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仏画(9)平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」第3回その3

1 はじめに

 平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」という講座の、備忘録程度の受講録。
 で、第3回ゼミの受講録その3。今回のテーマは「日本の仏画の歴史」のうち、奈良(天平)時代。


2 本日のテーマ

 今日のテーマは「日本の仏画の歴史」。

 下表が先生にいただいたレジュメの続き。

日本の仏画の歴史

 III 奈良(天平)時代の美術の特徴

 710年頃〜790年頃 (※注1)

(1) 様式面:日本美術における古典様式の成立

 理想化された人体表現の完成(写実、均衡、調和)

  710年(平城京遷都)〜794年(平安京遷都)、ほぼ8世紀

    古典(classic) → manioerisme (8世紀後半) → 反古典(baroque 8世紀末)

  自由な動勢、奥行きの表現(絵画では強い暈取り)


(2) 大陸からの影響

 中国盛唐時代(7世紀後半〜8世紀前半)の美術 → 中唐・統一新羅様式

 汎世界的な影響:西域(シルクロード)経由で、中東(ペルシャ)・地中海地域からも(正倉院宝物など。美術の終着駅)


(3) 素材・地域

 絵画遺品は麻布(まふ)、壁画、刺繍、ブロンズ線刻

 地域は白鳳時代と同様、東国から九州(全国規模:全国に国分寺、国分尼寺の建立)



(4) 造仏の組織化 官営工房の成立

 絵画は中務省画工司(なかつかさのしょう えだくみのつかさ)の管轄(※注2)




3 講座内容の概要・補記

3−III 奈良(天平)時代の美術の特徴

※注1 
 「天平時代は奈良時代後期とも称され、和銅3年(710年)平城京遷都から延暦3年(784)長岡京遷都までの期間をさす」(『仏画』P146)



III−(1)
 様式面:日本美術における古典様式の成立

 先生によると、西洋におけるギリシャ・ローマのように、美術で回帰すべき「古典様式」が生まれたのが、日本では天平の時代であるとのことだった。 


III−(2) 大陸からの影響

 特に影響が大だったのが鑑真和上の来日であった。鑑真和上は、仏教教義ももちろんだが、仏教美術についても中唐のものが同時代的に日本に請来されることになった。


III−(3) 素材・地域

III−(4) 造仏の組織化 官営工房の成立

※注2
 「律令制時代の絵画制作は、中務省画工司の画家を中心とする官営の作画機構によって行なわれた。画工司には絵画技術者として、主任的な画師(えし)4人と補助的な画部(えかきべ)60人が配属され、さまざまな絵画活動に従事している」(『日本美術史』P45)

 「天平時代の画工〜は塗白土・木画・彩色・堺・検見に分かれ、分業で文様を描いていた。塗白土は白土を塗って下地を作り、木画は墨線で下書きを作り、彩色は下描きの上に色を塗り、堺は彩色の上から輪郭線を描き起し、検見は仕上げを検分する役目をそれぞれ分担していたものと思われるが、このような区別は職種としてではなく、単なる作業工程の違いを意味するものらしい」(『仏画』P147)


<天平時代(8世紀初め〜8世紀末)の主な作品>

(1) 釈迦説法図繍帳

 「釈迦説法図繍帳は〜法隆寺金堂壁画と比較すると、画面の構成ははるかに複雑となり、また天蓋や獅子座などの意匠も一段と豪華で、諸尊の服飾にも新しい要素が加わっている。そうした進んだ表現は〜8世紀初頭の盛唐絵画様式を受けたもので、制作時期は和銅年間(708〜715)と思われる」(『日本美術史』P46)

 「奈良国立博物館本 刺繍釈迦説法図〜は霊鷲山(りょうじゅせん)における釈迦の説法の場面をあらわし〜雄渾無比な盛唐の絵画の面影を留めている」(『仏画』P148)

 画像は奈良国博HPの釈迦如来説法図で。


(2) 聖徳太子像

 「かつて法隆寺東院に伝来し、現在は御物となっている〜聖徳太子像は、わが国最古の肖像画として特に重視される作例である。〜太子を中央に大きく描き、左右に童子が従う形式は、初唐の帝王画にならう古い伝統を受け継いだもので、袍の上に施された墨隈にも同じく古様が認められ〜面貌描写の特徴や冠の形式は7世紀末の法隆寺金堂の天井板に描かれた人物墨画に近似しているが、彩色の手法では絵因果経など天平前期の作風と共通している。
 〜天平10年(738)頃が制作時期として最も可能性が高い」(『日本美術史』P46)

 画像はHP「法隆寺をたずねて(いかるがの里と聖徳太子)」で。


(3) 絵因果経

 「釈迦の伝記を説いた経典『過去現在因果経』を、経文と経典絵とを対応させて絵入り経形式に仕立てた絵因果経は〜山水樹石や人物描写はいずれも古様であり、630年の初唐の古墳壁画の画風と近い関係にある〜
〜一方経文の書体は開元年間後半(727〜741)の中国盛唐の書風と一致する」(『日本美術史』P47)

