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中国美術展(30) 講演「旅順博物館所蔵大谷探検隊資料の日中共同研究をめぐって」 聴講記その1

1 概要

 先日地下鉄に乗っている時、車内広告でふと、上海新天地で「大谷探検隊と中国」という龍谷大学前学長の講演があるという記事を見かけた。
 9月16日(土)というと夜はセレッソvsジェフのサッカーの試合を観に行くつもりをしていたが、この講演は午後2時。サッカーは7時(開場5時)なんで、時間的にはハシゴができる。

 上海新天地というのは、大阪のナンバに出来た、中国の書籍、映画やら食料やら雑貨などを売っている店及び中華レストラン、カラオケなどが入ったビルである。言ってみりゃ「ビルの南京町」みたいなもんだろう。確か、以前「さとうしん」さんが何かの集まり(武俠小説ファン関係とか)で行かれたと聞いたことがある。
 また、龍谷大学といえば、大谷探検隊に関しては一番のオーソリティだろうし、これまた、宣和堂さんや師走さんなどと縁があったように思う。

 そんなこんなで 、いっぺん聴きに行ってみるかという気になった。



 正式名称は、「中国文化フォーラム 第31回 日中文化交流のルーツをたずねて 2006.9.16 大谷探検隊と中国 講師:浄土真宗教学伝道センター所長 龍谷大学前学長 上山 大俊」

(※ 石野注 主催者である大阪府日中友好協会のHPには、しっかり大「俊」と書いてあるのだが、当日のレジュメでは大「峻」とある。多分、「峻」が正解だと思う)

(左写真は会場である上海新天地ビルの入り口。
 何ともチャイナやおまへんか。
 柱、金色に塗ったら、もっとチャイナかも)

 これまた、当日配布のレジュメには「旅順博物館所蔵大谷探検隊資料の日中共同研究をめぐって」というタイトルがついていた。

 講演内容は、まさにそのタイトルの通りである。

 なお、上山先生は、講演前に「今日のために初めてパワーポイントというソフトを使ってみたのですが、うまく操作できるか、どうか」とおっしゃっていたのだが、その不安が的中した。
 どうも先生は右クリックが特に苦手のようで、いったんスライドを表示して、「行き過ぎた。戻ろう」とがんばればがんばるほど、どんどん先に進んでしまわれるのである。

 で、いったんあきらめかけて「・・・・・もう、ここの所を話しましょうか」とだいぶ先の所から話し始めたり、「まあ、お話だけして、後で○○さんに来てもらって、写真はまとめて見ていただきましょう」と話を戻すのだが、あきらめきれずに、また、クリックされる。すると、スライドはさらに先に進んでしまう

 どうも先生は、最初にノートパソコンとプロジェクターの接続等をしてくれた、事務局の○○さんを頼りにしていたらしく、操作に困った時も必死で「○○さんを呼んできてください」と別の人に頼んでおられたが、拍子の悪いことに○○さんはどこかに出かけてしまったのか、最後まで姿を現さなかったのだ。
 
 そんなこんなで、意に反してスライドがどんどん進んでしまううちに、結局、最後まで行ってしまって、「スライドショーの終了」という表示が出た。
 時間的には終盤近くなっていたのだが、写真は、そこから最初に戻って、ようやく先生が見せたかった序盤の写真が出てきたのであった。

 ということで、お話はけっこう前後したので、適当に編集させていただく。なお、「 I 旅順について」などの見出しは石野が、勝手につけさせていただいたものである。

 


 I 旅順及び旅順博物館について

 旅順というのは、昔でいう満州の一部分ですが、実に立派な博物館があります。この博物館に大谷探検隊の収集品が保管されているということを耳にしました。

 この旅順は、大谷光瑞師が非常に気に入った場所でして、別邸もありました。
 大谷光瑞師はトルファンから持ち帰り、神戸のニ楽荘に保管していたミイラ9体をわざわざこちらへ持ち込んでいました。中国で出土したミイラを保管するには、やはり中国の気候の方が適しているとも考えたようです。
 このほか、大谷探検隊が持ち帰ったインドの石仏や、敦煌で吉川小一郎が収集した経巻600巻、これはすごい数ですが、これもこちらにあったようです。

