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仏画(27)平成17年度美術史ゼミナール  番外編「釈迦八相」場面別解説 「苦行」編
                                      〜過激なダイエットは慎みましょう〜


1 はじめに

 釈迦八相とは前回でも説明したとおり、釈尊の生涯における主要な事蹟を挙げたものであるが、この八場面とする、といった明確な基準が定められているものではない。

  ここでは、主な場面について、大まかな特徴をあげていきたい・・・・・の8回目。


2−1 苦行 二仙人訪問

 苦行は「山中修行」釈尊は当時有名だった二人の修行者に弟子入りし(「二仙人訪問」)、修行の末奥義も取得したが満足は得られなかった・・・そうである。


2−2 苦行 苦行林

  続いてマガダ国、前正覚山近くの「苦行林」に入り、後に「私ほど厳しい苦行をした修養者はいないし、今後も現れないだろう」と語るような苦行を6年間続ける。その厳しさたるや断食のあまり背骨と腹の皮がひっつくほどだった。この辺は絵画より彫刻がリアルである。

釈迦堂縁起 重文 京都 清涼寺本 <参考画像(27)−1>
釈迦堂縁起 京都 清涼寺本 重文 室町時代

 そんなに痩せてはいないが、頭の頂上がはげ(河童ハゲ、ザビエルはげ、アルシンドはげ・・・って古いな)、無精ひげを生やした釈尊の姿を描く。

釈迦八相図(東林寺HP) 苦行・端座 で、二つ目の画像が苦行林での様子。

釈迦八相図(海圓寺HP) 修行 は、むしろ後の「牧女献縻」(右側の絵)とか「降魔」だろうか。

 いくら体を痛めつけても悟りは得られない。そう感じて苦行の山を降りた時の釈尊の姿を描くのが、単独で水墨画にて描かれることが多い「出山釈迦像」である。

出山釈迦像 東京 個人蔵 <参考画像(27)−2>
出山釈迦像 東京 個人蔵 南宋時代(13世紀) 梁楷

 苦行を終えた直後の姿を比較したいので、上半身に限定して切り取り、比べてみたい。

 『過去現在因果経』には、一日一食(一粒?)、さらには七日一食と絶食し、身体が枯れ木のようになるまで苦行を続けること六年間、これは解脱への道ではないと知った、とあるそうだ。

 

 次は、少し雰囲気の違った釈迦の像を。

出山釈迦像 兵庫 大覚寺本 <参考画像(27)−3>
出山釈迦像 兵庫 大覚寺本
元時代(14世紀)

 だいぶふくよか、というかごつくさい面貌である。

 頭の後ろに光背を思わせるような光がみえる。

 

 次もなかなかキツイやつを。

出山釈迦像 東京 個人蔵 <参考画像(27)−4>
出山釈迦像 東京 個人蔵 南北朝時代(14世紀) 右恵愚渓筆 

 上の梁楷筆の作品に似るが、左肩脱ぎの点は異なる。

 続いて、さらに強烈なものを。 

出山釈迦像 東京 永青文庫本 <参考画像(27)−5>
出山釈迦像 東京 永青文庫本 江戸時代(18世紀) 白隠慧鶴

 白隠禅師は臨済宗中興の祖と称される。毛がすごい。頭がでかい。

 さて、何故どれもこれも河童ハゲなのか。いったん剃髪して、6年間もほったらかしだったのに、髪の毛は頭頂部までは至らなかったのか?それとも、伸びるよりはげるスピードの方が勝(まさ)ったのか?

 どれも納得しがたい。如来三十二相といって悟りを得た仏陀には、大きな特徴が三十二あるそうである。その一つが肉髻(にっけい)。
 如来の頭のてっぺんは髻(もとどり。まげ)でも結ったようにふくらんでいるが、これは頭頂部の肉が盛り上がったものらしい。

 よって、これは河童ハゲではなく、肉髻を表現していると解すべきなのだろう。


 

 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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