移動メニューにジャンプ

(No104) 講演「音声菩薩の奏でる音とは」聴講記 その3 

 2007年9月26日(水)、講演者は東大寺執務執事 狭川普門先生・・・・・の続き。


 


【 5.東大寺の前身寺院に関する諸説について 】

名 称 説   明
1.阿弥陀堂 阿弥陀堂の中心に据えられたとみられる「寶殿」が、天平13年(741)3月に造り終えたとの記録がある。
東大寺上院地区と見られる。
場所は開山堂の付近か?
※ 形式は八角堂か?
2.羂索堂 現在の法華堂(三月堂)。
『東大寺要録』によれば羂索堂はもと金鍾寺であったと記載。
3.千手堂 法華堂や阿弥陀堂から遅れて千手堂の建造が始まったか?
4.金光明寺 天平14年(742)7月頃には完成している。
←前身寺院は金鍾山房や福寿寺
5.福寿寺 天平10年頃より造営が始まったか、造営計画が出来ていた可能性が高い。
天平13年3月には、皇后宮職系の写経所が東院から福寿寺に移っている。
※ 光明皇后が発願した可能性が強い。玄眆との関連。
※ 上院地区の寺院名称は福寿寺、後には金光明寺であったか?
※ 興福寺を範とした伽藍が建造されたか?
6.金鍾山房 創建時期は、福寿寺より先行する。
上院地区と近接。
良弁が止住。
近年発掘された丸山西遺跡及び天地院跡。
※ 聖武天皇が夭折した基親王のために建立したというのが通説→神亀5年(728)
※ しかし、良弁の私寺的色彩が強い。→中山寺=丸山西遺跡
7.仮説 金鍾山房=丸山地区
福寿寺=上院地区
金鍾山房+福寿寺=金鍾寺=金光明寺
8.辛国堂 戒壇院北東付近に存在したとみられる。
上院地区や丸山地区とは異質の瓦が出土。
※ 『東大寺要録』縁起章によれば、大仏殿の東西を、金鍾長者と辛国長者が争っていた。
9.香山堂 神亀5年創建の「山房」がこれにあたり、金鍾山房とは別の寺院とみるか?
天平勝宝年間頃には、香山堂は東大寺に所属していた。
※ 光明皇后或いは聖武天皇が発願したとみられる山房(山堂=香山堂)は、内裏に厳重に判断を求めている。

 法隆寺金堂の壁画は模写中に座布団から出火して焼けてしまいました。つまり国の責任ですね。
 その法隆寺金堂の壁画ですが、源泉はインドにあります。
 インドのデカン高原にあるアジャンタ石窟寺院は、紀元前から5、6世紀、そして8世紀くらいにかけて建造されました。
 これで仏像などの歴史がわかります。
 初期のものには釈迦そのものの姿はなく、ストォーパや仏足石などで釈迦を象徴させています。
 しかし、その後に釈迦仏が現れてくるのですが、後期に属する第26窟にあるデザインが法隆寺金堂壁画のモチーフになっています。

 ということは、その当時、遥か遠くのインドからこのようなモチーフを日本まで伝えてもペイしたということです。誰がこのようなコーディネートをしたのかを考える必要があります。 
(※ 石野注)

 アジャンタ石窟第26窟についてはHPアジャンタ石窟寺院にて。 

 法隆寺金堂壁画焼損の原因については、Wikiでは模写中の画家が使っていた電気座布団からの出火説も紹介されているが、結論として原因不明としている。

 また、仏教発祥以来、初期の頃には、あまりに偉大な釈迦をそのまま我々一般の人間と同じような姿で表すようなことは許されなかった。
 よって、仏教絵画などにおいても釈迦の姿は直接表現せず、蓮華、菩提樹、法輪、仏塔などシンボルで表したり、釈迦のいるべき方形の仏座や差している傘だけを表現し、居るべきスペースは空白で表現した・・・・てなことは、ちょっと仏教に興味を持った者なら「常識」に属する範囲である。

 東大寺というのは、奈良の都にある大寺。また、「大」とは単に大きいということではなく、官立、つまりナショナル・テンプルという意味だったのです。

 何故、東大寺を聖武天皇が建立されたのでしょうか。最近、○○など女流歴史家たちが、聖武天皇は病弱で、光明皇后の尻に敷かれ、言いなりになっていたなどど主張する者がいるのですが、これは大きな誤りです。
 聖武天皇ほど立派な天皇はそれほどいません。しかも、聖武天皇は出家しておられますからね。

 今は皇室典範で、天皇は出家してはならないと規定されてしまっています。

 山口県に長登銅山という鉱山跡がありますが、これは元は「奈良のぼり」であり、ここで採掘された銅が奈良の大仏に使用されたと伝えられています。

 現在の戒壇院近くの崖の地下5mから鋳造跡が発見されました。
 乾漆造りですと、せいぜいヘラくらいしか残らないんですが、鋳造は木組みを組んだり、出来上がった後、持って上ったりする設備が必要になるので、残るんですね。
 今、幼稚園がある辺にも鋳造跡があるのですが、中国から鑑真が来朝したため、途中で切り上げて、現在の戒壇院を造ったんです。

