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仏画(26)平成17年度美術史ゼミナール  番外編「釈迦八相」場面別解説 「剃髪」編
                          〜剃っちゃった〜


1 はじめに

 釈迦八相とは前回でも説明したとおり、釈尊の生涯における主要な事蹟を挙げたものであるが、この八場面とする、といった明確な基準が定められているものではない。

  ここでは、主な場面について、大まかな特徴をあげていきたい・・・・・の7回目。


2−1 剃髪

 出家し、山に入った釈尊は自ら頭を剃るのだが、そこが「(山中)剃髪」として描かれることがある。
 釈尊は城に帰らず修行を続けることを決意しているので、ついてきた御者と馬は城に帰る。この辺のことが「車匿訣別」とか「車匿帰還」と呼ばれる。剃髪する釈尊の横で「帰れ」と言われたショックからか、地面にへたりこんでいる御者の車匿を描いたものが多い。

仏伝図幡 大英博物館本 <参考画像(26)−1>
仏伝図幡 大英博物館本 唐代(8〜9世紀)

1 車匿・犍陟訣別

2 山中剃髪

3 苦行

 本作は、A・スタインが敦煌から持ち帰ったものらしい。同じ幡(パータカ)でも、前掲のものに比べるとはるかに技巧的というか、土坡の表現など本格的な唐風山水画となっている。
 既に説明したが幡は「のぼり」なので、このように縦長のもの。

 1の犍陟(けんちょく)というのは、愛馬のカンタカのことである。

 2は、図録『特別展 ブッダ釈尊』(奈良国立博物館)の解説によると、大き目の3人の人物のうち、左端が剃髪する太子。その横で剃刀を持っているのが釈提恒因帝釈天)。下で座っている5人は、いわゆる最初の仏弟子となる五比丘であり、本来、「尼連禅河沐浴」の場面(後ほど解説予定)以降にしか登場しない筈だから時系列的にはおかしい。しかし、構図上の創意として描かれたのだろうとしている。
 まあ、無理に五比丘にしないでも追尋中の5人の貴族の若者と解することもできると思うのだが、どうだろう。

 3は苦行中の痩せ細った太子である。

 カンタカは白馬で目立つので、それを手がかりにすると見つけやすいと思う。

 釈迦八相図(東林寺HP) 苦行・端座

 ここをクリックした時の一つ目の画像が典型的な「剃髪」の場面。

 釈迦八相図
(海圓寺HP) 出家 も、一度どうぞ。

釈迦八相図  鹿児島 個人蔵 <参考画像(26)−2>
釈迦八相図
  鹿児島 個人蔵 明代(16世紀)

 頭に手をやり自ら剃髪している太子。その前でへたっている車匿と犍陟。

 そのすぐ右下に、空しく犍陟を牽いて山道を降りていく車匿の姿が描かれている。 

 似たような例をもう一つ。

釈迦八相図 静岡 MOA美術館本 <参考画像(26)−3>
釈迦八相図 静岡 MOA美術館本 鎌倉時代(13世紀)

 細かくて非常にわかりにくいと思うが、山中のちょっとした広場で太子の前でへたり込んでいる車匿と白馬。


<参考画像(26)−4>
釈迦八相図
 重文 鎌倉 根津美術館本 鎌倉時代(13世紀)

釈迦八相図 根津美術館本  

 上図1が山中剃髪で、へたり込んでる車匿と白馬。2が車匿訣別(帰還)。空しく山道を下っているところ。
 3が「訪仙」。修行中に他の仙人(修行者、聖者)を訪ねる場面。4は「浄居天漁師となって化来」(『仏画』P215)とか、「漁師と衣の交換」(図録『特別展 仏教説話の美術』P60)とか書かれている場面だと思う。

釈迦八相図 広島 持光寺本 <参考画像(26)−5>
釈迦八相図 広島 持光寺本 鎌倉時代(14世紀)

 下方の四角で囲んだ部分は、「車匿ら下山」。

 上方の横長の部分は、「火龍降伏」。 これは、もっと後に出てくる場面だと思う。(頭に後光がさしてるから、成道後だと思う)
  その横長の箱の左が山中剃髪。太子が手を頭上に伸ばしているのがおわかりになるだろうか。

 出家踰城でも太子を追いかけた大臣や兵士は連れ帰ることができずに城へ戻り、また、この剃髪の場面でも、車匿・犍陟は訣別されて(太子から形見の「瓔珞(ようらく。首飾り」を渡されるシーンもあるようだ)帰還する。その帰国後の報告という場面も、よく描かれている。

絵因果経 京都 醍醐寺本 <参考画像(26)−6>
絵因果経 京都 醍醐寺本 奈良時代(8世紀)

 おそらく、「追尋したが、太子を連れ帰ることは出来ませんでした」という報告を父王にしている場面だと思う。
 ただ、報告をしている人物が御者の車匿なのか、大臣か、それとも別の人物か、はちょっとわからない。御者の格好じゃないように思えるのだが。

 ところで、剃髪にはどのような意義があるのだろう。(仏教を少しでも学んだ人には常識なのかもしれないが、私にはわからない)
 中国に伝来した時も、儒教の「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝のはじめなり」という項と「剃髪」が抵触し(もちろん、出家不婚が子孫繁栄を重んじる点と抵触した点の方が重大だったろうが)布教の障害になったと聞いたことがある。
 ゴッドハンドの大山倍達は清澄山の修行の際、左眉を剃った(娑婆っ気が出て下山したくなっても、みっともなくて出来ないように)と聞くが、俗世の人々と異形になって訣別するという意味合いもあるのだろうか?


 

 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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