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(No35) 韓金科先生特別講演会「法門寺塔地宮の文物と密教」聴講記 その1
韓金科氏は、法門寺博物館の前館長。
平成19年3月10日(土)に奈良国立博物館主催で上記講演会が開催された。
【 はじめに 】
法門寺は、長安の西、約120kmのところに位置します。
インドの阿育王が、釈迦の仏舎利、遺骨を19個中国に贈ったのですが、そのうち5個の舎利がこの法門寺に来たと伝えられています。
6世紀から9世紀、唐王朝の時代に盛んに信仰され、30年ごとに長安までこの舎利が運ばれ、盛大に法要が営まれました。
ところが、874年以来、舎利は持ち出されず、法門寺の地下に眠ることになったのです。
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(※ 石野注)
他のHPなどを参考にして、法門寺に関する歴史などをまとめてみたい。
1.法門寺の位置
(1) 中国陝西省西安市の西120kmの扶風県法門鎮(Wikipedia「法門寺」。以下「Wiki」と略記)「Wiki」)
(2) 中国陝西省宝鶏市扶風県法門鎮(西安市内より約140km)(「遥かなる西安」)
2.寺名の変遷
(1) 阿育王寺
北周以前に建立。塔は阿育王塔。北周武帝の廃仏により廃毀される。
※ 「北魏時代(499年頃)に建立」という説あり。
(2) 成実道場
隋の文帝の代に復興。
開皇3年(583)、寺名を改称。
(3) 宝昌寺
隣接する宝昌寺に編入される。
(4) 法門寺
武徳元年(618)に宝昌寺から独立させ、寺名を改称。
※ 「唐高祖の代、武徳7年(624)に改称」という説あり。ただし、韓先生のレジュメでは618年。
(5) 法門寺(真身宝塔)
貞観5年(631)、張亮が塔を修復。
顕慶5年(660)、高宗が宝塔内の仏舎利を洛陽に迎えて法要を行う。
武則天の子である中宗が、阿育王塔を真身宝塔に改称。
(6) 聖朝無憂王寺
景龍4年(710)、寺名を改称。塔名も大聖真身宝塔に改称。
(7) 法雲寺
開成3年、寺名を改称。
(8) 法門寺
短期間で復す。
(9) 扶風県無産階級造反派臨時総指揮部
文化大革命時に紅衛兵が諸堂や諸像を破壊。時の住職良卿法師は抗議の焼身自殺を図り、他の僧侶らも殺戮される。
(10) 法門寺
復称し、現在に至る。
あと、韓先生の中国語によるレジュメに、
◎ 唐高宗が顕慶4年に会昌寺に改称
◎ 文宗が開成年間に寺の上空に五色の祥雲が出現したので法雲寺に改称
◎ 懿宗年間に重真寺に改称
◎ 明洪武年間に重真寺を崇真寺に改称・・・・・といった記載があるように思われるが、正しく読めているか自信がない。 |
(通訳に関すること)
生意気なことだが、最初に言わせてもらうと今回は通訳の体制にやや問題があったと思う。
プロの方ではないようだ。舘側の紹介によると○○大学博士課程1年で、2、3年の留学体験があり、彫刻の研究を専門としておられるらしい。
この日は、会場でA4用紙にびっしり全文中国語の資料が29ページも配布された。通訳された女性も、時間さえあれば中国語の資料を読解できるのだろう。だから、もし事前にこの資料を読むことができておればずいぶん訳しぶりも違っていたことと思う。でも、きっとそんな準備はできていなかったんだろうな。
「・・・・めいだい・・・・・・。あ、いや、みんだい(明代)・・・」。象徴的に言うなら、こうしたセリフが何度も繰り返された。
韓先生との「いき」も合っていなかった。韓先生はパワーポイントの扱いに慣れていないのか、やたら場面展開が早いのである。自分でしゃべると、とにかくクリックしてしまい、次の場面の画像に移ってしまう。
通訳の女性は、先生の言葉がわからないのか困ったような顔をして黙っている。先生も困ったような顔をして、小声で補足説明をする。すると、女性は「あっ!分かった!」と言わんばかりの明るい顔をするので、私はてっきり訳してくれるのかと期待しながら待つのだが、画像が次の場面に移っているせいなのか、結局訳すほどは分かっていなかったのかは不明だが、女性はそのまま何も言わない。
で、先生も困ったような顔で、次に進む・・・という繰り返しが多かった。
