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仏画(1)平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」第1回その1

1 はじめに

 平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」という講座の、備忘録程度の受講録。で、第1回ゼミの受講録その1。


2 本日のテーマ

 今日のテーマは「オリエンテーション」。

 ゼミ生は総勢8人。定員10人だから、全員当選なのであろう。

 講師のI先生は、「募集の仕方も時期が変則的で、あまり周知できなかったという面はあるのですが、定員割れとは・・・。
 仏像に比べると仏画は馴染みが薄いとはよく言われるところですが、仏画の人気のなさをしみじみ感じました」とのことであった。

 本ゼミは、応募用紙を館までもらいに行き(郵送等の取扱はしていない)、与えられたテーマ(今回の場合は「私の好きな日本の仏画」)で400字程度の文章を書き、かつ、応募用紙にも志望動機について書かねばならない。
 インターネットやハガキを送ればそれで終わり、とはならないので、応募自体も敷居が高いのだ。しかし、敷居が低くなると競争率が高くなる道理なんで、まあ、その高さもありがたいと言えばありがたいのである。

 今回のスケジュールとしては、今回のオリエンテーション含め、4回で仏画の種類と特徴、歴史、館蔵品の鑑賞など講義形式のゼミ。
 それで、あと、2回で常設展示のプランニング、陳列、解説文作成などを行い、最終3月に展示会でのギャラリートークでシメという形。 


3 講座内容の概要

3−1.作品鑑賞 春日社寺曼荼羅

  ゼミ室の壁には、2幅の掛軸が掛けてあった。

 まずは、春日社寺曼荼羅(かすがしゃじまんだら)から。画像は、ここ(蔵品選集 仏教美術)で、春日社寺曼荼羅をクリック。
 または、「日本の仏教絵画」ゼミナールの募集チラシを参照。

 先生は、「詳しくはまた、次回以降に説明しますが、仏画は大きく分けると、垂迹画(すいじゃくが)、密教関係、浄土教関係、釈迦関係、華厳経等その他のおよそ5つくらいに分類されます。
 この春日社寺曼荼羅は、そのうち、垂迹画にあたるものです」とおっしゃった。

 漢字で読めば納得だが、耳で聞くと「すいじゃくが」は「衰弱」画かな?と思ってしまった。
 この辺を、『仏画の鑑賞』(著:中野玄三。大阪書籍。以下『鑑賞』)で補足してみる。

「垂迹画の起源は彫像に比べると遅く、藤原時代の末期のことであるらしいが、遺品としては、鎌倉時代中期ぐらいしかさかのぼれない。
 垂迹画の対象となった神社は、春日大社、熊野三山、日吉山王(ひえさんのう)、石清水八幡(いわしみずはちまん)の四社が主〜。
 多くの垂迹画は曼荼羅形式で描かれ、宮曼荼羅、本地仏(ほんじぶつ)曼荼羅、垂迹神曼荼羅・本迹曼荼羅に分けられる。
 宮曼荼羅は神社の社頭の景観を描いたもの、なかには春日社寺曼荼羅のように、春日社と興福寺を一幅のうちに描く例があり、興福寺の諸堂をそこに安置している仏像であらわす例もある。

〜このような垂迹画は、遠隔地にある神社への参拝が困難であるため、これを礼拝して参拝にかえるための神社の祭神にあたるものであった」

 上記にある、堂宇を直接描かず、中に安置された仏像で代える例としては、前回「興福寺国宝展」で紹介した興福寺曼荼羅図などが、まさにそれ。
 礼拝の対象とするならむしろ中の仏像を描くほうが自然と思われる。中の本尊を描かずに建物を描いて礼拝の対象とするなら、興福寺と春日大社の境内そのものを信仰対象となる「聖域」として捉えるということになるのであろう。

 館蔵品の春日社寺曼荼羅図は、堂宇のみが描かれているタイプ。
 
  興福寺国宝展の図録に本図(作品番号38)が載っている。作品解説(P219)に、「近年の発掘によって中金堂の東西回廊に楽門が存在したことが明らかになったが、本図のみがその在りし日を描き写しており、大変貴重である」とある。