 そうした遺品がどうやら敗戦のどさくさで、旅順博物館に移管されたようです。この博物館は何度も管理者が変わったり、名称が変わったりしているのですが、よく散逸せずに保存してくれていたものと思います。
  なお、吉川収集の経巻は、現在では旅順博物館で所蔵されている6巻を除いては北京図書館に移管されたようです。

(※ 石野注)
 旅順博物館の写真は、「大谷光瑞の業績・第三章」というHPに掲載されている。このHPには、管理人ご自身のものではないのだが、大谷探検隊などに関する論文が転載されているので、参考にされるとよいと思う。

 また、先生が配布された資料によると、旅順博物館の沿革として、
(1) 1915年 関東都督府満蒙物産陳列所
(2) 1919年 関東庁博物館(後にソビエトに統治される)
(3) 1934年 旅順博物館
(4) 1945年 東方文化博物館(ソ連管理)
(5) 1951年 中国が管轄する
(6) 1952年 旅順歴史博物館
(7) 1954年 現行の「旅順博物館」、とあった。


 大谷光瑞師のニ楽荘の画像についてはHP「ニ楽荘と大谷探検隊展」にて。

 『西域 探検の世紀』(著:金子民雄。岩波新書)によると、「光瑞は〜1908(明治41)年、兵庫県六甲山の山麓から中腹にかけてニ楽荘と呼ばれる豪華な別荘を建て〜西域出土品などを陳列していた。
〜法主の地位を去った光瑞は〜1915年、インド、ヒマラヤ地方の旅のあと、旅順を住まいとすることを決心し、家屋を入手してここに住んだ。そして翌1916年〜ニ楽荘に展示してあった出土品を処分することになった。〜処分の業務をまかされたのが橘瑞超〜売却先は〜久原鉱山株式会社経営者久原房之助だった。
 久原はのちにこれを朝鮮総督府博物館に寄付した。現在、西本願寺大谷隊将来の西域出土品がソウルにあるのはこのためである。〜このあたりから、大谷隊の西域出土品の散逸と流転の歴史が始まる。以後、民間に流出したものも多く、現在なおこの文物の正確な全貌は知るすべがない」とある。

 旅順にはご存知のように軍港がありました。今でもあります。
 日露戦争の時、なぜ乃木将軍が203高地にこだわったか、というと203高地は旅順港を見下ろせる位置にあるのです。
 旅順港のロシアの軍艦がバルチック艦隊と合流したら大変なので、最初は、港内に障害物を沈めて航行できなくしようとしたんですが、この作戦が失敗した。それで、次に203高地を制圧して、そこから砲撃しようということになったんです。
 203高地では、1回の攻撃で日本軍が2万人死にました。ロシア人は、なぜむざむざ殺されに来るのか、非常に気味悪がったそうです。

(※ 石野注)
 『満州帝国』(編著:太平洋戦争研究会。河出文庫)によると、「当時の大本営の作戦では旅順攻略が先決とされていた。すでに日本政府にはバルチック艦隊がウラジオストクに派遣されるという情報が入っていた。このバルチック艦隊が旅順の太平洋艦隊に合流するような事態になった場合、日本海の制海権は危うくなる。そのためにはバルチック艦隊が来航する前に、いっときも早く旅順港のロシア艦隊を壊滅させなければならない。そこで海上からの攻撃をあきらめ、陸上から旅順港のロシア艦隊を攻撃して壊滅させようという戦術に切り替えたのだ。
乃木希典大将〜による旅順攻略戦は〜屍の山を築き続けた。参加兵力五万余名のうち死傷一万五千余を数え〜た。
 〜参謀長の星野金吾大佐から「〜旅順市街の背後にある203高地は港内砲撃の観測に最適地だ。まずこの高地を攻略してはどうか」という提案が出された。
 〜結果は凄惨な地獄絵図を現出しただけだった」とある。



 そういう軍事上の要地ですので、外国人は通常入れないのです。しかし、何とか所蔵品を見せてくれないか、とお願いしました。すると、入れてやる訳にはいかないが、と言うことで、私が泊まっている大連のホテルまで旅順博物館の研究員が資料を持って来てくれました。後で写真をお見せしますが、そこで見せてもらったのが藍冊といって、トルファン仏教遺跡資料の断片をきれいに整理したもので、全部で50冊以上もあると聞きました。
 これはすごい。「今さら、この文物を返せとは言いません。しかし、せめて共同研究させてくれませんか」、とお願いしたのです。





 II 敦煌とトルファンについて

 

 さて、敦煌はここ、トルファンはここです。

(※ 石野注)
 ここでやおら上山先生は、プロジェクターが投影されたホワイトボード上の地図を直接手で指された。上山先生の体にプロジェクターの映像が投影され、体に「トルファン」なんて文字が映る。
 レーザーポインターは、それがなければ、せめて指し棒でも用意されてないのか?

