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仏画(10)平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」第3回その4

1 はじめに

 平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」という講座の、備忘録程度の受講録。
 で、第3回ゼミの受講録その4。今回のテーマは「日本の仏画の歴史」のうち、平安前期(貞観)時代。


2 本日のテーマ

 今日のテーマは「日本の仏画の歴史」。

 下表が先生にいただいたレジュメの続き。

日本の仏画の歴史

 IV 平安前期の美術の特徴

 8世紀末〜10世紀半ば (※注1)

(1) 様式面の特徴

 反古典主義(baroque)→ manierisme (マンネリ)からの脱却

  「写実・均衡」から「実在感・強調・歪形(deforme)、量感」へ
  絵画遺品は彫刻と同様に、暈取りによる丸々とした奥行き表現
    「端正な相好」から「個性的・実人的な顔立ち」へ
               →日本美術史の中でも異彩を放つ時代


(2) 大陸からの影響

 中国中唐〜晩唐様式(8世紀半ば〜9世紀)

   ただし三武一宗の廃仏のうち、会昌の廃仏(唐の武宗、845年)と後周世宗の廃仏(955年)により、中国にはこの時代の遺品が少なく、影響を断言できない

  中国の影響を受けた統一新羅様式がより強くあらわれる
    中国国内より、むしろこの時代の遺品に、日本の遺品に近いものが多い

  インド・グプタ朝、西域様式(密教美術)



(3) 素材・画題の変化

 絵画は壁画から掛幅(かけふく)へ移行。画材も麻布(まふ)から絹布(けんぷ)へ

  様々な密教尊像、曼荼羅の制作(金胎両部=こんたいりょうぶ)、図像類



(4) 工房の変質

 官営工房(造東大寺司、画工司)の解体
     → 寺院工房の成立(後の仏所、絵仏所)、民間の仏師・絵仏師の登場

 制作者も官営工人から仏師、絵仏師へ




3 講座内容の概要・補記

3−IV 平安前期の美術の特徴

※注1 
 「従来は貞観時代のはじめを平安京遷都の行なわれた延暦13年(794)に置いたが〜美術史でも平安時代前期を意味する貞観時代のはじめを長岡京遷都の行なわれた延暦3年(784)に置くのが正しい」(『仏画』P150)

 「平安時代は桓武天皇が寺院などの旧勢力の強い奈良の平城京を離れ〜延暦3年(784)に長岡京へ、そして、同13年(794)に平安京に都を移した8世紀末から、12世紀末に平氏が文治元年(1185)に壇ノ浦の合戦で敗れて滅亡し、源頼朝が建久3年(1192)に征夷大将軍となり鎌倉幕府を開くまでのおよそ400年の長きにわたる〜
 平安 I (前期)と平安 II (後期)をどの時期で区切るか
、いろいろ意見の分かれるところであるが、本編では安和(あんな)2年(969)に藤原氏が醍醐天皇の皇子である左大臣源高明(みなもとのたかあきら)を太宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷し、完全に他氏排斥に成功したいわゆる「安和の変」によって摂関家を確立していく10世紀中頃を一応の目安とした」(『日本美術史』P54)


IV−(1) 様式面の特徴


 「現在残る貞観時代の仏画は〜神護寺本紫綾金銀泥絵両界曼荼羅、すなわち高雄曼荼羅、東寺本彩色両界曼荼羅、西大寺本十二天の三組の真言密教系の密教絵画、園城寺本黄不動・同五部心観の天台密教系の密教絵画、および室生寺金堂の帝釈天曼荼羅と称される壁画および室生寺金堂五仏の板光背に描かれた仏像や文様が残っているにすぎない」(『仏画』P152)

 「破調の美ともいうべき強調された量感と官能的表現、強烈な意志の力と森厳な神秘感といった癖の多い貞観時代」(『仏画』P157)


V−(2) 大陸からの影響

IV−(3) 素材・画題の変化

IV−(4) 工房の変質


<平安時代前期(≒貞観時代。8世紀末〜10世紀中頃)の主な作品>

(1) 高雄曼荼羅

 「神護寺本 紫綾金銀泥絵両界曼荼羅(しりょうきんぎんでいえりょうがいまんだら)、すなわち高雄曼荼羅〜
 空海指導の美術は〜造東大寺司の流れを汲む天平美術の古典的作風が濃厚にあらわれる〜高雄曼荼羅の諸尊にあらわれている眉目のととのった相好や、のびやかな姿態の表現によってうかがわれる」(『仏画』P152)

 「淳和(じゅんな)天皇の御願により天長年間(824〜834)に制作された両界曼荼羅」(『仏画』P228)