 中金堂の東西回廊の楽門というのは、おそらくブラウザ上では見にくいだろうが、だいたい左図の矢印をつけた辺。
 ちなみに、下向き矢印が付いているのが東側の回廊である。

 ところで、興福寺国宝展図録No37の東京・根津美術館蔵の春日社寺曼荼羅図も、本図とほぼ同じ構図(興福寺伽藍も西側から見ているかたち)。どうも、東西回廊の中央部あたりに門のようなものが見える気がする。少なくとも、その前後とは連続性がない。

 また、同じくNo36の興福寺蔵の春日社寺曼荼羅図は、興福寺伽藍を南から見ている点が異なるのだが、東西回廊の中央部分で、回廊の外側と内側ではっきり道がつながっているように描かれている。

 まあ、作品をそれぞれ間近でじっくり観たうえで解説を書かれているのだから、間違いはないのだろう。

 



3−2.作品鑑賞 大威徳明王像

 もう一つが、大威徳明王像。画像は、これも本ゼミ募集チラシをご参照いただきたい。

 明王などの種別については、これから、おいおい「仏像鑑賞のご案内」のコーナーでやっていきたい。とりあえず、大威徳明王といえば、水牛に乗っているのが特徴。
 あと、『仏像がよくわかる本』(著:瓜生中。PHP文庫)によれば、「多少の異同はあるが〜六面六臂(ぴ)六足であることは共通しており〜足が何本もあるのは大威徳明王だけなので、すぐに見分けがつく」とある。

 先生のお話によると、五大明王が一堂に揃った五大尊絵画の場合は坐像が多いのだが、一人だけの独尊絵画の場合、本図のように水牛の上に立っている形が多く、こういうのを走り大威徳明王というそうである。



3−3.日本の仏教絵画の基礎知識(1) 掛軸の各部の名称

 仏画は掛軸の形になったものが多いが、先生から掛軸各部の名称について、次のように教えていただいた。
 順番は概ね、掛軸上部の方の名称から。

名称 説明
掛緒(かけお) 上部についている、吊り下げるための紐。
なお、巻き納めるために用いる紐は、巻緒(まきお)と呼ぶ。
八双 掛軸上部についている棒。断面は半月形。
八双金具 八双についている、掛緒をつなぐための金具
風帯(ふうたい) 掛軸上部、八双から二本垂れている、帯のような部分。日本独特のもの。よって、風帯の付いた表装を大和絵表装、風帯の付いていない表装を文人表装と呼ぶ
天地 本紙の上部及び下部を囲む部分
本紙 掛軸中心部の、絵画や書など本体部分
掛軸下部についている棒


 用語については、若干の異同があるようだが、掛軸堂という会社のHPの「掛け軸マメ知識」:掛け軸の各部名称というコーナーで図解されている。


3−4.時代区分

 下記は、先生からいただいたレジュメ。

日本美術史における時代区分
西暦 事項 文化史 政治史 経済史
538(552) 仏教伝来     古墳時代
    飛鳥時代   古代
645 大化の改新   飛鳥時代  
    白鳳時代    
710 平城京遷都      
    奈良時代(天平) 奈良時代  
794 平安京遷都      
    平安前期(貞観)    
894 遣唐使の廃止   平安時代  
  10世紀半ば頃      
    平安後期(藤原)    
1185 南都焼亡      
1187 守護・地頭の設置 鎌倉時代   古代
      鎌倉時代 中世
1333 鎌倉幕府滅亡      
    (南北朝) 南北朝時代  
1392 南北朝合一      
    室町時代 室町時代  
1568 信長上洛     中世
1573 室町幕府滅亡 桃山時代   近世
      安土・桃山時代  
1603 江戸開幕   江戸時代  
1615 大坂夏の陣 江戸時代    
1867 明治維新     近世
    近代 明治時代 近代

 