 さて、聖武天皇と光明皇后の間に11年ぶりにできたのが基親王
(もといしんのう)です。学会では某親王と呼びますが、私どもは基親王と呼びます。
 聖武天皇といえば、カリスマ天皇ですから、その子も将来が期待されました。しかし、その皇子は一年足らずで亡くなってしまいました。

 大仏殿の東側に山がありますが、この辺に法華堂があります。このあたりが上院地区と呼ばれます。このほかに丸山地区と呼ばれる地区もあります。

 さて、基親王の菩提を弔うための寺をどう呼ぶか、金鍾山房か、金鍾寺か、それとも単に山房か。どう呼ぶかは諸説紛々で、結論が出ていません。

 当時、金鍾長者と辛国長者が争っていたという記述も残っています。

 京大の吉川先生が東大寺近辺の地下をレーダー探査したところ、地下に法華寺くらいの寺があるとか、灯明皿などカワラケが大量に捨てられた谷などが発見されています。

(※ 石野注)

 吉川氏の発掘調査については、ここで。




 上院地区は、国家組織に伺いを立てて動いていました。
 一方、丸山地区は良弁が個人的に動かしていたようです。

丸山地区
■ 金鍾山房に相当(天平5年に創建?)
◇ 丸山西遺跡
◇ 天地院遺跡
◇ 中山寺
■ 神亀5年創建の山房とは別系譜
  上院地区

■ 福寿寺に相当(天平10年創建)
◇ 阿弥陀堂
◇ 羂索堂
◇ 千手堂 
金鍾寺
   
  金光明寺と同義 ←天平14年成立
   
辛国堂を取り込む→ 金光明四天王護国之寺 ←天平19年

 
 


【 6.良弁による『華厳経』講説について 】

1.天平12年(740)からはじまる=聖武帝40歳の賀にあたり、講説を設ける。良弁52歳。
◇ 初めの3年間は、大安寺の審祥(しんしょう)が講師をつとめ、興福寺の慈訓(じくん)・鏡忍(きょうにん)・円証(えんしょう)らが復師として補佐。
 洛中諸寺の学僧十六口を聴衆に加え、3ヵ年で『華厳経』六十巻を講じ終えた。

2.天平16年(744)=華厳研究機関である「知識華厳別供」を定着

 聖武天皇は華厳経をすべての基本に据えようとしました。
 華厳経は、審祥に頼んで、3回目にようやく了解してもらったそうです。

 その後は興福寺の僧に教えてもらいました。

 当時の僧侶は仏教だけではありません。医療、建築、土木、灌漑、福祉とあらゆる分野に通じていました。
 こうした分野も修めて、全国へ派遣されていったのです。
 医師、女医も養成されていました。どうでしょう、今よりすごいんじゃないでしょうか?

 

 八角灯籠の中には灯は一つしか点されません。金持がたくさんの灯明を献上したが、貧しい方が、その貧しい中でわずか一本の灯明を献上された。しかし、その灯明は消えることがなかった・・・というのが「貧者の一灯」というお話ですね。
 この一つというのが重要なのです。
 また、インド人が発明したとされている「ゼロ」というのも大事ですね。1と0があって、コンピュータがあるんですからね。

 華厳経の中には地球37億年の歴史が包含されているのです。

 


【 7.修二会について 】

 修二会は大仏開眼の年の2月に始まりました。開眼は752年の4月です。

 初代の大仏建立でもそうですし、二代目の大仏を建立する際、中国と日本の技術者をコーディネートした重源上人、また、江戸時代の公慶上人もそうですが、技術者を動かすためには彼ら以上のプランニング、見識を持っていなければなりません。

 今の東京都庁建築の時にもめたのは、よく選挙に出ている人(黒川紀章のことか?)と別の建築事務所が建築方針で対立したからです。

 先ほども聖武天皇に対する歴史家の誤解について触れましたが、大仏造立も民衆に何も無理強いしていないんですよ。歴史の教科書ではそう書かれていなくて、たいへん迷惑しているんですが。

 修二会というのは最初から徹底して市民参加型のイベントだったんです。
 修二会には達陀
(だったん)という行事に使う火は伊賀一宮から運んでもらっています。三重県名張市では、記念行事となっています。
 修二会というのは藤蔓
(ふじづる)や竹、南天、灯心からテシマゴザに至るまで、皆さんのお力に助けていただいてます。

 
 松明送りの行事については、HP「たいまつ」にて。

 自民党も年末に解散するんでしょうね。たいてい、2月の別火に入ってから解散されるんです。
 そうすると全部書き直しですからね。

 修二会の行事に過去帳の読み上げというのがあり、そこでは創建当時以来、東大寺に貢献された方々の名前などが読み上げられる。

 よって、総理大臣を筆頭に、奈良県選出の国会議員なども、その際に読み上げられるのだが、それが「解散」などがあると全部書き替える必要が出てくるというのだ。

 


 

 狭川先生は音楽、特にグスタフ・マーラーがお好きなようで、一番いいのはイスラエルフィルがマーラーの9番をズービン・メータ指揮で演奏すること・・・・・とおっしゃっていた。

 まとまりのない聴講記で申し訳ない。これでも原文よりだいぶ整理はしてるつもりなんだが。

 どうもお疲れ様でした。

 
  

inserted by FC2 system