移動メニューにジャンプ


中国美術展(13)文化講演会「内藤湖南 〜人と学問〜」聴講記Part2

1 概要

 平成17年の礪波護教授による「内藤湖南 〜人と学問〜」という講演会受講録の続きです。


2 講演受講録

(先生のお話。覚えてるまま・・・・・の続き)

 明治39年、京都帝国大学に文科大学が開設されました。その時湖南は41歳。狩野亨吉に請われ、京大教授就任を承諾するのですが、東大を卒業していない湖南を教授にすることはできないということになりました。同じように西田幾多郎も四高(金沢)中退であるため教授になるのに苦労しています。
 翌年京都帝国大学に史学科が開設され、結局湖南は講師として着任します。
 湖南を招請しながら教授にできなかった狩野は、嫌気がさして退職してしまいますが、弟子の安倍能成らが生活の面倒をみて、後は骨董屋のようなことで暮らしていったようです。

 42歳の頃、父十湾編著、湖南校閲の『鹿角志』が刊行されます。父十湾のライフワークであった本書の中には「息子の虎がこう言った」というような表現がみられます。(石野注 これも、父子の心が通い合っていた一つの証左だと思う)
 地方史を大事にする。これが湖南のバックボーンですが、こうした姿勢は父に学んだものと思われます。

 湖南自身のライフワークは学術史といっていいでしょう。中国の美術史も専門でした。
 唐代の杜佑『通典』胡適(こてき。又は、こせき。民国期を代表する思想家)の研究も有名です。また、清朝期の歴史学者章学誠の名前が日本で知られるようになったのは湖南の功績と言えるでしょう。

 44歳の頃、ペリオ敦煌文書を購入した旨を知ります。日本で敦煌文書のことを取り上げたのも湖南の功績と言えるでしょう。
 また、京大で2年間講師を務めた実績があるという名目で、この年に教授となります。

 45歳の頃、「卑弥呼考」を発表します。邪馬台国大和説を提唱したのも湖南です。
 また、この年、京大総長の推薦に基づき、文学博士の学位を受けます。
 井上裕正氏が平凡社東洋文庫で「内藤湖南『清朝史通論』解説」(・・・と現物を提示)という本を出し、その中で「湖南の学位論文は・・・」と書いていますが、実は湖南の博士論文というものはありません。 
 当時、東京と京都の帝大教授を1年すると、論文がなくても博士になれる慣習がありました。
 湖南は新聞記者からの転身で、そうした学会や官界の慣習には詳しくありませんから、自分では博士論文を書かねばならないと考えていたようです。 

 翌1911年に辛亥革命がおこり、清朝が滅びました。
  57歳の頃、「概括的唐宋時代観」を発表し、中国を古代、中世、近世と時代区分し、中国の近世は宋から始まると提唱しました。
 さらに翌年「応仁の乱に就て」を発表し、日本の近世は応仁の乱に始まると提唱しました。

 1926年8月、61歳の湖南は京大教授を依願退官します。60歳を超えてなぜ定年退職ではないか、というと、当時定年制はなかったからです。しかし、東大では高齢の教授がいつまでも居座り、引退を勧告しても開き直るケースがあったため、京大では60歳を超えたら自主的に後進に道を譲るようお互いに申し合わせていたのです。
 湖南の退官記念論文集は『支那学論叢』といいます。桑原の退官論文集は、支那学ではなく、『東洋史論叢』というタイトルでした。
 私の師匠の宮崎市定には退官論文集はありません。もしあれば、支那学ではなく、東洋史としていたでしょう。ひょっとするとアジア史としていたかもしれませんね。

 62歳で、京都府の恭仁山荘に隠棲します。湖南が南山城のその地を選んだのは、山荘から見える眺めが故郷の景色に似ていたからだったそうです。

 湖南は満州に対しては深い思い入れがあったようです。後には、満州における軍部独走を憂いています。
 昭和8年、68歳の頃、日満文化協会設立のため、病躯をおして満州国に赴き、溥儀鄭孝胥羅振玉らと会見します。
 翌年、鄭は来日し、恭仁山荘を訪ねますが、その頃湖南は既に胃癌の末期でした。その年の6月に没し、京都鹿ケ谷法然院の墓地に埋葬されます。
 私は、ある本に「遺骨を埋葬〜」と書きましたが、実は土葬だったので、後に「遺体を埋葬」と修正しました。故郷の鹿角毛馬内の仁叟寺には遺髪が収められています。

 それでは時間も参っておりますので、湖南に関する内外の研究について少し触れまして、終わりにしたいと思います。
 湖南が集めた漢籍などは、関西大学が内藤文庫として研究しています。ところが、京大人文科学研究所も内藤文庫を持っています。とりわけ満州関係は先に人文研が抜いてしまい、残りを関西大学が持っていることになります。