(1) 飛鳥白鳳

 美術史上では、7世紀前半までを飛鳥時代と呼ぶ。(※注1)
 また、7世紀前半から8世紀前半(710年の平城京遷都)までを白鳳時代と呼ぶ。(※注2)
 彫刻などでは、飛鳥時代と白鳳時代は様式が違うので時代を区分するが、一般には文化史などでも時代区分されないことが多い。
 仏画については、飛鳥から白鳳時代にかけての遺品はほとんど残っていない。(※注3)


※注1 「飛鳥時代とは、一般に仏教公伝から大化改新の始まる大化元年(645)までの期間をいう」(『鑑賞』P142)

※注2 「白鳳時代とは飛鳥時代に続く美術史の時代区分で、平城京遷都の和銅3年(710)までの期間をいい、別に奈良時代前期とも称する」(『鑑賞』P144)

※注3 「飛鳥時代に制作された仏画で今日まで残る作品はきわめて少なく〜中宮寺所蔵天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の断片、法隆寺所蔵玉虫厨子(たまむしのずし)の各部に描かれた絵ぐらいしか残っていない」(『鑑賞』P143)

「白鳳時代の仏画の頂点に位置するのが法隆寺金堂の壁画である」(『鑑賞』P144)



(2) 天平時代

 奈良の平城京遷都(710年)から京都平安京遷都(794年)までの期間なので奈良時代ともいう。(※注1)

 仏画の遺品は出現するが、まだ数は少ない。(※注2)

 東大寺三月堂 法華堂根本曼荼羅(ボストン美術館蔵)の画像は、「埃まみれの書棚から 10」というHPで掲載されている。
 その他、正倉院遺物等。


※注1 「天平時代は奈良時代後期とも称され、和銅3年(710)平城京遷都から延暦3年(784)長岡京遷都までの期間をさす」(『鑑賞』P146) 

※注2 「この時代の主な仏画としては〜当麻寺本綴織当麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)〜法華堂根本曼荼羅〜絵因果経(えいんがきょう)がある」(『鑑賞』P148〜)


(3) 平安時代

 政治史的には、平安京遷都(794年)から鎌倉幕府開幕(1192年)までを平安時代と呼ぶ。

 文化史的には、前後二期に分け、平安前期を貞観時代(※注1)、平安後期を藤原時代(※注2)と呼ぶ。

 一般には894年の遣唐使廃止以降、国風文化が芽生えたといわれるが、実際には遣唐使廃止によって直ちに大陸文化の影響が消えたわけではないので、概ね950年頃で二分する。

時代区分 時代名称 時期 仏画の特徴 仏像の特徴
平安前期 貞観時代 794年〜 丸顔。西域の影響大。
彩色は唐風
肉感的
平安後期 藤原時代 950年〜 穏やかな色調 定朝(じょうちょう)様式

 鎌倉時代に古典回帰の動きがあったが、どの時代に回帰を目指すかについては彫刻(仏像)と仏画とで異なる。仏像について回帰するクラシックは天平時代。また、仏画では平安後期の様式がクラシックと考えられている。


※注1 「従来は貞観時代のはじめを平安京遷都の行なわれた延暦13年(794)に置いたが、戦後長岡京の発掘調査が進み、その帝都としての諸施設が相当完備していたことが明確になったため、美術史でも平安時代前期を意味する貞観時代のはじめを、長岡京遷都の行われた延暦3年(784)に置くのが正しい」(『鑑賞』P150)

※注2 「寛平6年(894)菅原道真の献策により、遣唐使の派遣が廃止されたことは、美術史の時代区分を画するに足る注目すべき政策決定であった」(『鑑賞』P156)
 

(4) 鎌倉時代

 鎌倉時代の始期→文化史的区分:1185年南都焼亡、経済史的区分:1187年守護・地頭の設置、政治史的区分:1192年鎌倉幕府開幕。(※注1)

 終期は、鎌倉幕府滅亡の1333年。


※注1 「寿永4年(1185)の平家の滅亡は、長かった和様の藤原時代の終焉を告げる事件であった」(『鑑賞』P167)

(5) 南北朝時代

 1300年代に仏画に新しい動きが生まれてきた。
 鎌倉後期の元寇(文永・弘安の役)で、王朝復古、日本愛国主義という考え方が強くなってきた。

 



 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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