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2008年7月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 7月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(No628は5月分)


(628) 『水滸伝』第19巻(著:北方謙三。集英社文庫)

 童貫と梁山泊の熾烈な戦いは続く。
「『ところで、楊令はあれでいいのか、呼延灼?』
 しばらくして呉用が言ったのは、それだけだった。
『あれで、とは?』
『ずいぶんと、無茶な動きをしたと聞いた』
『誰に聞いたのかは知らんが、楊令の動きが無茶ということはなかった。童貫の首を奪りに行き、奪れぬとわかると、すぐに次の行動に移った。』
〜軍監のようなものを、密かに置いているのかもしれない、と呼延灼は思った。宋の役人のようなやり方である」


 童貫は宋江を奇襲した。
「『おい、楊令』
 呼延灼が、怒気を含んだ声で言った。
『おまえはなぜ、奇襲の一万を蹴散らしてしまわなかった?』
〜『軍令だ、呼延灼。私が軍令として、宋江殿を守ることを命じた。〜』
『どういうことだ、呉用殿?』
『私は、その一万を殲滅させるより、宋江殿の安全を優先した』
〜『なんという、愚かなことを』」

 これらは、引き続く呉用批判。

「自分が生きているより、晁蓋が生き残った方が、梁山泊にとってよかったのは、間違いのないことだ。
 戦の指揮もできず、呉用ほどの能力もなく、盧俊義ほどの大きな役割も果たしてこなかった」

 これは、宋江の慙愧。

「『宣賛も、いまひとつじゃのう』
 杜興が言う。
『気持が割れる。だから、作戦も割れる。割れるのはよいが、軍師はその段階で口にしてはならんのじゃ。ひとりで苦しむのが、軍師というものだ〜』」

 杜興は、呉用を批判する呼延灼に、兵糧や兵器の調達で呉用に手抜かりがあったことがあるかとかばった。

 流花寨を趙安が破った。部下に退避を命じたが、花栄は趙安に一矢を報いようと考えた。
「遮ってきた男を剣ごと斬り飛ばし、花栄は趙安を正面から斬った。しかし、手応えはない。剣は根もとのところから、折れていた。
〜趙安が、剣を突き出してくる。それが、腹に入った。しかし、趙安の首に、手が届いた。締めあげる。
〜さらに、背中になにか入ってきた。〜趙安の眼が、一度ぐるりと反転し、白くなった。手ごと、趙安から斬り離された。
〜青州の、山が見えた。
〜抱き起こされたようだ。
『なにか、言いたいことがあるのだろう。趙安将軍が、聞いてやれと言われている』
〜『済まんな』
〜『なにがだ、花栄?』
『きれいに殺して、やれなかった』
 自分の口もとが、微笑むのがわかった」


 梁山泊軍はいよいよ追い詰められた。
「つまり自分は三千しか出さず、童貫は騎馬隊の大部分を出した、ということだ。
 郭盛の負けではなく、自分の負けだった。〜
〜夜を耐え抜けなかった。
 呼延灼は、そう思った。中途半端に、三千程度の軍を出してくるところまで、童貫に読みきられていた」

 ついに梁山泊軍は撤退し、梁山湖の島にたて籠もることになった。
 李逵の乗った船に巨大な敵船が激突した。
「次の瞬間、衝撃があり、李逵は宙に放り出されていた。
〜板斧を構えたまま、李逵は相手を捜した。なにか、おかしい。すべてがぼやけて見える。
〜あっ、大兄貴。李逵はすぐそばに、魯達の姿を見て、そう言った」


 最後の最後は、童貫の首を奪るか、宋江の首を奪るか、だ。
 馬麟はいま一歩のところまで童貫の首に迫った。また、その後、宋江の首に迫った童貫の前に身体を投げ出し、馬麟は自らの脚を引き換えに宋江の首を守った。
 楊令も、童貫に肉迫した。
「童貫は、自分を待っていた。楊令は、そう確信した。
〜まさか、と童貫は思った。
〜倍する兵力の、逆落としを、まともに受ける気なのか。
〜すぐ前に、楊令が迫っていた。〜小癪なという思いと、斬られるかもしれないという恐怖感が、一緒になった。
〜馳せ違う。〜兜が飛び、頬から耳にかけて、熱い感じが走った。

