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(No143) 「空海の舎利信仰 〜法門寺から東寺へ〜」 聴講記 その3

 平成22年6月19日(土)、上記講演会を聴きに行った時のメモ・・・・の完結編。




空海の舎利信仰〜法門寺から東寺まで〜 

                 内藤栄 奈良国立博物館学芸部長補佐

 

 


六 法門寺真身舎利奉迎と後七日御修法の共通点

 

1 定期的に寺院より舎利を宮中に移し、供養。

2 為政者による舎利の礼拝、供養

3 護国や民の安泰を祈願

4 法門寺塔の別名「護国真身塔」、東寺の別称「教王護国寺」(ただし、空海の時代にはこの名称はなかった)

5 空海は、師・恵果より法門寺真身舎利奉迎の次第を伝授されたのではないか。


 法門寺は、長安から40〜50kmくらいで、車で1時間程度です。

 後には天皇のための供奉となりましたが、後七日修法も当初は護国、民の安泰が目的で、その点で寺の別称にも共通点があります。

 


まとめ 空海の舎利信仰

 

1 阿育王以来の為政者による舎利供養・・・舎利は鎮護国家の宝物へ

2 舎利と龍神との結び付き・・・雨や恵みをもたらす舎利

3 東寺を日本の法門寺と位置付けたか・・・仏像、法具にも舎利を籠めた。

 東寺は舎利を重視しています。その点は同じ空海の建立した寺でも金剛峯寺では舎利は籠められていません。

 東寺は舎利により護法された鎮護国家の寺なのです。

 


空海後の舎利信仰

 

1 院政期より、後七日御修法に「玉体安穏」(天皇の健康)が加わる。・・・天皇主宰の舎利供養から天皇のための舎利供養へ。

2 院政期に様々な舎利法、宝珠法が誕生・・・主な祈願目的は、皇胤存続、安産祈願、病気平癒、敬愛などへ。人々への舎利供養という理想から離れる。

3 法皇による如意宝珠の独占

 院政期に修法の目的に天皇の健康祈願が加わりました。

 天皇が主宰する「人々のために」という理想が崩れ、「天皇のために」と変質しました。それは舎利の独占、舎利は都の外に出さない、民衆には礼拝を許さないということにつながっています。

 空海が恵果から伝授されたと伝えられる如意宝珠は、鳥羽御室に収納され、後白河法皇が鍵を持ち独占してしまいました。

 それでは、空海以後には舎利信仰はすっかり廃れてしまったんでしょうか。

 私は、重源が引き継ぎ、空海の舎利信仰を再現したのではないかと考えています。
 彼は中国に3回行ったと自称しています。
(梵鐘銘に「入唐三度上人」としている。解説はここでやここで)

 彼は寧波阿育王寺に行ってカルチャーショックを受けたようです。それは、皇帝も民衆も一緒に舎利を信仰するさまを観て、帰国後、別所を築きました。

 重源は、舎利の容器として三角五輪塔を築き、民衆とともに礼拝しました。

 さらに鎌倉期の叡尊貞慶らは、民衆に根ざした宗教を目指しました。空海の舎利信仰はこの時期においてグローバルなものになったといえるでしょう。

 


 

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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