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(No51) 国際シンポジウム 「北宋汝窯青磁の謎にせまる」聴講記 その3 平成22年3月13日(土)、上記シンポジウムを聴きに行った時のメモの続き。
今回は、「話し言葉」でなく、要約タイプとしたい。
汝窯と北宋汴京官窯 王光堯 故宮博物院研究員
1 汝窯の定義 汝窯と北宋汴京官窯の関係については、宋代の文献には時間的な前後関係が出てくるのみ。 しかし、それは イ 結果として北宋汴京窯の存在を否定することになる。 (2) 筆者の見解 イ 時間軸でみると、北宋汴京官窯の造営は、成熟した天青釉類の汝窯瓷器が出現した後か、あるいは重複している。 ウ 文献に明記されているように、修内司窯は「襲故京遺制」、すなわち全てにおいて北宋汴京官窯を模倣している。 エ 考古学における類型学の理論に基づいても、北宋汴京官窯の器物の造形性や生産技術が汝窯と修内司窯の間にあるのは当然で、製品の特徴の違いが汝窯から南宋官窯に至るまで大きくないのは当然である。 (3) 本稿のねらい ア 汝窯の考古発掘資料をもとに、宋代官窯制度の形成と完成という大きな視点の中で、汝窯が宋代官窯制度の形成過程で果たした役割を再検討する。 イ また、汝窯と北宋汴京官窯の間におそらく存在したであろう関係性についても検討する。
一 汝窯址で検出された考古事象の解釈 1987年以来の、河南省文物考古研究所による清涼寺村とその周辺における8次の発掘調査で、汝窯瓷器全体の様相、生産管理体制が明らかになってきた。 1 第一次(1987)〜第四次調査でわかったこと 宝豊清涼寺窯址は、北宋御用品の生産地であり、地層の堆積状況から天青釉の汝窯瓷器は北宋晩期のかなり短い期間、また極めて少量焼造されたことがわかり、文献記載の内容と一致することから、汝窯瓷器の窯場は民窯であったことがわかる。 2 第五次(1999)〜第八次(2002)調査でわかったこと (1) 宋代晩期の地層のほとんど全てから御用汝窯瓷片が出土した。 (2) 匣鉢、色見片及び台等の窯道具も出土したが、それらは以前の民窯で発見されたものとは異なっており、御用汝瓷を焼造した中心区の位置と範囲が確定した。 (3) 中心区においては工房は北辺に集中し、水簸池(原文:澄泥池)、沈澱池(原文:濾過池)は南部に分布し、秩序だっている。 (4) 豆青釉が特徴である臨汝窯瓷器は、青緑釉の段階を経て、天青釉の汝窯瓷器に発展した。 (5) 青緑釉瓷器は手づくり成形で型成形は行われていないが、一部には既に「満釉支焼」(底部まで釉を施す「満釉技術」と、「支焼技術」の複合)がみられる。 (6) 発掘された天青釉瓷器は数トンに達するが、そのほとんどは明らかに故意に破壊してあり、専ら落選品を埋めた廃棄坑もみられた。 3 全8次の発掘調査で得られた考古資料と、文献資料との矛盾点 (1) 汝窯瓷器生産の中心区では、御用汝窯瓷器が集中的に生産され、落選品は集中的に破壊処理されていた。 (2) 筆者の見解 上記矛盾は、汝窯と官府との関係における段階的差異=汝窯瓷器が朝廷のシステムに組み込まれ、汝窯の生産の属性・所属が変化したことによるもの。 ア 「供御揀退方許出賣」は、落選品は売ることが許されていた時期(段階) 二 汝窯址の状況から見た両宋官窯制度の形成過程
(2) 朝廷(官府)が瓷器を入手する方法は、
(1) 元祐元年(1086)以前〜北宋初期 (2) 北宋中期 (3) 北宋晩期 天青釉・青緑釉の瓷器片の発見例は極めて少なく、大量の白釉瓷器、豆青釉瓷器と同じ窯(民窯)で焼造されていた。 落選品を集中して破壊処理していた形跡も見当たらない。 以上のことから、汝州が焼造の命を受けて最初の頃に宮中に貢納していた製品は一般的な「臨汝窯」の様相・風格の瓷器であったが、宮中への供(役)ということから高品質を追求した結果が、造形的にも整った龍文の青緑釉類や天青釉類の瓷器を生み出したと考えられる。 地方官府は、受命承焼した製品について、供(役)の任務を完遂した後は当然自由に処理できた。
天青釉類の瓷器が中心区(清涼寺窯址区最北端の東西両側を流れる河川に挟まれた台地)で集中的に生産され、落選品が故意に破壊処理されていた時期には、既に「供御揀退方許出賣」の旧法は改変されていた。
(2) 宝豊清涼寺汝窯址の考古資料から明らかなこと
少し長くなったので、一度切ります。
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