〜夕刻、宋江の部屋に呼ばれた。
〜兜だった。横のところが、割れている。いや、斬られている。そうだというぐらいは、呉用にもわかった。
〜『呼延灼が、なぜこれを送ってきたのか、私には読めぬ。童貫の首を奪るのは難しくない、と言っているようでもあるし、梁山泊の運はここまでだった、と伝えているようでもある』」



「史進の隊が、そばに来た。扈三娘が、馬から降りて、ひとりの男を抱え起こしていた。
 王英だった。
 楊令も、そばに行った。まだ生きている。王英は、扈三娘だけを見ていた。
『つまらねえ男だ、俺は。それが、おまえを女房にできた』
 王英が、笑ったように見えた。
『言うことはねえな、なにも』
 それで、王英は死んだ」



「『宋江様がいない』
 駆け回っていた武松が、そばに来て言った。張青が、困ったような顔をしていた。
『沖の李俊の船だ』
 公孫勝が言うと、武松がそちらへ眼をむけた。
『私と燕青が、なぜ遅れたと思う。沖の李俊の船に、宋江殿がいることを、確かめていたからだ。〜』
〜『私は、武松とは別の船に乗るぞ。そして消える』
 公孫勝が、そばで囁くように言った。
『ほんとうのことを知ったら、武松は私を殺すだろうからな』」

 公孫勝が武松を騙し、燕青、張青らとともに脱出する船に乗り込ませた。


「聚義庁が、火に包まれていた。
 それでも、宋江に会える、と楊令は疑っていなかった。
〜『弱いな、私は』
 宋江が、微笑んだ。
『自分が逃げ出すかもしれない、と思った。それがこわくて、自分で両脚の踵の腱を切った。腹も刺した。そうすれば、ここを動けないからな』
〜『〜私は、これを渡すために、おまえを待っていたのだ。襤褸のようになった、古い旗だ。『替天行道』と、私が書いた』
〜『死ねぬぞ、その旗を持つかぎり。あらゆる人の世の苦しみも、背負うことになる。しかし、心に光を当ててくれる』
〜『ひとつだけ、頼みたいことがある』
『なんですか』
『私に、止めを刺せるか?』
〜吹毛剣は、ほとんど手ごたえがないほど軽く、宋江の躰に入っていった。宋江は、瞬きもせず楊令を見つめている。
 かすかに、宋江が笑ったような気がした。
〜吹毛剣の血を、楊令は丁寧に旗で拭った。
〜俺は生きてやる。生ききって、この世に光があるのかどうか、この眼でしっかり見届けてやる。
 生きる、生きる。走った。
 突き出した岩から、跳躍した。
 水の拡がりだけが、楊令の視界にあった。
 生きる。宙を飛びながら、楊令は肚の底から叫び声をあげた」
 

★★★☆


(629) 『フィッシュ・オン』(著:開高健。写真:秋元啓一。新潮文庫)

  一言で言えば開高がアラスカでキング・サーモンを釣るなど、世界を股にかけての釣り歩きエッセイ。スウェーデンの山荘(釣具メーカーのアブ社所有)でVIP生活したり、ドイツではパンティー大王(日本で有名なトリンプという会社の副社長)と知り合い、タイのバンコクでは王族に招かれ厚遇を受ける。
 楽しい日々に決まってるのだが、読んでいて、どこか、何か哀しいのだ。なぜなんだろう。

 最後の方で、船の上であぐらをかき、ダルマ(サントリーオールドのボトル)を手にして痛飲している開高の写真がある。ボトルのキャップは開いている。飲み干した後なのか、開高は瞑目している。ページ下にキャプションがこうある。
「このかなしみは、何ならむ」
 そう、読んでいてずっと、このような言葉が頭を去らなかったのである。

★★★

 


(630) 『人は見た目が9割』(著:竹内一郎。新潮選書)