 「絵因果経は〜醍醐寺・上品蓮台寺〜等に残っており〜料紙は天平時代によく用いられた黄麻紙(おうまし)を用い、画風に素朴な表現を残す」(『仏画』P150)
 「天平時代の作品は黄麻紙を用い、経文は写経生風の謹厳な楷書で書写され、絵は群青・緑黄・白緑・朱・丹・雌黄(しおう)等の鮮やかな顔料を用い、素朴ながら唐代絵画の特徴を示す人物・山水を描いている」(『仏画』P214)

 画像は奈良国博HPの絵因果経で。


(4) 大仏蓮弁 線彫蓮華蔵世界図

 「奈良国立博物館本刺繍釈迦説法図にあらわれた威風堂々たる盛唐風のますらおぶりは、天平勝宝年間(749〜757)に下絵ができたと伝える大仏蓮弁の線彫蓮華蔵世界図の仏・菩薩像にもあらわれ、あくまでも気宇広大な創立当時の大仏や、諸国国分寺の本尊丈六釈迦像の面影をしのばせる」(『仏画』P148)

 画像は、記念切手図案「東大寺・大仏蓮弁毛彫」や、室賀コレクション展目録「東大寺大仏蓮弁須弥山図拓本」、又は雑誌『國華』1306号表紙など。


(5) 法華堂根本曼荼羅図

 「律令国家仏教の本尊としての際立った特徴は、すでに薬師寺金堂像でみたように右手の第一指と第二指を捻じる印相にあり、絵画的手法で表されたこの印相の作例としては、釈迦説法図繍帳をはじめ、東大寺大仏蓮弁の蓮華蔵世界線刻画や東大寺旧蔵の法華堂根本曼荼羅図などが〜あげられる」(『日本美術史』P46)

 「東大寺別当であった京都観修寺の僧寛信が久安4年(1148)に記した裏書きによると、これは霊鷲山説法図であり、宮廷絵師藤原基光の子〜珍海がこれを修理したという。(※石野注 現在では欠損のため、鷲の頭の形の山があるかどうかは判別できない)
 〜刺繍釈迦如来説法図と比べると、釈迦三尊や仏弟子の姿に親しみやすい穏やかな表現があらわれている」(『仏画』P225)

 画像は、HP「埃まみれの書棚から 10」などで。右手の形については、本作はわかりにくい。なお現在はボストン美術館蔵。


(6) 墨画菩薩像

 「聖武天皇の遺愛品や大仏開眼供養に用いられた諸道具類を収蔵する正倉院には、仏画がわずかしかないが、麻布に墨痕淋漓と無造作に描かれた墨画菩薩像には、刺繍釈迦説法図や大仏蓮弁の諸尊と通じる雄大さがあふれている」(『仏画』P149)

 画像は、飛鳥資料館HPの墨絵菩薩像など。


(7) 鳥毛立女屏風

 「聖武天皇時代の宮廷絵画である正倉院の鳥毛立女屏風は、天平勝宝4年(752)から8年までの間に制作された作品で〜面相には、隈取りを加えた美しい彩色が施され、豊満で生彩のある表現がみられる」(『日本美術史』P47)

 画像は宮内庁HP「鳥毛立女屏風」第51回正倉院展HPなどで。


(8) 綴織当麻曼荼羅

 「天平時代の大寺院は、巨大な繍仏や織成と呼ばれた綴織(つづれおり)などの仏画でおごそかに飾られていた。〜こうした繍や織による天平の巨大仏画のほとんどは現在失われ、天平宝宇7年(763)の綴織当麻曼荼羅のみ現存する。縦横4mに及ぶこの巨大な阿弥陀浄土図は、雄大な構図と複雑な図像表現によって、最も完成した様式を示している」(『日本美術史』P47)

 「当麻寺本 綴織当麻曼荼羅〜は朽損甚だしく、確かな作風をうかがうことはむずかしい」(『仏画』P148)

 画像は当麻寺HPの当麻曼荼羅図で。


(9) 吉祥天画像

 「薬師寺の吉祥天画像は〜極細の描線を何度も描き重ねた精緻な面貌表現、着衣にみられる濃密な色彩感覚などは、唐代絵画の新しい傾向を受けたものである。中国でこうした新様式の仏画を創出したのは、8世紀後半に活躍した周ム(しゅうぼう)で〜薬師寺吉祥天画像の暖かみのある淡紅色の肉身や、衣服の先が風に動く軽快な描写〜特に極彩色の衣裳の上から、うすく白い彩色を刷き重ねて、薄物のヴェールが透けて見えるさまを描いた微妙な表現は、周ム様式の特色ある技法として後代の仏教画にも受け継がれた〜薬師寺画像はそうした中唐様式の新しい仏画表現をわが国で実現した作例として、天平絵画の展開の上でも、最も進んだ様式を示している」(『日本美術史』P48)

 「薬師寺本 吉祥天は〜天平絵画独特の麻布に描かれた作品である。その極彩色の豊麗きわまる女性神の姿は、正倉院の樹下美人を描いた鳥毛立女屏風の婦人像と共通し、蛾眉豊頬(眉が蛾の触角のように太く、頬が豊かなこと)の唐美人を写している」(『仏画』P149)

 画像は薬師寺HPの吉祥天女画像などで。

 


 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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