 シルクロードの地図は例えばAraChina(中国旅行サイト)のシルクロード地図で。トルファンは吐魯番。



 敦煌とトルファンは、およそ600から700kmほど離れています。トルファンは、玄奘三蔵が立ち寄った高昌国のことなんですね。
 遺物の特徴を申し上げますと、敦煌の遺物は、建物の中に入っていたものなので、きれいなんです。その点、トルファンは出土したものなので、はっきり言ってボロボロなんですね。
 私は、もともと敦煌文書の研究家です。その立場からすると、トルファンの遺物はどう研究すればいいのか、よくわかりませんでした。細かすぎて、読めませんから。

 ところで、トルファンの古跡というと高昌故城と交河故城です。


 交河故城は、規模でいくと高昌故城より小さいのですが、どうです。すごいでしょう?上から見た形はちょうど軍艦のようですね。
 いわば、岩から都市をまるまる彫り出したのですから、大したものです。

(※ 石野注)
 早稲田大学シルクロード調査隊HPで高昌故城交河故城が紹介されている。トップページにはわかりやすい地図あり。 

 




 III 諸外国及び大谷探検隊の手法について

 
大谷探検隊は、大別すると三期に分かれます。

 中心となったのが橘瑞超という人物です。この通り、探険家とは思えないような優しい姿ですが大谷光瑞師がなぜ彼を抜擢したかと言うと「橘はこのように可愛らしい顔をしているから、外国でもいじめられずに済むんだ」と語ったそうです。

(※ 石野注)
 『大谷探検隊の概要と業績』(著:大谷光瑞。白水社)及び『西域 探検の世紀』(著:金子民雄。岩波新書)によると
(1) 第一次探検隊 大谷光瑞渡辺哲信堀賢雄本多恵隆井上弘円
 明治35年(1902)8月15日(※ 大谷著は15日。その他の資料では16日) ロンドンを出発→同年9月バクー(カスピ海沿岸)→サマルカンド→9月21日カシュガル→ヤルカンド→10月タシュカルガン

(1)−a インド隊 5人のうち大谷・本多・井上 明治35年(1902)タシュカルガン→フンザ→10月27日ギルギット→11月9日スリナガル→カシミール→インド各地聖跡→帰国

(1)−b 西域隊 5人のうち渡辺・堀 タシュカルガン→10月23日ヤルカンド→同年11月22日(※ 『西域』では21日)コータン→明治36年(1903)2月20日カシュガル→4月(5月?)23日クチャ→8月11日コルラ→トルファン→9月17日ウルムチ→10月18日ハミ→11月12日安西→明治37年(1904)2月29日西安府→5月帰国

(2) 第二次探検隊 橘瑞超野村栄三郎 明治41年(1908)6月16日北京を出発→ウランバートル→10月26日ウルムチ→11月15日トルファン(カラ・ホージョ、ヤールホト)→明治42年(1909)1月15日カラシャール→コルラ

(2)−a 野村 明治42年(1909)コルラ→クチャ→カシュガル

(2)−b 橘 明治42年(1909)コルラ→3月8日ロプ砂漠→楼蘭→4月24日チェルチェン→ニヤ→5月コータン→サマルカンド→7月7日カシュガル

(2)−c 橘・野村 カシュガル→9月1日ヤルカンド→10月スリナガル→カシミール

(3) 第三次探検隊 橘瑞超吉川小一郎

(3)−a 橘 明治43年(1910)8月16日ロンドンを出発→10月19日ウルムチ→トルファン→ロプ砂漠縦断(南下)→明治44年(1911)アブダル→チェルクリク→チェルチェン→タクラマカン砂漠縦断(北上)→チャディール→クチャ→カシュガル→ヤルカンド→5月コータン→チベット高原→明治44年(1911)10月中旬ケリヤ→チェルチェン→チェルクリク→12月24日敦煌