抽選で申し込んで当たったとは言え、参加費は無料。だから、文句の言える筋合いじゃないと言われればそれまで。
また、あの女性の通訳がなければ、余計何がなんだか分からなかったのは事実。おそらく、あの女性も急に奈良博側に頼まれ、ボランティア的にご協力いただいているのだろうから、感謝はしている。
しかし、先生が何を伝えようとしたのかが分からない、正確に伝えられない(私にしても、メモしたものが信じられない)というのは韓先生にとって失礼だと思うし、参加した我々にとっても残念でならない。
1981年、地下から舎利や宝物が発見されました。舎利とは仏陀の骨で、ここにあるのは指の骨です。
20年前に修復が完了しました。
この写真は、1981年8月24日に崩壊した塔の写真です。このとおり、塔の半分が崩れ去っています。
5年後に修復が開始されました。
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(※ 石野注)
1.塔の修復等について
(1) 貞観5年(631)
張亮が塔を修復
(2) 顕慶5年(660)
高宗が法要に併せ、塔を修復
(3) 会昌の廃仏
法門寺も甚大な被害を受けたが懿宗の代に修復
(4) 万暦7年(1579)
当初の木造4層の塔が崩壊したため、明代の神宗が13層煉瓦造りの塔(高さ54m)で再建
※ 韓先生のレジュメでは、隆慶3年(1569)、唐代に建てられた四層の木塔が崩壊。
万暦7年(1679)から楊禹臣や党万良等が修復を開始し、万暦37年(1709)に30年の時を費やして竣工したとある。しかし、1709年て、万暦じゃないよな。
(5) 清 順治年間(1644〜1661)
地震により塔が傾き、亀裂が生じる。
(6) 1981年8月24日
豪雨により塔の側面が崩壊
※ 崩壊した塔の写真は、例えば、HP「耀州窯と法門寺」で。
(7) 1987年1月
塔の修理が開始。同年4月3日、地下宮殿発見。同8日、指舎利が発見される。
(8) 1988年
同年10月、塔の修復竣工。同年11月9日、法門寺博物館開館 |
この写真の石碑には唐中宗李顕、則天武后の子が、髪をおさめたという碑文が刻されています。
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(※ 石野注) Wikipedia「法門寺」の記載によると、則天武后の子が中宗。
中宗の皇后で「武韋の禍」で知られる韋后は、髪をおろして法門寺の塔に施入した、とある。 |
明代の1569年に、塔が倒れたという記録が残っています。
金代の石碑には、「大安二年」、「三級九盤」という記載があります。三級〜とは、塔の大きさを示します。
宋代の石碑には、洪水でも法門寺は流されなかったという霊験が記されています。
この写真で、中央に円形で見えているのが明代の塔の跡です。周りに四角く並んでいるのが唐代の塔の礎石で、唐代の塔の方が54mの明代の塔より大きかったと言われています。 塔の入り口は20段くらいの石段になっています。入り口の門には朱雀のレリーフがあります。
唐の8代にわたる皇帝が法門寺の舎利を供養しました。
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(※ 石野注)
1.唐の歴代皇帝と法門寺
(1) 武徳元年(618)、唐高祖(李淵)が法門寺という名を賜った。
(2) 貞観5年(631)、岐州刺史張徳亮が法門寺塔修復を願い出、唐太宗、これを許す。法門寺の隆盛はこれより始まる。
(3) 唐高宗、初めて法門寺の仏骨(仏舎利)を東都(洛陽)に迎え入れ、法要を行う。
(4) 武則天、第2次の迎奉仏骨法要を行う。長安4年(704)
(5) 唐粛宗、第3次の迎奉仏骨法要を行う。
(6) 唐徳宗、第4次の迎奉仏骨法要を行う。貞元6年(790)
(7) 唐憲宗、第5次の迎奉仏骨法要を行う。元和14年(819)
この際、韓愈が「論仏骨表」を上提し法要に反対したが容れられず、広東省(潮州)に左遷される。
(8) 会昌法難
唐武宗(814〜846)は、会昌2年(842)から大規模な廃仏を行った。
(9) 唐懿宗、第6次(最終)の迎奉仏骨法要を行う。大唐咸通15年(874)
※ 8代の皇帝とは、上記のうち(8)の武宗を除く皇帝をいうのだろうか?
