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中国美術展(21) 「中国の歴史都市と景観保全」聴講記
1 概要 大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」8階展示室で「中国の歴史都市 〜住まいとくらしの写真展〜」が平成17年4月23日から5月29日まで開催されている。
そこでは写真家京極寛氏が撮影された北京、西安、上海など大都市の写真、また、雲南省麗江古城、安徽省黄山市、江南の水郷都市などの写真が展示されている。
この展示にあわせて開催された大西國太郎氏(京都造形芸術大学客員教授)の特別講演会「中国の歴史都市と景観保全」を聴きに行ったので、内容をご紹介したい。
レジュメの内容は、わく囲みで表す。
はじめに、参考となる中国の特徴、全般的傾向などについてお話します。
中国では古来、南北それぞれの特徴を総称して「南船北馬」などと言われています。
(陝西省乾県)
黄土を切り立てた壁面にアーチ形の入り口が並ぶ。 |
北方の乾燥地帯、たとえば陝西省の西安近郊などでは、乾燥した黄土を掘削してつくる窰洞(ヤオトン)と呼ばれる横穴式住居がみられます。
一方、南方の水郷地帯、蘇州などでは水と緑に恵まれ、日本人には馴染みのある風景が広がります。
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食べるものも、北方は麦、麺や饅頭を主食としていますが、南方は米を食べます。
また、中国社会では、概ね職住近接で、昼食は自宅に帰って食べます。
ですから、交通ラッシュも、朝夕通勤時の2回だけでなく、昼前、昼過ぎと1日4回あることになります。
また、「単位」社会といって、職場などの単位で地域のことを決めていったりします。
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(ルー直)
蘇州の東34kmにある水郷古鎮 |
大きな規模の単位であれば、そこで教育施設などを設けていることは普通ですし、現在はどうかわかりませんが、警察的な組織も持っている「単位」もありました。
(北京 東城区) |
例えば北京に清華大学という非常に有名な大学がありますが、ここでは、大学の関係者のための小学校や中学校などがあります。
ですから、清華大学の教員の子として生まれて、大学内の小学校や中学校に入り、そして清華大学に合格して、その後卒業して大学教員になったりする人などは、極端な話、生まれてから一度もキャンパスの外へ出ないといったケースも考えられるのです。 |
土地は国有ですが、土地の利用権や建物の所有権は認められており、売買も可となっております。
1.中国の歴史都市の特徴 日本との比較から
(1) シンメトリーな城郭都市
(2) 四合院住宅と町家
(3) 歴史的文化遺産の分布 |
(1) シンメトリーな城郭都市
京都の平安京と唐代の長安を比較しますと、面積としては長安は平安京の約3倍あります。
長安は、唐末に、約10分の1に縮小されました。
その後、明代になって、縦横それぞれ1.5倍くらいに拡張されました。
現在の西安は、明代の頃の城壁が残っています。
<石野 注↓>
『長安』(著:佐藤武敏。講談社学術文庫)によると、
「唐末、朱全忠によって長安城内の主な建築はほとんど破壊された。間もなく天佑元年(904)、佑国軍節度使の韓建が新城を築いたが、しかしそれは宮城や外郭城を去り、皇城を中心に築いた小規模なものにすぎなかった」。 |
(西安)
並木通りの両側には、「門房」という道路沿いの棟が並ぶ。
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(明代の)「洪武(1368〜98)のはじめ、都督の濮英(ぼくえい)が長安城を増修している。『陝西通史』によると、その規模は、周囲が四十里、高さが三丈〜。
これが今日も残る城垣の規模である」。
<注 ここまで↑>
(西安 大有巷) |
長安の都は、正確に南北に走る朱雀大路を中心に、きれいな左右対称形をしています。
ところが、京都は、平安京当時、西側は湿潤で居住に適していなかったため、東半分だけ、つまり左京のみで機能していました。 |
また、平安京には城壁というものがありませんが、長安は、厚み30cm近い磚(せん)の城壁に囲まれ、内壁を合わせると1m近い厚さとなります。
<石野 注→>たしか講演ではそうおっしゃったと思うのだが、一方で、「西安の城壁は上部でも10数メートルの厚みがあって車がすれ違うことができる」ともおしゃっていた。<←ここまで>
(2) 四合院住宅と町家
四合院というのは、中庭を囲んで四面に建物があります。
その中庭を院子と言います。
この院子というのが、住宅としての採光や緑の面で非常に重要なのですが、近代になって都市に人口が集中するようになると、それまで1世帯だけで住んでいた四合院住宅に何家族も住むようになりました。
すると、院子の部分に各家庭が増築するようになって、居住環境は悪くなっていきました。
一方、京都などの町家では通り庭といって、やはり中庭的なスペースがありました。
<石野 注↓>
この講演が開催された「暮らしの今昔館」では、江戸時代の大坂の町家での通り庭や天窓が再現されている。
写真はここで。
<注 ここまで↑> |
(安徽省黄山市屯渓老街)
日本の「うだつ」のような馬頭牆が、店の間を区切っている。 |
(3) 歴史的文化遺産の分布
(安徽省黄山市黟県西遞村)
