを知りながら、まだ万歳三唱すること、また、広田の協和外交を突き崩した軍人とともに殺されることの悲喜劇性の象徴 ★ 一切、「マンザイ」の表現無し。むしろ、広田自ら積極的に万歳三唱したような描写


 これほど違ってて、ええんやろか?と思うくらい違う。要は『落日燃ゆ』は美化する方向で、『広田弘毅』は貶める方向で。おそらく新資料に基づく歴史書である『広田弘毅』の方が事実には近いのだろうが・・・・。

 歴史の真実ってやつは、どこにあるんだろうか。

★★★☆



 今月も、まだまだ書評が大量に積み残し。



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