 評判にもなったし、かなり売れた本だと思う。タイトルが良かったんだろうな。全体的に内容は薄いと思う。漫画における表現力の出し方(アングルによる表現力の違いなど)という部分が多い。劇作家でもあり、漫画原作者をやっているからなのだろう。
 ただ、「縄張りの中にずっと居たがる人物は自信がない。〜実際、有能な経営者は、社長室に籠もってばかりはいない。〜人やトラブルに遭うことを恐れない。〜仕事に自信を持っているリーダーは、スッと部下の席まで行く」というのは言えてるなあと思った。

★★☆

 


(631) 『落日燃ゆ』(著:城山三郎。新潮文庫)

 裏表紙の梗概に「東京裁判で絞首刑を宣告された七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅」とある。
 広田は福岡の石屋の倅であった。東京でも中学に進むのはクラスで四、五人という時代。当然小学校を出たら家業を継がせるつもりの父徳平を、広田の才能を惜しむ知人が懇々と説得したという。やはり、人が世に出るにはいくつかの巡り合わせが必要なのだろう。もちろん、広田ならそのまま石屋を継いでもひとかどの人物になったろうし、どこで道が転じたかはわからないけれど。

 外相時代の広田のことは省略する。印象的なのは二二六事件の後の後継首班に指名され参内して天皇から言葉をうけたときのこと。通例の三か条の注意のほか「名門をくずすことのないように」という言葉が与えられたというのだ。

「新しい大きな役割に生きようと、はずんでいた気持に、ふいに冷水を浴びせかけられた感じであった。愕然とし、また索漠とした思いで、広田は礼服の肩を落として宮中を出た。
 広田は、西園寺、牧野、木戸、近衛など『名門』の顔を思い浮かべてみた。
〜あるいは、多くの首相を出した陸海軍の大将たち。彼等もまた、軍部という新興特権階級の中から出てきた新しい『名門』といえた。
 見廻してみると、そうした中に、広田ひとりが素裸になって立たされている感じであった」


 広田の妻との関係も読んで好ましい印象を受けた。妻静子は派手なことを好まなかった。それは外交官夫人としては決して望ましいことではなかったが、広田も社交的な活動を強制することはなかったようだ。

「広田はよく娘たちを連れ、あるいは静子といっしょに海岸まで散歩に出た。
『ママ、散歩に行くか』
『はい、あんさま』
 静子は広田を、福岡弁で『あんさま』(あなたさま)と呼んでいた。
 まだ娘たちが幼かったころ、
『ママたち、レンアイ?』
と訊かれ、照れくさそうに、それでもにっこりうなずいた二人。そのままずっと互いに歳を重ねて、いま広田五十九歳、静子五十二歳。仲のよい平凡な初老の夫婦の散歩姿であった。

〜遠い目で水平線を見ている広田に気づき、静子は何とはなしに不安になる。このまま鵠沼(くげぬま)に居て、もう二度と永田町の官邸へは戻りたくない衝動を感ずる。
 だが、もちろん静子はそれを口に出せない。
 初老の夫婦は寄り添うようにして、砂をまく風の中で黙って佇んでいた」


 静子の不安は現実のものとなった。時代は、そして広田の責任感は、彼を安全な引退者の立場に安住させてはくれなかった。首相の座は軍部の内閣解散要求で追われたものの再度外相に請われた。賽の河原の石積みではないが、彼の戦争回避の外交的努力は、少し積み上がるたびに軍部によって突き崩された。

 そして東京裁判。検事団次長のネイサンはFBIのベテランだった。彼はキーナン首席検事に、日本の国際的政治ギャングたちは二人の例外を除いてアメリカのギャングに劣ると報告した。その手ごわい例外は誰かと問われ、ネイサンはこう答えたそうだ。
「東条と広田です。二人とも、日記をつけていません。〜死を覚悟した者は、日記をつけないものです。そして、二人とも、質問をしない限り決して答えません。これは、こちらが、彼らがかくしたい事実を知っていなければ、絶対にひきだせないことを意味します」

