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仏画(30)平成17年度美術史ゼミナール  番外編「釈迦八相」場面別解説 「初転法輪」編
                                                    〜舎利弗 vs 外道、釈尊 vs 提婆達多 〜


1 はじめに

 釈迦八相とは前回でも説明したとおり、釈尊の生涯における主要な事蹟を挙げたものであるが、この八場面とする、といった明確な基準が定められているものではない。

  ここでは、主な場面について、大まかな特徴をあげていきたい・・・・・の11回目。


2−1 初転法輪

 初転法輪とは、釈尊が悟りを得た後(成道後)初めて説法をしたことをいう。

 当初、釈尊は自分の悟りは深遠すぎて、他の者に説くのは難しいと考えた。しかし、釈尊がそのように考えていることを知った梵天(バラモン教では世界の創造神。マハーブラフマン)に、いわば「あなたが説いてくれなきゃこの世は闇だ。あなたの教えを理解できる者もきっといるから、そんなこと言わずに説法してよ」と頼まれ(しかも一度ならず三度も。三顧の礼を尽されたようなもの)、ついに自分の教えを広めようと決意した。これを梵天勧請(ぼんてんかんじょう)という。

 まず手はじめに、かつての修行仲間のいるサルナートの鹿野苑という場所に行き、彼ら5人(五比丘)に説いた。これが初転法輪である。(最初は、かつて師事した二仙人を訪ねようとしたが、既に死去していた、という資料もある)
 最初、釈尊を、苦行を途中で放擲した堕落者と考えていた5人であったが、釈尊の話を聞いて弟子となった。
 五人の僧侶が教化されたので、この場面を「五比丘化」とも呼ぶ。
 よって、釈尊が5人の人物に説法している場面があれば初転法輪と考えてまず間違いないだろう。

釈迦八相図(東林寺HP) 初転法輪

釈迦八相図(海圓寺HP) 初転法輪


 どうも、この五比丘化の前に、「うばか」という人物(優波迦外道)にも説法したようである。
 その後釈尊は伝道の旅を続け、信者も増えていく。火を祀る(拝火教?)迦葉(かしょう)三兄弟が門弟1000人を連れ弟子入りし、舎利弗(しゃりほつ)・目腱連(もっけんれん)がやはり250人の門弟を連れ弟子入りし、釈尊の教団も一段と大型化した。

過去現在絵因果経断簡 重文 奈良 MOA美術館本

 本断簡は、第四巻の前半部分の八十四行分に当り、釈迦が大迦葉を説度する過程が述べられている。 (※注 同館HP解説文より)

  ・・・と、上記HP解説文にはあるが「大迦葉」というと一般に火を祀る迦葉三兄弟とは別、とされているので、この炎だらけの絵因果経の解説文として「大迦葉を説度」というのが正しいのかは疑問である。

 


2−2 牢度叉

 
続いて、非常に特殊な場面なのだが、牢度叉(又は労度叉。ろうとしゃ又はろうどしゃ)について、触れたい。

 これは、「仏弟子舎利弗(しゃりほつ)と須達長者の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)建立を妨害した外道牢度叉との闘術の場面」(『仏画』P216)で、この場面が描かれているのは日本の仏伝画でも常楽寺本と持光寺本の二つしかないそうである。

 
祇園精舎というと『平家物語』の冒頭「祇園精舎の鐘〜」で有名だが、昔、コーサラ国に須達多(スダッタ)という長者がいた。またの名を給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)。彼は釈尊のために僧院を寄進しようと考え、コーサラ国首都の舎衛城の街外れに適地を見つけた。そこはプラセーナジット国王(波斯匿王)の王子ジェーダ祇陀)所有の果樹園であった。
 王子は頑として買収に応じず、果樹園いっぱいに金貨を敷きつめることができれば譲ってやってもいいと言った。もちろん、そんな法外な要求に応じるわけはないと考えてのことである。
 ところが、スダッタは、惜しげもなく全財産を売り払って金貨に替え、敷きつめ始めた。その行為にうたれた祇陀王子は、スダッタ(給孤独長者)と協同して精舎(僧院、修行場)を建立した。その精舎の名前を二人の名前をとって「祇樹給孤独園」精舎、略して祇園精舎と呼ぶようになったというものである。

 この話は私も手塚治虫の『ブッダ』で読んで知っていたのだが、どうやら建立の際に邪魔をする「外道」がいたようだ。
 なお、外道(げどう)というと魚釣りの時、狙っている魚以外が釣れた時にそう呼んだりするが、一般には道から外れた奴、人でなしなんてイメージで使われる。
 しかし、もともとは、単に仏教以外の思想とか学派をさす言葉にすぎない。六師外道というと、釈尊と同時期に活躍した6人の指導的立場の思想家をさすが、釈尊とは異なった思想であるがゆえに外道と呼ばれる。
 
後に釈尊の教団の中心人物となった舎利弗(しゃりほつ。サーリプッタ、シャーリープットラ)・目犍連(もっけんれん。略して目連とも。モッガラーナ、マウドガリヤーヤナ)も、もともとは六師外道の一人である懐疑論者サンジャヤの高弟であった。

左下
<参考画像(30)−1>
釈迦八相図
  滋賀 常楽寺本 重美 鎌倉(14世紀)

右下<参考画像(30)−2>
釈迦八相図  広島 持光寺本 鎌倉(14世紀)