韓先生のレジュメには、「自太宗勅命開示佛指舎利始、高宗、武后、中宗、粛宗、徳宗、憲宗、懿宗、僖宗等八位皇帝毎三十年開啓法門寺地宮〜」という一節もあった。武后を抜いて8人なんだろうか? |
塔の下の地下宮殿からは指舎利のほか、様々な宝物が発見されました。
(以下、スライドにより各種宝物の紹介)
120以上の唐代の金銀器が発見されました。
この写真は衣物帳磚です。
内部は一道五門四室といわれています。
唐皇供仏珍宝が2499件あります。
香域宝地
十大弟子
鋪地金銭
金糸織物 図様
金棺のまわりの布の残片
則天武后のはいていたスカート
秘色磁器が13件
瑠璃器 元々この瑠璃器に舎利が封入されていたという学説があります。
これは宮廷茶具です。
唐代ガラス
イスラム容器
玉
四天王像
銀製箱
錫杖
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(※ 石野注)
次々に宝物の写真が紹介されたが、ほとんど通訳による説明はなかった。
例えば、宮廷茶具というところで、いわゆる薬研(やげん)に似たものの写真が映し出される。
薬研とは例えばこのようなもので、要するに両手で円盤についた棒をスライドさせてゴリゴリすりつぶす道具である。先生もそれを示唆する如く、レーザーポインターを写真上で何度も前後させるのだが、全くそうした説明はなされなかった。
「イスラム容器」というのも、「イスラム様式の箱」といったような意味なのだろうが・・・・。
ここも適宜他のHPなどを参照しつつ、宝物の整理をしておきたい。
1.地下宮殿の構造
(1) 大きさ
長さ 21.4m、面積 31.48u
(2) 構造
道、高台、トンネル、前室、中室、後室
韓先生のレジュメでは「地宮一道五門四室〜地宮為石「石+切」蓋頂窯洞式、主体建制有甬道、前室、中室、後室、秘龕(秘龕即密室)、即一道四室、共設四門」とあった。
2.地下宮殿内の宝物
法要時に皇帝が寄進した宝物と考えられる。
(1) 金銀器 121件
金製の亀、金メッキの香襄、香炉など。
香襄については、こちらの「法門寺」というHPで大きな写真が載っている。
また、以前正倉院に関するシンポジウム聴講記で、香を焚きしめる球形の薫爐で中国のものと日本のものとの違いを紹介した。これは、フック付きの鎖など、まさに中国製の特徴を示している。
また、「亀」や茶道具(薬研)などについては、「唐皇帝からの贈り物 中国法門寺地下宮殿の秘宝展」のポスターなどに掲載されているので、例えばそうした鑑賞記のHPにて。また、新潟県立近代美術館HPや山口県立萩美術館HPや大阪市立東洋陶磁美術館HPでも見ることができる。
さらに、遥かなる西安というHPでも、鎏金迎真身四股十二環銀錫杖や銀鍍金人物禽獣文高脚香入、亀(銀鍍金亀形盒)など非常に詳しく紹介されている。
(2) 秘色青磁 16点
「幻のやきもの」と呼ばれる、いわゆる秘色青磁(ひそくせいじ)。
HP「耀州窯と法門寺」では、秘色青磁が布に包まれて発見された写真が載っている。また、こちらの「法門寺」というHPでは八稜浄水瓶の写真が大きく載っている。
(3) 瑠璃器 17点
(4) 錦、綾、羅、紗などの織物、シルク製品 700点
(5) 珍珠・宝石・玉 400点
(6) 石碑
ア 衣物帳(縦60cm、幅110cm)
宝物と奉納者の名を刻む。17代懿宗、18代僖宗の献納が多く、則天武后の名もある。
イ 真身誌文(縦60cm、幅110cm)
紀元前3世紀、舎利を納める8万4000のストゥーパ(仏塔)を建てたインドのアショカ王の伝承を刻む。
僖宗が営んだ舎利供養を最後として、翌874年1月、地下宮殿が閉じられたことも伝える。
※ 上記(6)については、HP「シルクロード行〜仏教が来た道(7)」参照 |
指舎利関係や密教曼荼羅については、次の機会に。
どうもお疲れ様でした。
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