(3)−b 吉川 上海(橘の安否確認)→明治44年(1912)10月5日敦煌→明治45年(1913)1月合流

(3)−c 橘・吉川 明治45年(1913)2月6日敦煌→安西→ハミ→トルファン→4月10日ウルムチ

(3)−d 橘 ウルムチ→シベリア鉄道→帰国

(3)−e 吉川 明治45年(1913)5月5日ウルムチを出発→8月31日トルファン→カラシャール→大正2年(1914)3月5日クチャ→7月6日カシュガル→ヤルカンド→8月14日コータン→10月13日イリ→11月20日ウルムチ→大正3年(1914)トルファン→ハミ→2月敦煌→ゴビ砂漠→5月10日張家口→北京→帰国

 橘瑞超及びヘディンスタインの顔写真は岩波書店のHP『西域 探検の世紀』で。

 『西域 探検の世紀』では、関露香という毎日新聞記者が初めて瑞超と会った時の感想を「身長わずか五尺ニ寸(157.5cm)、全体から受ける印象はまるで十八、九の妙麗な処女のような姿だった」としている。

 また、瑞超自身も『中亜探検』(著:橘瑞超。白水社)で「わたしはご存知のとおり、痩身短躯なので、外国人なんかはまるで十二、三の子供のようにしか思わない」としている。




 諸外国の探検家で有名なのがスェーデンのヘディンです。彼は地理学者です。

 スタインはイギリスの出身です。敦煌文書を発見したのはスタインです。

 ペリオはフランス人です。彼は敦煌文書でも奥書等のある良質な古文書ばかりを選んで持ち帰りました。

 プロシア出身なのがグリュンヴェーデルル・コックです。彼らは言語学者でした。ル・コックは敦煌へは行っていません。
 トルファンの遺品を持ち帰ったのは主に大谷隊とプロシア隊なので、彼らがライバルと言えます。特にル・コックなどはことごとく壁画を剥がして故国に持ち帰りました。

 後に大谷探検隊は「どこに行っても、行っても、バルトゥスが先に盗っている」という感想を残しています。

(※ 石野注)

 ポール・ペリオは中国語に堪能だったので良質な古文書を選んで持ち帰ったようである。その点、スタインは中国語を知らなかったので持ち帰った文書は玉石混交だったらしい。

 グリュンヴェーデルという人物の名を私は知らなかった。あらためてル・コックの『中央アジア秘宝発掘記』(中公文庫)を読むと、「グリュンウェーデルの著書、『インドの仏教美術』は基本的な重要著作である」とした箇所ほか、何度も出てくるのだが全然覚えていなかったのである。

 また、上山先生はバルトゥスについて説明をされなかったので、一体誰なんだろうと思っていたのだが、『中央アジア〜』に「ドイツ遠征隊だけが、壁画を切り取り、途中破損せずにベルリンに到着するようにうまく荷造りをするという、むずかしい仕事をやりとげる方法に熟練している一人物、バルトゥスを伴っていた」とあるので、彼のことだと思う。

  


 大谷探検隊が残した藍冊の中はこうなっています。ほんと、小指の先くらいの小さな経巻の切れ端でも全部番号をつけてアルバムに貼ってあるのです。
 これが実にすごいのです。つまり、大谷探検隊は「読む」だけじゃなく、既に「考古学的資料」、つまり「もの」という観点を持っていたんですね。

 江上波夫さんが、旅順で大谷光瑞師と会ったことがあるそうで、その時の話を聞いたことがあります。
「大谷さんは、すごい。とにかく、何でも持って帰るんだ」と、感心しておられました。

 価値観を入れないんですね。普通は、どうしても、「こんなものは役に立たないだろう」なんて「判断」してしまうんです。しかし、大谷探検隊は、例えば古い墓を見つけたらミイラだけじゃなくて、棺の中に敷いてあるアンペラまで持ち帰る。葬式饅頭も持ち帰るんです。

 これが大事なんですね。考古学の資料というのは、何がどう役立つかわからないんです。どんな断片も持ち帰り、整理していた。そこが、後々大きな意味を持ってくるのです。


(※ 石野注)
 江上波夫氏は、騎馬民族征服王朝説で有名な歴史学者である。探したら家に『騎馬民族国家』(中公新書)という氏の著書があったが、まだ読んでいない。

 また、アンペラとは編み方の粗い”むしろ”で、よく落語などで出てくる。


 少し長くなったので、この辺でいったん切る。 

 それでは、皆さん、お疲れ様でした。

 

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