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仏画(32)平成17年度美術史ゼミナール 番外編「釈迦八相」場面別解説 「八相涅槃」編
〜ちょうど時間になりました〜
1 はじめに 釈迦八相とは前回でも説明したとおり、釈尊の生涯における主要な事蹟を挙げたものであるが、この八場面とする、といった明確な基準が定められているものではない。
ここでは、主な場面について、大まかな特徴をあげていきたい・・・・・の最終回。
2−1 荼毘・分舎利
入涅槃の釈迦を中心に、まわりに涅槃の前後の事蹟 純陀供饌、臨終遺誡、再生説法、金棺不動、金棺拘尸城旋回、迦葉接足、荼毘、分舎利などを描くもの(がある)」
(図録『奈良国立博物館 特別展 ブッダ釈尊』P356)
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<参考画像(32)−1>
釈迦八相図 広島 持光寺本 鎌倉時代(14世紀)
1 涅槃(ねはん)
2 摩耶夫人飛来(まやぶにんひらい)
3 荼毘(だび)
4 分舎利(ぶんしゃり) |
涅槃については前回解説のとおり。
摩耶夫人飛来とは、釈尊の入滅を知って急いで忉利天(とうりてん)から駆けつけようとする仏母摩耶夫人の姿を描く場面である。
荼毘とは、釈尊を火葬にしているところ。高く積み上げた場所の上に置かれた箱から煙が出ている・・・というのが典型的な絵柄か。
『大パリニッバーナ経』によると、尊師の遺体を新しい布で包み、次に打ってほぐした綿布で包むということを繰り返し五百重に包んで、鉄の油槽に入れ、他の一つの鉄槽で覆い、あらゆる香料を含む薪の堆積をつくって、遺体をその上に載せた・・・・・とある。
分舎利は、簡単に言うと釈尊の遺骨分けの場面である。八つの部族が遺骨の分配を受ける権利を主張して争ったが、ドーナ・バラモンという人物が平等にうまく分配した。まずいことに遺骨を分配し終わった後にモーリヤ族という王族がやって来て権利を主張したそうだが、彼らには遺灰を与えて事なきを得た・・・・・とやはり『大パリニッバーナ経』に書かれている。
絵柄としては、遺骨を入れるためのものだろうが、水瓶のようなものが置かれ、煙のようなものが上がっているものが多い。
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<参考画像(32)−2>
八相涅槃図 京都 万寿寺本 鎌倉時代(13世紀)
1 純陀供饌
2 最後説法(臨終遺誡)
3 摩耶夫人飛来
4 金棺出現(再生説法)
5 金棺不動
6 聖棺拘尸城旋回
7 荼毘(迦葉接足)
8 分舎利
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2−2 金棺出現
4の金棺出現について、拡大図で少し解説する。
釈迦金棺出現図 京都国立博物館本については、同館HPのここにて。
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<参考画像(32)−3>
八相涅槃図 京都 万寿寺本 鎌倉時代(13世紀)
金棺出現
京博HPの解説文は各自で読んでいただくとして『仏画の観賞』の解説文にはこうある。
『摩訶摩耶経』によると、釈迦が鳩尸那竭羅(くしながら)城外の跋提河(ばったいが)のほとり沙羅双樹(さらそうじゅ)のもとで涅槃に入ったとき、仏母摩耶夫人は急ぎ忉利天より飛来し棺側に至り、釈迦の衣を顧み、鉢と錫杖とを執って号泣した。
その時釈迦は大神力をもって棺蓋を開き、獅子奮迅の勢いで棺中より合掌して身を起こし、身の無数の毛孔から無数の光明と化仏を放ち、母に向かって「一切の行は無常にして、住もこれ生滅の法なり。生滅既に巳って、寂滅を最も楽しみとなす」と諭し、諭し終わって棺蓋を閉じ、棺内に隠れたと伝える。 |
なお、「金棺」についてだが、当初は上記『大パリニッバーナ経』にあるように「鉄の箱」であったのだが、釈尊の神格化が進むにつれて「金」棺となったようである。
2−3 迦葉接足
続いて、7の迦葉接足について。
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<参考画像(32)−4>
八相涅槃図 京都 万寿寺本 鎌倉時代(13世紀)
迦葉接足
画面が暗くてわかりにくいだろうが、黄色く囲んだところに「足」が見え、さらにその右に、座って手を合わせている僧侶の姿が見える。 |
『仏像がよくわかる本』(著:瓜生中。PHP文庫)では(大迦葉は)「釈迦が亡くなったときに遠方にいたため、臨終に間に合わず、いよいよ荼毘(火葬)にふするときに駆けつけたといい、かれが釈迦の足元で礼拝するのを待って、荼毘の火がつけられたといわれている」とある。
図録の解説などでは、迦葉が駆けつけたところ、(死んでる)釈尊が棺の中から両足を出した・・・なんてちょいオカルトがかった話になっている。
これも例によって『大パリニッバーナ経』の記述をみてみると、棺の下の薪に火をつけようとしたが、火がつかなかった。
アヌルッダ(阿那律)尊者にきくと「神霊たちは、尊者大カッサバ(迦葉)が頭をつけて尊師のみ足を拝まない間は薪は燃えないだろうという意向だ」とのことだった。
やがて到着した迦葉が釈尊のみ足に頭をつけて礼拝すると、薪は自然と燃えだした、とある。
2−4 八相涅槃(その他)
続いて、1の純陀供饌(じゅんだきょうせん)について。
上図でもわかるように台座に乗った釈尊が食物の供養をうけている場面。
またまた『大パリニッバーナ経』の記述から。「尊師はパーヴァーにおいて、鍛冶工の子であるチュンダ(純陀)のマンゴーの林にとどまった。〜チュンダは〜多くのきのこ料理とを用意し」た。そして、それを食べた釈尊は、激しい下痢に襲われた。
経文には血便に苦しむさまも描かれリアルである。
あと、よくわからないものをいくつか。
2の最後説法(臨終遺誡)だが、釈尊が空中に浮かんでいる絵柄が多いようである。
5の金棺不動は、「力士棺を挙げるに動かざる所」などと解説されているから、釈尊の棺を力持ちの力士が多数かかって持ち上げようとしたが、どうしても持ち上がらなかったというところなのだろう。
6の聖棺拘尸城旋回は、その力士が何人かかっても持ち上がらなかった棺が、不思議にもふわり、ふわりと浮き上がり、鳩尸那竭羅城の周りの空中を7回旋回したという場面。
二つセットで不思議さ、神秘性を増していると考えればいいのだろうか。いずれも『大パリニッバーナ経』には記載されていないようである。
こうした観点で、各種仏伝図などをあらためてご覧いただくのも一興だと思うのだが、いかがだろうか。
八相涅槃図 重文 鎌倉(13世紀) 広島 耕三寺本
上左隅は純陀供饌、上部中央は最後説法、上右隅は一僧一女対座、右中ほどやや下が「金棺不 動」、その上が「金棺拘尸城旋回」、左中ほどが荼毘、「迦葉接足」と龍王灌水を併せ図す。その下 が「分舎利」が描かれている。
(図録『奈良国立博物館 特別展 仏教説話の美術』P67)
※ 画像は、広島県HPにて
それでは、皆さんごきげんよう♪
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