釈迦八相図 滋賀 常楽寺本 釈迦八相図  広島 持光寺本

 図録『特別展 ブッダ釈尊』(奈良国立博物館)の解説による試合の実況中継は次のとおり。

第1試合 外道が大樹を出したが、舎利弗は大風を吹かせて樹を吹き飛ばす。上図で「樹」と書いたところには、強風に吹かれて抜けてしまい横になって飛ばされている樹が描かれている。
第2試合 外道は大池を出すが、舎利弗の出した象が水を吸い込んでしまう。
第3試合 外道は大岩、舎利弗は金剛力士。
第4試合 外道は龍、舎利弗は金翅鳥。
第5試合 外道は牛、舎利弗は獅子・・・で舎利弗の全勝らしい。昔、新日本プロレスではよく「新日対UWF 5vs5 イルミネーションマッチ」なんていう対抗戦をやっていたが、そんな感じ。


2−3 頻王帰仏

 頻王帰仏というが、その頻王とは誰なのであろうか。

釈迦八相図 静岡 久遠寺本 <参考画像(30)−3>
釈迦八相図 静岡 久遠寺本 鎌倉時代(13世紀)

1 初転法輪
 たくさん人がいるが両側の人たちは菩薩や天人であろう。
 釈尊の前で座っているのが五比丘と思われる。
 場所は鹿野苑で、四角で囲った右隅に鹿の姿がみえる。

2 祇園布施
 「コーサラ国、祇園精舎の故事で、須達長者が釈尊のため精舎を建立しようと、祇陀太子の園苑を買うため地に黄金を敷くところ」(図録『特別展 仏教説話の美術』)

3 火龍調伏その1
4 火龍調伏その2
 「図中ほど左右に、三迦葉化度のうち悪竜降伏と竜を鉢中に閉じ篭めたところ」(同上)

5 四天王奉鉢
6 二商人供養
 釈尊が成道後通りかかった二人の商人が食べ物を供養し、四天王が鉢を提供した。釈尊は二商人を祝福し、彼らは最初の在家信者となった場面を描く。

釈迦八相図(東林寺HP) 初転法輪  ここで出てくる最初の画像が成道、次が四天王奉鉢、初転法輪(五比丘化度)、そして最後が火龍調伏であろう。

釈迦八相図(海圓寺HP) 初転法輪

 これまで祇園布施(祇園精舎)については説明したが、もう一つ有名な精舎があり、こちらの方が歴史は古い。
 マガダ国王のビンビサーラ頻婆娑羅王)が寄進したのが竹林精舎といわれている。
 この頻婆娑羅王が釈尊の教えに帰依するところを描くのが頻(婆娑羅)王帰仏という場面。
 大国の王様のご一行とあって、釈尊の前で話を聴く人物がやたら多いのが絵柄の特徴である。

 なお、この頻婆娑羅王と后の韋提希夫人(いだいけぶにん)、太子の阿闍世(あじゃせ)が織り成す「王舎城の悲劇」については、この場では省略する。(仏画ゼミ(5)の当麻曼荼羅のところに少し紹介している)

釈迦八相図 静岡 久遠寺本 <参考画像(30)−4>
釈迦八相図 静岡 久遠寺本 鎌倉時代(13世紀)

1 頻婆娑羅王帰仏

2 三道宝階
 既述だが、釈尊は母摩耶夫人がのぼられた天上界まで説法に行かれた。(忉利天説法=とうりてんせっぽう)
 その説法を終え、下界に降りる時に現われたのが、この三道宝階である。
 なお、釈尊が忉利天説法に出かけている間、姿をみられない寂しさを紛らすために優填王(ウダヤナ王)が栴檀の香木で釈尊の似姿をこしらえさせたのが仏像の起源であるという伝説がある。
 
3 提婆投石(だいばとうせき)
 提婆達多(だいばだった)は、釈尊の従兄弟といわれている。
 仏教界のユダみたいな存在で、釈尊の教団で分派活動をしたり、あまつさえこの場面のように大岩を投げ落として釈尊の暗殺を図ったといわれている。

4 獼猴奉蜜(みこうほうみつ)
 これも釈尊の徳のありがたさを象徴的に描くエピソードといってよいのだろう。
 囲みの右側で、中央の釈尊に何かを捧げているような格好をしているのが猿。人間のみならず畜生までもが釈尊に供養をするという場面。

 ところで、「提婆投石」というのは画面の構成、絵柄がよくわからない。

釈迦八相図  滋賀 常楽寺本 <参考画像(30)−5>
釈迦八相図
  滋賀 常楽寺本 重美 鎌倉時代(14世紀)

 上の囲みの中が頻王帰仏。

 右下は馬車があるので、二商人供養のようにも思えるが、象もみえるため酔象調伏なのかもしれない。

 なお、酔象調伏(すいぞうちょうふく)とは、これも釈尊を害そうとする提婆達多(だいばだった)の悪企みの一つである。
 提婆達多が象を酔わせ毒針をうち、凶暴にさせて、釈尊にけしかけた。
 あわや狂象に釈尊が踏み殺されるか・・・と思いきや、釈尊のもとでその暴れ象が借りてきた「猫」のようにおとなしくなってしまったという話である。


 頻王帰仏について、次の例を。 

釈迦八相図 広島 持光寺本 <参考画像(30)−6>
釈迦八相図 広島 持光寺本 鎌倉時代(14世紀)

 上の囲みの中が頻王帰仏。

 下の囲みの中は、上掲常楽寺本のように馬車がみえる。二商人供養だろうか。

 左では象がおり、ぺたっと座り込んでいる象もみえる。
 これこそ酔象調伏であろうか。

 この辺の各場面となると、バリエーションが多すぎて把握しきれない。また、おいおい勉強していきたいな、と思う。


 

 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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