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(No49) 国際シンポジウム 「北宋汝窯青磁の謎にせまる」聴講記 その1

 平成22年3月13日(土)、上記シンポジウムを聴きに行った時のメモ。


 詳細な資料がついていた。外国人の方の講演については、原語の原稿とその日本語訳がついている。通訳の方の話を聴いていると、その資料に載っている日本語訳を読み上げているだけ・・・・という感じだったので、今回は、「話し言葉」でなく、要約タイプとしたい。


 

汝窯瓷器に関する諸問題 

                 孫新民 河南省文物考古研究所所長

 

はじめに

1 汝窯と五大名窯

(1) 宋代「五大名窯」 =汝窯、官窯、哥窯、定窯、鈞窯
(2) 唐宋時期には州名を窯名とする →北宋時期の汝州に由来


2 汝窯の特徴

(1) 天青色の釉色
(2) 極めて小さな支焼技術
(3) 釉面に表れる氷裂文の貫入

3 汝窯の発見

(1) 1950年 陳万里氏が初めて清涼寺窯址を調査
(2) 2000年 河南省文物考古研究所が第6次発掘で汝窯焼造区の発見


一 伝世の汝窯瓷器

1 伝世品の少なさ

(1) 御用瓷器の焼成期間が短い
 北宋が、金の侵入により陶工が散逸し、窯が荒廃した
(2) 『清波雑志』
 周W
『清波雑志』巻五→「汝窯宮中禁焼、内有瑪瑙末為釉、唯供御揀退方許出売、近尤難得
(3) 『武林旧事』
 南宋の周密『武林旧事』巻九「高宗幸張府節次略」→紹興21年(1151)に高宗趙構(在位1127〜62)の行幸時に清河郡王張俊汝窯瓷器16点を進奉
→ 南宋皇室で汝窯瓷器が愛好されていたこと、汝窯瓷器が当時既に稀少なものであったことが分かる

2 伝世品の数量

(1) 『武林旧事』 → 1151年 汝窯瓷器16点
(2) 『清宮造辧處活計清档』 → 雍正7年(1729)の点検時 汝窯瓷器31点
(3) 『中国陶瓷史』1982年 → 「現在まで流伝するものは100点に満たず、宋代の名窯の伝世品は最も少ない」
(4) 『汝窯的発現』1987年 → 伝世汝窯瓷器65点の詳細な一覧
(5) 基本的資料 → 約74点
→ 18種類の器型
→ 台北故宮博物院(21点)、北京故宮博物院(15点)ほか 

 
   


二 汝窯瓷器の造形と装飾

1 焼造区での特徴

(1) 宝豊清涼寺汝窯焼造区発掘 → 厚さ20cmもの瓷片堆積。汝窯瓷器が98%以上を占める
→伝世品と類似するものが多く出土し、伝世品には見られないものも数多く発見された

2 装飾について

(1) 伝世品の装飾 → 花口盞托の凸状の棱、三足樽の弦文のほかは、文様は楕円洗見込みの双魚文のみ
(2) 出土品の装飾  → 多くの器物の表面は、蓮花文、龍文、双魚文などで装飾されている

 
3 型

(1) 清涼寺窯址から「范模」(=型)が出土 → 宋代には、宮廷用の器の寸法について厳格な要求があったことが分かる



三 汝窯瓷器の焼成と年代

1 窯の構造
(1) 数と位置 → 計20基、発掘区域の西北部に集中して扇形状に分布
(2) 構造 → 窯壁は耐火煉瓦で構築、焚口・燃焼室、焼成室、隔壁、煙突で構成される
(3) 型式  → 「前円後方」タイプ(初期):面積が比較的大きく、平面は馬蹄形:7基
→ 「楕円形」タイプ(北宋晩期=成熟期):13基
(4) 燃料 → 石炭の灰が発見されない。焚口が浅い→燃料は薪
(5) 温度調整 → ・ 特に楕円形窯は焼成室の面積が非常に狭いため窯内の温度調整には便利、
  ・  大量の色見(窯内の温度を調べるもの)が出土
  ・  匣鉢(さやばち)は、(特に成熟期のものは)耐火泥が塗られ、密封性・温度保持
    に効果があったと推測される。

 
2 発展段階の区分
(1) 第一段階 ・満釉支焼 撥高台 天青釉瓷器
・豆青釉 豆緑釉の刻花、印花瓷器
・匣鉢(さやばち)は、赤褐色。耐火泥の塗布なし
・支焼墊餅の支釘(目)は粗く大き目
・「元豊通宝」銅銭が出土→北宋神宗の元豊年間(1078〜85)に始まっていた
(2) 第二段階
・天青釉瓷器が中心 伝世品の器形がすべて出揃い、新たな器形も登場
・焼成技術が成熟化 匣鉢外壁に耐火泥を塗布
・支焼墊餅の支釘(目)は小さく先が尖る。新たに支焼墊圏も登場
・多くの器で型による成形が行われている。器物の造形は端正で器壁の厚さも均一
・「元祐通宝」、北宋哲宗(在位1085〜1100)時期の「元符通宝」、徽宗(在位1100〜25)時期の「政和通宝」が出土



四 汝窯の性格とそれに関する論争

1 清涼寺「以前」(1987 宝豊清涼寺窯址が汝窯址と確定する以前)

 汝窯=北宋宮廷のために御用瓷器を焼成した窯

(1) 馮先銘「河南省臨汝県宋代汝窯遺址調査」(1964)  汝窯は、宮廷専用の御用瓷器を焼成する要素と、現在「臨汝窯」と呼ばれる民間焼成の瓷器に区分され、後者のウェイトが高い

(2) 『中国陶磁史』(1982) 
 
 宝豊窯と臨汝窯は「耀州窯系」で、汝窯は単独の窯

(3)李輝柄『概説汝窯』(1986)

 文献にある”汝州青瓷”こそ汝窯の本当の代表であり、印花青瓷や天藍釉の鈞窯は汝窯の特色ではない


2 清涼寺以後

(1)汪慶正『汝窯的発現』  清涼寺汝窯遺址は焼造品の種類が豊富で、稼働期間の長い民間窯。性格は定窯と類似し、民間用瓷器の大量生産が基礎。
 良質な製品を焼造していたため宮廷に選ばれ、御用器(汝官窯)の焼造を命じられたが、後に京師(汴梁)に官窯が置かれ、取って代わられた。

(2)李輝柄『宋代官窯磁器』

 宝豊清涼寺汝窯址=官汝窯=北宋官窯。文献に記載される汝窯と北宋官窯は同一。
 「発掘出土品と宮中の伝世汝磁が同一と証明できたということは、清涼寺窯址が官汝窯所在地であることを強力に証明」
 窯址からは多くの民汝窯の器物も発見された。これは『担斎筆衡』にみられる、先ず汝州に青瓷の焼造が命じられ、その後に官窯を自ら置いたという記載の事実と合致する。
(3)筆者の見解
 宋の文献にある「汝窯宮中禁焼、内有瑪瑙末為釉、唯供御揀退方許出売、近尤難得」の記載は汝窯が貢窯の性格であることを示しており、「供御揀退」後には売りに出せるということであるから、明らかに「宮中自置窯焼造」の北宋官窯ではない。


 

 


 

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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