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仏画(7)平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」第3回その1

1 はじめに

 平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」という講座の、備忘録程度の受講録。
  で、第3回ゼミの受講録その1。今回のテーマは「日本の仏画の歴史」のうち、飛鳥時代。


2 本日のテーマ

 今日のテーマは「日本の仏画の歴史」。

 下表が先生にいただいたレジュメ。

日本の仏画の歴史

 I 飛鳥時代の美術の特徴

 仏教伝来から7世紀半ば(※注1、注2)

(1) 彫刻を含む様式面の特徴

 古拙(archaique アルカイック):日本初の本格的な美術(仏教美術)

 厳格さ⇔単純、素朴
 安定した空間・平面構成→強い正面性、左右相称⇔扁平
 抽象化された細部表現(文様)、神秘性

(2) 大陸からの影響

 北魏をはじめとする中国南北朝時代(6世紀)と朝鮮半島三国時代
 北朝→高句麗・新羅経由
 南朝→百済経由

(3) 主たる素材

 絵画の遺品は少なく、漆絵、密陀絵(みつだえ)油彩程度、他に刺繍の下絵(※注3)

(4) 画師の制定

 最初の画家:画部因斯羅我(カキベノインシラガ)
   雄略天皇7年、百済より渡来(※注4)

 「画師(えし)」の制定:推古12年(604) 
   黄書(キブミ、高句麗系)、山背(ヤマシロ、高句麗系)、簀秦(スハタ、新羅系)、河内(百済系)、楢(ナラ) ※注5

 僧曇徴(どんちょう)の来日:推古18年(610)
   紙、墨、絵具の製作技法を伝える




3 講座内容の概要・補記

3−I 飛鳥時代の美術の特徴

※注1 
 「飛鳥時代とは、一般に仏教公伝から大化の改新の始まる大化元年(645)までの期間をいう」(『仏画の鑑賞』P142。著:中野玄三。大阪書籍。以下『仏画』)

※注2
 
『元興寺資材帳』によると、日本に仏教が伝来したのは、宣化天皇3年(538)12月のことと伝え」られたという。(『仏画』P142)
 『日本美術史』(美術出版社)P22では「わが国への公伝は、欽明7年(538)のこと」とある。

 『仏像』(NHKブックス)では望月信成氏は「わが国に仏教が伝来したのは欽明天皇13年(552)であると歴史に見えている」とある。

 要するに『日本書紀』の欽明天皇の巻では、欽明天皇13年に伝来したとあり、欽明元年は庚申(540年)であるから552年ということになる。
 また、『上宮聖徳法王帝説』とか、上記『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』といった仏教界の古伝では「欽明天皇の戊午の年」とあり、そこから538年としているようである。
 私自身は中学時代、「仏教伝来ご参拝」(ご・さん・ぱ=538年)と習った。しかし、I 先生によると、最近朝鮮で発見された史料によれば、どうも538年は誤っているそうである。まあ、6世紀半ば頃といったところだろうか。


I−(1)
 彫刻を含む様式面の特徴

 「この時期を代表するブロンズ像としては、推古31年(623)に鞍首止利(くらつくりのおびととり)により完成された法隆寺金堂釈迦三尊像がある。〜左右相称を基調とした謹直な正面観に対し、奥行きは短縮され〜アルカイックスマイルを浮かべた神秘的な顔つき〜抽象的で鋭い輪郭〜
 こうした作風や形式は、北魏〜に代表される5世紀末から6世紀初めの中国、南北朝時代の仏像に源流がたどれる」(『日本美術史』P26)

※石野注 画像は「法隆寺をたずねて(金堂)」というHPや、HP「日本史の穴」飛鳥・白鳳文化などで。

 「7世紀半ば頃になると、それまでの正面性を強調した抽象的で厳しい表現から、徐々に自然な肉身表現への関心がめばえ、優しさの感じられる作品も生まれた。
 法隆寺金堂四天王像〜の作風は、アルカイックスマイルをうかべた表情や左右相称の衣文などに古様が残るが、丸みと奥行きのある体躯や、側面鑑賞を意識した天衣の表現などに新しい傾向が現われ〜源流は北斉・北周期の作例に求められる」(『日本美術史』P26。画像も上記HPで)



I−(2) 大陸からの影響


I−(3) 主たる素材

※注3

 「法隆寺金堂釈迦三尊の台座絵は〜推古天皇31年(623)当時のものであるが、剥落甚だしく、明確に画風の特色を知ることができない」(『仏画』P143)

 「法隆寺金堂釈迦三尊の須弥座は〜全体に剥落著しく、図様は明らかではないが、魚鰭状に天衣を左右に張り出した四天王像の形や、細い線で鋭く描かれた文様には古様が認められる」(『日本美術史』P34)


 「中宮寺天寿国繍帳は推古30年(622)の聖徳太子没後に后の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が発願〜したもので、東漢末賢(やまとのあやのまけん)・高麗加西溢(こまのかせい)・漢奴加己利(あやのぬかこり)の3人の渡来系の画家により下図が描かれた
 〜数片の残欠が残るのみであるが、雲気文や半パルメット文の長く尾を引く形、月兎や鳳凰の的確で鋭い形などに、高句麗古墳壁画や漢代以来の〜伝統が継承される。
 一方、人物の描写はかなり自由で、その服飾は我国の風俗が反映され〜蓮弁には繧繝(うんげん)による配色もみられる」(『日本美術史』P34)

 「太子が往生された天寿国のさまを刺繍によってあらわしたもので、ニ帳よりなり、一帳の大きさは一丈六尺(約5m)にも及ぶ巨大なもの」(『仏画』P143)

 画像は、ここのHPなど。


 「7世紀中頃の製作とみられる法隆寺玉虫厨子は〜漆絵と密陀絵(一種の油絵)の技法を併用して描かれる。
 〜複雑な彩色技法を駆使しながら、少ない色数と墨線とを巧みに使い分けた明晰な画風
 〜捨身飼虎図は〜クライマックスに当たる3場面を異時同図法によって〜新来の人物のしなやかな表現と、伝統的な崖のC字形の表現とを対比しつつ、縦の場面を強調した緊張感あふれる構図にまとめあげている」(『日本美術史』P34)

 「飛鳥時代の絵画の動向を探るうえでもっとも重要な作品は、法隆寺の玉虫厨子の台座に描かれた二つの本生図(ほんじょうず。釈迦の前世の物語の絵)、舎利供養図、須弥山図(しゅみせんず)、宮殿部の扉に描かれたニ天・四菩薩の図である。

 技法の上では密陀絵(密陀僧を乾燥剤にした一種の油絵)か漆絵か、両説あっていまだに定説をみない。
 〜なかでも「施身聞偈」(せしんもんげ)と「捨身飼虎」(しゃしんしこ)の両本生図は、インド以来の異時同図法を用い〜合理的に整理された構図のもとに、先鋭な天衣や裳(も)を翻す帝釈天や、百済観音をしのばせるほっそりとした清楚な薩埵太子を、竹林や藤の花の垂下する詩情あふれる山水に配置」(『仏画』P143)

 画像については、HP「法隆寺をたずねて(大宝蔵殿)」で。
 漆絵・密陀絵については山科玲児さんのHPの「玉虫厨子は漆絵か油絵か」というエッセイに詳しい。この山科さんという方は、以前オフ会でご一緒したことがあるが、その博識ぶりたるや物凄いです。


I−(4) 画師の制定

※注5
 I先生の解説によると、楢画師はどこの系統か不詳であり、渡来人ではないかもしれないとのことだった。
 


 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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