 「おそらく天長6年(829)から10年までの間に制作された〜高雄曼荼羅〜端正な尊容は唐の本格的な密教絵画の格調の高さを伝え〜運筆の的確さはわが国平安前期における画工のすぐれた技倆を示す〜金銀泥の線描やぼかしによる描写には奈良時代の正倉院宝物にみられるような金銀泥絵の伝統が生かされている」(『日本美術史』P60)


(2) 帝釈天曼荼羅

 「室生寺金堂の帝釈天曼荼羅と称する壁画は、いかなる典拠に基づいて描かれたのか、いまだに十分解明されていない〜金堂諸尊の光背に描かれた仏・菩薩の姿には〜東寺本胎蔵曼荼羅の表現と通じるような造作の大きな相好や、両眉の先が相接する連眉などに、貞観美術独特の破調の美をうかがうことができる」(『仏画』P153)

 「雑密的曼荼羅である室生寺金堂仏後壁の伝帝釈天曼荼羅(9世紀中頃)がある」(『日本美術史』P63)

 画像はHP「室生寺」室生寺の仏たちなど。


(3) 黄不動

 「黄不動は承和5年(838)に円珍が石龕中で感得した霊像であり〜虚空を踏んで出現した霊像の神秘感がよくあらわれ」ている。(『仏画』P153)

 「円珍が感得して描かせたという黄不動〜が園城寺に秘仏として伝来している〜黄色の肉身は細くて強い墨線の上に朱線を重ねて輪郭し、隈取りはさほど強くなく、控え目な描写のうちに力のこもった忿怒形をよく描写している」(『日本美術史』P62)

 画像は、模写分


(4) 五部心観

 「五部心観は円珍が入唐中の大中9年(855)に法全(はっせん)から授けられた善无畏(ぜんむい)系の金剛界曼荼羅図像で〜唐代の官能的な密教像の特色がよくあらわれている」(『仏画』P153)


(5) 西大寺本 十二天像

 「西大寺本 十二天像〜この十二天が制作された9世紀では〜奈良全体の文化水準の低下と足並みを揃えて、このような作品が生まれた〜画面にあふれるばかりの大きさに描き出された十二天の量感豊かな姿〜など、9世紀の密教絵画の特色をよく示している」(『仏画』P153)

 「西大寺本は鳥獣座に乗る古い例で〜その粗野な表現はこれが奈良で制作された地方作であることを暗示している」(『仏画』P235)

 「西大寺本は賦彩が朱と緑を基調として明快で画趣はきわめて大らかである。その柔らかみと暖かみのある描写と賦彩は南都からの作風を継承した〜承和2年(835)頃まで遡らせたいほどの古格をそなえている〜貞観16年(874)頃の制作とする説も生きてこよう」(『日本美術史』P62)

 画像は、雑誌『日本の国宝』59号表紙など。


(6) 東寺本 胎蔵曼荼羅

 「東寺本 胎蔵曼荼羅の諸尊は、横幅の方が縦幅より広い相好、両眉の先が相接する連眉、顔中に広がる目鼻、肉身の濃い隈取りなど、その表現にはインド的官能美がどぎついまでにあらわれ、高雄曼荼羅の古典的優美に代るに、貞観プロパーの破調の美が顕著にあらわれ、晩唐の密教美術の最盛期の到来を告げている」(『仏画』P152) 

 「従来、真言院曼荼羅と呼ばれていたが、最近の修理で、東寺西院に伝来した両界曼荼羅であることが判明した。胎蔵と金剛界は画風を異にし、金剛界は胎蔵より少し遅れる時代に、胎蔵の画風をまねて補った可能性がある。
 〜胎蔵の方は唐からの請来品である可能性も考えられる」(『仏画』P227)

 「円珍請来の彩色本両界曼荼羅をもとに、元慶3年(879)〜宗叡が新造したのが東寺の伝真言院曼荼羅とする新説が出されている」(『日本美術史』P62)


(7) 醍醐寺本 両界曼荼羅

 「天暦5年(951)に竣工した醍醐寺五重塔初重の壁扉画は両界曼荼羅、真言八祖像、護世八方天像(ごせはっぽうてんぞう)である。両界曼荼羅は伝真言院曼荼羅の系統を引き〜諸尊は均斉のとれた肢体を朱線でくくり、美しい朱隈を施し、前半の密教画の作風を伝えながらもその表情や色調および筆線には概して平明さと柔和さが増し、優美かつおおらかな後期の新様式の萌芽を示す」(『日本美術史』P64)

 「醍醐寺五重塔初層に描かれた両界曼荼羅は、諸尊の表情や姿態になお重厚な表現を留め、貞観時代から藤原時代に移る過渡期の様相を呈している」(『仏画』P157)


 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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