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京都をはじめとする日本の古都では、各時代の歴史的遺産が数多く残っているのが特徴です。
<石野 注→>奈良の法隆寺などは607年建立とのことだから、1400年の歴史をもつ世界最古の木造建築といわれている。<←ここまで>
その点、中国では新しい王朝が興ると、倒した旧王朝の城市を潰して新たに建築することが多かったので、最近の清王朝の建造物等は比較的残っているが、古い時代の建物はなくなっていることが多いのです。
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そうした王朝交代の際の破壊に加えて、日中戦争、そしてそれに引き続く国共内戦も歴史遺産の崩壊に拍車をかけました。
それをカバーする存在が歴代王朝の陵墓といえるでしょう。
西安郊外にも、そうした陵墓が広大な範囲に拡がっています。
<石野 注↓>
ずっと以前に買った『週刊 中国悠遊紀行 9 黄山』(小学館)
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(安徽省黄山市黟県宏村)
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を何となく手に取り読み返してみた。
(安徽省黄山市黟県宏村) |
思いもよらず、「周辺の文化旧跡」というページで「徽派建築」のことなどが紹介されていた。
中でも西逓村(会場では確か西「遞」村と書かれていたと思ったのだが、見誤りか?)と宏村は世界遺産にも登録されているそうである。
また、会場では解説がなかったのでわからなかったのだが、上の写真で建物が面している湖は、風水師の言に従って明代に開削された月沼。
同じく左の写真は、どうやら清代の塩商人汪定貴が1855年頃に建てた広壮な邸宅「承志堂」のようである。
<注 ここまで ↑> |
2.新中国の都市建設と景観保全
(1) 近代化の時期と速度
(2) 解放後の各段階の開発と景観保全
(3) 「歴史文化名城」の制度 |
(1) 近代化の時期と速度
都市の本格的近代化が始まった時期というと、中国では第二次世界大戦後、日本においては明治維新後ということになります。
共通する時期をとって、戦後の1945年から京都市と西安市区で人口と面積を比較してみます。
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(上海 虹口)
虹口は日本人租界があった地域
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なお、西安は中心部の区のほか県も付随しているので、西安市区とは都心部、中心部と考えてください。
(上海 虹口)
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1945年から85年にかけて、京都市は人口が117万人から148万人と約1.3倍に、また市街地の面積は約2倍になっています。
同じ時期に西安市区は、人口が40万人から230万人と約6倍、市街地面積についても約6倍と急増しています。 |
中国で最近になって急速に拡大、発展した都市というと上海がすぐ連想されますが、西安も相当なペースで開発が進んでいることがわかります。
(上海 淮海中路)
私(石野)が以前泊まった花園飯店は淮海中路にある地下鉄1号線陝西南路駅の少し北に位置する。
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(上海 歩高里)
歩高里はフランス租界のあった地域。歩高とはブルゴーニュのこと。弄堂(横丁)の門の所にフランス語が書かれている。
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(2) 解放後の各段階の開発と景観保全
もちろん、中国の各都市は戦後まったく平均したペースで開発されてきたのではありません。
日中戦争、それに引き続く国共内戦、国土が荒廃した中で人口が都市に集中していく。
そうした時期はともかく都市基盤整備が第一となりました。 |
(雲南省麗江古城) |
中国の経済も、解放後何回かの停滞期がありました。
(雲南省麗江古城)
町並みを歩く納西(ナシ)族の老女 |
毛沢東が大躍進政策を掲げましたが、折からの凶作もあって餓死者すら出た時期もありました。
また文化大革命の10年間も経済は停滞しました。
そうした時期はとりわけ景観保全に取り組む余裕はなかったのです。
(3) 「歴史文化名城」の制度
1982年、86年、94年の3次にわたって制定されたのが「歴史文化名城」という制度で、中国全土で歴史的文化的に価値のある都市を指定しようとするもので、現在、全部で99都市が指定されています。
ただ、具体的な景観保全の取組みの推進はそれぞれの都市に任されているため、指定された都市の中でも、景観保全に取り組む姿勢にはかなりばらつきがあるのが現状です。 |
<石野 注 ↓>
かなり前に『雲南の水都 麗江』(管洋志)という写真集を買っていたので、手に取ってみた。そこで作者が「世界中で、こんなに瓦屋根が密集したところはないだろう」と書いているのが、まさに上掲麗江写真1枚目の光景なのだろう。
また、この上の写真で、納西族の民族衣装を着た老女が写っている。
この写真は前からなのでわからないが、おそらく後ろを向いてもらったら、背中のところに羊の皮でできた丸い背守りが七つ付いていることであろう。