 広田が日記をつけないのは、若い頃に尊敬していた山座公使の「小村さんは決して日記をつけなかった。自分もそうだ。外交官は自分の行ったことで後の人に判断してもらう。それについて弁解めいたことはしないものだ」という教えを守ったのであろう。山座とは、一高時代に玄洋社頭山満に紹介してもらった、当時外務省政務局長で、小村寿太郎外相の腹心といわれた実力者、山座円次郎のことである。
 また、広田は「人間しゃべれば必ず自己弁護が入る。結果として、他のだれかの非をあげることになる。検察側がそれを待ち受けている以上、広田は自分は一切しゃべるまいと思った」とある。

「『これだけの大戦争を、ただ軍だけでやったと思うのか』
と、謎をかける質問も、再三浴びせかけられた。
検事団が文官からの犠牲者を求めていること、その白羽の矢が、元総理であり三度も外相をつとめた自分に向けられていることを、広田は感じた」


 しかし、広田は自己弁護をしないまま、判決までの休廷を迎えた。
「静子は十四日の裁判の後、はじめて巣鴨に出かけ、広田との面会をすませてきたばかりであった。
  これで当分面会もなく、また法廷も休みとあれば、練馬の仮寓先に留まっている理由もない。閉じたままの別荘も気がかりだし〜鵠沼での生活が懐かしくなったのであろうと、正雄たちは深くは考えなかった。
〜娘二人と正雄夫婦を相手に、久しぶりに話もはずんだ。
〜このとき静子は〜広田を楽にしてあげる方法がひとつあると、謎めいたこともいった。
〜静子ははっきり、『わたしは先に死ぬわ』といった。そして、翌朝早く、床の中でそのとおりになっている静子が発見された。遺書はなかった。享年六十二歳。
 貧しい玄洋社幹部の娘として育った静子には、死についての覚悟ができていた。また、広田の逮捕に玄洋社のことが暗いかげを落としているという風にも考えていた。
〜ただ、それから後も、広田が、獄中から家族へ送る手紙は、相変わらず、静子宛とした。静子が生きているものとして、語りかけた。
〜その『シヅコドノ』の文字が見られなくなったとき、つまり広田が死ぬとき、はじめて静子も本当に死ぬ。〜幽明境を異にすることを、広田はそうした形で拒んだ」


 広田に死刑判決が下った。死刑判決をうけたあとの六人は土肥原、板垣らいずれも軍人である。
「広田の死刑は、検事団にとってさえ意外であり、キーナン首席検事が『なんというバカげた判決か。〜どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか』と慨嘆する有様であった」そうだ。

 死刑執行の日。東条ら四人は「天皇陛下万歳!」と「大日本帝国万歳!」を三唱して刑場に向かった。広田とともに刑場に入る板垣と木村も万歳三唱したが、広田は意識して「マンザイ」といったそうだ。
「万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。
 万歳!万歳!の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々に突きくずしてやまなかった悪夢の声でもある。〜生涯自分を苦しめてきた軍部そのものである人たちと、心ならずいっしょに殺されて行く。このこともまた、悲しい漫才でしかない・・・・」



 本編で、広田とずっと対照的に描かれていたのが吉田茂である。同期だった。
 吉田は内大臣牧野伸顕(まきののぶあき)の娘を妻に迎えている。
 「自ら計らわぬ」を信条とする広田に対し、吉田は盛んに動く。奉天総領事に任命される際には加藤高明首相のお墨付きをもらって高圧的に暴れまわったあげく、総すかんをくらうや、病気と称して日本へ引き揚げてしまう。続いて駐米次官に広田が推薦されると聞くや田中首相に直談判し、横から奪い取る。
 吉田は終戦間際に終戦工作を行ったことで、憲兵隊に逮捕される。静子が心配し「吉田さんを助け出さなくては」といったが、広田は「吉田はいいお免状をもらったんだよ」といったそうだ。軍部に逮捕されることが、戦犯追求から逃れ新生日本の指導者として認められるために素晴らしい勲章になることを広田は透徹していたのだろう。


 先日の新聞に『広田弘毅』(著:服部龍二。中公新書)の書評があった。「伝記的な歴史研究はなく、もっぱら城山三郎の小説『落日燃ゆ』に描かれた『悲劇の宰相』像が流布していた」。しかし、史実と違うところが少なくないと感じた著書が、これを書いたそうなんで、また、そっちも読んでみたい。

★★★☆



 今月も、まだまだ書評が大量に積み残し。



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