移動メニューにジャンプ

(No160) 京都国立博物館 法然上人特別展覧会「法然 〜生涯と美術〜」鑑賞記 その4


 平成23年4月22日(金)に行った時の鑑賞メモ・・・・の続き。

 

 


 II 法然への報恩と念仏の継承

 

 京都国立博物館HPにおける第2章の概説は以下のとおり。


 法然がなくなったあとの祖師に対する信仰から生まれた美術を紹介します。

 その代表的なものである絵伝では、伝法絵、琳阿本、弘願本、拾遺古徳伝という系統の異なる絵巻、また二幅本、三幅本、六幅本、七幅本という内容の異なる掛幅の諸本を集めて、法然信仰の広がりを俯瞰します。

 信仰のよすがとなる肖像画も、さまざまな説話に基づいて制作され、異なる図様であらわされました。

 愛知・光明寺蔵の六幅本絵伝や、知恩院蔵の自画像と伝える肖像画は、今回初めて公開されます。

 さらに、聖光房弁長善恵房証空をはじめとする、法然の教えを広めた弟子たちの行状に関する資料や、法然の教えを伝える浄土宗寺院の仏教美術もあわせて紹介し、法然が日本の宗教、文化の中で果たした役割を再認識します。

(1) 法然の絵伝

70  阿弥陀如来立像  鎌倉時代(13〜14世紀) 岡山・誕生寺

 誕生寺とは岡山県にあり、法然の生誕地に法力房蓮生こと熊谷直実が創建したと伝えられる。


71  伝法絵断簡  鎌倉時代(13世紀) 岡山県立博物館

 後期に展示されていたのは「臨終の段」。

 国宝の絵伝の巻三十七(「65」)と違い、建物が描かれていないので、野外でゴザを広げて寝そべってるのどかなピクニックの絵のようにも見える。

 巻頭に「法然上人伝法絵流通」と記されている。

 

72 本朝祖師伝記絵詞  室町時代(16世紀) 福岡・善導寺

 71と同じく配流の旅の途中、讃岐国塩飽で、地頭入道西仁のもてなしを受けるという「塩飽の段」と、法然が阿弥陀三尊の来迎を得て往生する「臨終の段」が前期・後期に分けて展示されていた。

 72の絵は、71と違い建物が描かれているので、「65」に近い。違うのは阿弥陀如来からのビームがやたらぶっといこと。

 「本朝祖師伝記絵詞」というのは近世に附された外題箋に記された題名。原題は「伝法絵流通」だった。
 巻四奥書に、原本は嘉禎3年(1237)に描かれたものと分かる。
 72は71と同じく「伝法絵」と呼ばれる法然上人絵伝で最も早く成立したものである。

 京博の若杉準治氏の分析では、法然上人の絵伝は伝法絵に始まり、この直系として琳阿本が制作され、これに真宗の立場を加えて拾遺古徳伝が分立。それとは別に、全く新たな構想の下、九巻伝、そして、それを発展させた四十八巻伝が成立したとされている。


74 重文 法然上人絵伝(琳阿本) 巻八  鎌倉時代(14世紀) 東京国立博物館

 妙定院本の巻首にある「向福寺 琳阿弥陀仏」という字句から琳阿本(りんなぼん)と通称される。

 巻八第一段は、帰洛許可の院宣を得て、配流先から大谷の禅房に帰還した場を描く。輿の前のでっぷりした僧が法然か。
 屋敷の外で、着物をはだけ、左胸をあらわにして扇であおいでいる僧の姿が印象的。

 

75  法然上人伝絵詞 九巻のうち巻八  江戸時代(17世紀) 東京・妙定院

 巻首に「向福寺 琳阿弥陀仏」という写されている琳阿本。

 絵柄も稚拙だし、71でもそう感じたが、「北枕」で西面しているのではなく、頭が阿弥陀の方を向いている。つまり「西枕」。

 

77 重文 拾遺古徳伝断簡  鎌倉時代(14世紀) 茨城・無量寿寺 

 74と同じく帰還の場が描かれる。やはり胸をはだけてる親父がいる。

 

80 重文 法然上人絵(弘願本)  南北朝時代(14世紀) 京都・知恩院

 巻末に「釈弘願」の署名があるため、弘願本(ぐがんぼん)と通称される。

 展示されていたのは、九条兼実邸を辞する時、法然の足元に蓮華、頭の周りに光が顕れた場を描いたもの。

 蛇が唐垣で昇天し、蝶や天女が現れた場もあった。


81 重文 法然上人絵伝  鎌倉時代(14世紀) 三重・西導寺

 縦は163cm、横は124cmを超える大きな掛幅形式の絵伝。

 絵巻方式で描かれる法然の生涯の事蹟をだいたい下から上へ向かって描かれているようだが、展示現場では何が描かれているのか(場内の照明も暗いし)判りにくかった。

 本幅も、右下に幡が躍っているように見えたから誕生の場かなあ?と思ったが、後はあまり判別できなかった。

 ほか、何点かこうした掛幅形式の絵伝が展示されていたが、あまりじっくり眺めていない。

 


II−(2) 法然の肖像画

87 重文 法然上人像(足曳御影)  鎌倉時代(13世紀) 京都・二尊院

 前期展示なので現物は観ていない。画像はここここで。

 リンク切れでなければ、京博展示作品紹介京博ハイライトで。

 『円光大師行状図画翼賛』巻五十「二尊院」の項に、本画の由来が書かれている。いわく、法然に帰依した九条兼実が肖像画を描こうとしたが許されなかった。そこで、入浴後にくつろいでいた法然の姿をこっそり詫間法眼に描かせた。両足を伸ばしてくつろいだ姿を写されたので、しどけない姿に恥じた法然が祈ると絵の中の法然が現在の絵のように足を曳いて座っている姿になった・・・・という伝説から「足曳御影」(あしびきのみえい)の名がついたそうだ。

 法然の肖像画としては最古の部類に属す。


88  法然上人像(鏡御影)  鎌倉時代(13世紀) 京都・金戒光明寺

 法然の弟子で絵が得意な勝法房が法然の肖像画を描き、賛を求めたとき、法然は鏡を見て「似ていない」と思ったところを修正して返した・・・・という伝説から鏡御影(かがみのみえい)という名がついている。
 ちょっとイヤミな伝説やな。

 構図(顔の向きや数珠の持ち方)は、87と同じ。

 

90  法然上人像(伝自筆)  鎌倉時代(14世紀) 京都・知恩院

 構図自体は87や88と同じなのだが、法然の自筆と伝えられる。

 88では法然自ら絵を修正したという伝説が残っているが、まるまる自画像を描いたとしたら相当絵心があったことになる。

 他の絵と違って、頭頂部が平らではなく自然な丸みをおびており、若さを感じさせる。

 

91  法然上人像(宝瓶御影)  室町時代(15世紀) 京都・知恩院

 法然の本地が勢至菩薩であると諸伝に書かれている。武家に生まれた法然の幼名は勢至丸であったと館内の解説ビデオにあったが、それとの関連はどうなのだろうか?

 いずれにせよ、本画では頭の横に勢至菩薩を象徴する金色の水瓶が描かれ、頭の後ろには円形の光、足元には靴のように蓮華を踏んでいる。よって宝瓶御影(ほうびょうのみえい)という名を持つ。
 頭頂部は平ら。

 


 お疲れ様でした。

 
 
  

inserted by FC2 system