それは北斗七星を意味し、納西族女性の象徴なんだそうである。 |
(雲南省大理) |
また、地震のことは会場でも少し書かれていたが、1996年に麗江をマグニチュード7の地震が襲ったそうだ。
管氏は98年に麗江を訪れた時、「二年前の地震のつめ跡はなにひとつ見えない」ことに驚く。
「震災直後に、中国政府は〜鉄筋のビルを建てる計画を進めようとしたが〜麗江の行政委員たちは、『この時こそ建物を昔に戻し、納西族の都再建に踏み出したい』と、あっという間に傾壊した家の建て直しを始め」、宋時代の伝統的な木造建築が並ぶ町並みを復活させたそうである。
<注 ここまで ↑>
3.各地の景観保全の状況と問題点
(1) 西安市の場合 日中共同研究と課題
(2) 南京市の場合
(3) 蘇州市の場合 |
(1) 西安市の場合 日中共同研究の課題
私(大西教授)は、西安市の景観保全に関する共同研究に携わってきたのですが、いくつか問題点がありました。
よく西安では「殻は残ったが、黄身は細り、白身はなくなった」と言われます。
どういう意味かと言うと、西安市を卵で例えるならば、殻にあたる一番外側の城壁は、何とか残っている。
しかし、城市の中心部に鐘楼があるのですが、その周りの歴史遺産は相当取り壊されてしまったし、ましてや周辺部のそれらはほとんどなくなってしまった・・・・・というような意味であります。
ところが、単純に古い建築物を残せば良いというものではありません。 |
(蘇州) |
冒頭で申し上げたように、四合院が共同住宅化し、各家庭に炊事場やトイレが充分整備されていない。居住スペースを広げようと、中庭部分の院子に増築するため採光面等でも問題が出てきています。
四合院を残して住環境を改善するのは難しいのです。
(朱家角)
上海郊外の水郷古鎮 |
高度制限の問題もあります。
中心部の鐘楼の高さが22mです。
ですから建築物の高さの上限はできるだけ抑えたいのですが、現行の規定では、城壁からわずか120m離れたら鐘楼と同じ高さの22mまで認められています。
また、最近ではいくつかエリアを決めて、そこでは、この22m制限すら外して45mまで認めるようになりました。 |
私は市長になぜそんなことをしたのか聞いたのですが「西安の新しいランドマークをつくりたいんだ」とのことでした。
私たちは、西南部全域において門房(道路沿いの棟)群はすべて保存する。
状態のいい四合院は保存し、四合院形式の新住宅も建設するということなどを提案しました。
しかし、これはあくまで西安市街の開発プロジェクトの中での提案という形になりました。というのは、西安では都市開発の制度はあっても、景観保全に関する制度はないからです。
(2) 南京市の場合
南京市は、東呉、東晋、六朝、南唐、明、太平天国、中華民国など450年の長きにわたって各王朝等の首都となった歴史的な都市です。 |
(周庄)
上海市と江蘇省の間にある水郷古鎮 |
人口は約500万人。中心部の市区の人口だけでも270万人の大都市です。
(周庄)
周荘の簡体字版が周庄。私(石野)の旅行記はここ。 |
城壁の長さは21km。西安の城壁が16kmですから、それよりはるかに長いのです。
地形としては長江と鐘山を控え、景観保護区も多く、景観保全に力を入れている都市といえます。
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(3) 蘇州市の場合
蘇州市は景観保全に関しては優等生と言っていいと思います。
碑刻拓本ですが、「宋平江図」という古地図が残っています。これを見てもらっても、当時の町並みがかなり保存されていることがわかります。
現在でも、住宅や工業の「新区」は郊外に新設し、「古城」はできるだけ残すようにしています。 |
(烏鎮)
浙江省の北部に位置する水郷古鎮。黒っぽい町並みが「烏」鎮という地名のいわれ |
蘇州市の人口は市区部で約100万人。皆さんも訪れたことがおありかもしれませんが、拙政園をはじめとする四大名園ほか国家級の歴史遺産が多く残っています。
残された課題としては水質汚濁の問題だと思います。
下水道の整備等が進んで、水が美しくなれば東洋のベニスとしての価値が高まると思います。
時間も超過しておりますので、少しだけ。
まず、高度制限の問題があげられます。
当然、中国でも市長は選挙で選ばれます。
市長はやはり開発プロジェクトをぶち上げるものなのです。
目をみはるような高いビルを次々に建てる方が一般受けします。
次に「一条倣古街」の蔓延を制御することが必要だと思います。
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(西塘)
江蘇省、浙江省、上海市の交わったところに位置する小さな水郷古鎮 |
一条倣古街とは、一定の街区まるごと、古い時代に似せて建て直すことです。
中国における一条倣古街のハシリは北京の瑠璃廠(ルリチャン)といわれています。
日本では彦根キャッスルロードという例があります。これは伝統様式による再建なのでよいのですが、中国では過去の建築物をRCコンクリート造りなどで安易に建てることが多いのです。
ですから、じっくり見ると建築物の形も、単純化されがちで、微妙な変化があった町並みが平板なものになったりします。また、表通りはまだしも、少し裏通りに入ると極端に手を抜いたものになったりします。
中国では、瑠璃廠の成功例から、観光資源として一条倣古街が流行の傾向があるので注意が必要でしょう。
それでは、皆さんもお疲れ様でした。
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