 次に海外の研究者ですが、銭婉約氏の『内藤湖南研究』という本は、J.A.フォーゲル氏の『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』と同じく博士論文をまとめたものです。非常に詳しく調べてあります。お二人とも、京大の人文科学研究所に留学されておられますので、その時にいろいろ調査されたようです。しかし、両著とも、武内義雄が京大教授と書かれてあります。これも、竹田氏の初版本のせいかもしれません。

 それでは、どうもご清聴ありがとうございました。(盛大な拍手)



 司会者より「既に予定された時間が経過しておりますが、折角の機会ですので、会場からご質問があればお受けします」とあった。

<質問1> 現在、大阪市立美術館で開催されている展示会の説明の中で、財界人が骨董を集める際に、内藤先生がいろいろアドバイスしたという一節がありました。
 書籍のコレクションについてはいろいろ調査されているとのことでしたが内藤先生は陶磁器など骨董についてもコレクションしていたのでしょうか?

<解答1> おっしゃっているのは、例えば阿部コレクションなどを指しておられると思います。
 確かに湖南は、住友家などにもいろいろアドバイスをしていました。それは、貴重な文物が海外に流出してしまわないように、という強い気持ちがあってのことと思われます。
 湖南は、よく箱書きなども書いており、その真偽について取り沙汰されることもあります。ただ、よく読むと、湖南はうまいこと書いているんですよね。
「六朝の遺風をよく伝えている」と書いていたりしますが、これはあくまで六朝「風」であって、はっきり言えば「偽物」だということなのです。
 湖南は自分自身では骨董そのものを蒐集することはほとんどありませんでしたが、流出を防ぐために蒐集を積極的に薦めていたと言えます。


<質問2> 礪波先生のご出身は?珍しい名字ですが、富山県礪波郡のご出身ですか?

<解答2> 私自身の生まれは東大阪市ですが、うちは僧侶の家でして、やはり昔は富山県礪波郡の出身だったようです。


<質問3> 恭仁山荘は、今どうなっているのでしょうか?

<解答3> 先ほども言いましたように、私が新入生で歓迎会に使わせていただいた頃は、まだ家族の方がいらっしゃいましたが、20年ほど前に関西大学の所有になったと聞いております。

(なお、恭仁山荘の画像はここ。)


 実を言うと、上の質問1は私がしたもの。
 講演会場には1時10分くらいに到着したのだが、最前列が空いていた。先生とは1mも離れていない席で聴くことができたのだ。

 講演が終わってから、先生におずおずと近付き、先生の著作である『馮道 乱世の宰相』(中公文庫)を出して、ご署名をお願いした。
 長いこと読み込んだため、そこら中、ページ角を折ったり、付箋や書き込みだらけである。
 それにサイン会ではないのだから、「我も我も」となると収拾がつかなくなるおそれもある。失礼だしご迷惑でもあろう。

ご署名   先生が一瞬ためらわれたので「いやあ、それは・・・」と断られるかな?と思ったのだが、先生は「いいですよ」とにっこりして、(私は、講演のメモをしていたボールペンしか持っていなかったのだが)内ポケットから筆ペンを出してご署名をしていただいた。

 会場を出て、嫁さんに電話をした。講演会が早く終わったら、私が末っ子の塾の迎えに行くことになっていたのだ。
 嫁さんが「それで、サインはもらえたん?」と聞いた時「おお!」と答えた私の声がよほど弾んでいたのか、嫁さんが「めっちゃ嬉しそうやな!」と言った。

 中之島図書館からJR北新地駅まで御堂筋を歩いたのだが、顔がにやけそうだし、自分で自分を抑えてないとスキップでもしてしまいそうだった。
 すれ違った通行人の皆様は、さぞ気味悪かったことと思う。


 『こち亀』142巻で、時代劇ファンで特に城を愛好する大原部長に、超富豪の中川が安土城を復元して誕生日プレゼントとする話が出ている。
 月刊キャッスルマガジンという雑誌を刊行するので、プレゼントの条件として、この城に住んで毎月感想を書いてくれと頼む中川に、部長はその場で快諾。
 創刊号の雑誌を見せて中川は両津に「(部長の)1回目のレポートがすごいですよ」と言い、両津も、満面の笑みを浮かべた大写しの写真のほかは、ただ、「うれしい!」と紙面一杯に何度も大書している記事をみて「まるで小学生だよな」と呆然としているシーンがある。
 しかし、その時の私は、まさに大原部長の「うれしい!うれしい!」状態だった。

 実は、この日「青銅器ゼミ」の日でもあった。抽選で当たったので、ゼミは欠席させていただいたのである。それで、ゼミの様子をお聞きする意味もあって、同級生の「なつのなか」さんにこの講演の話をした。
 なつのなかさんは有山じゅんじという歌手の大ファンである。私は、今の自分の心理状態を説明するために、なつのなかさんで言えば、「有山さんの小さな会場のライブのチケットが幸運にも手に入り、ステージを仰ぎ見るのではなく、すぐ側で、それも最前列で演奏を聴くことができ、しかも最後のアンコールで、自分がリクエストした曲を歌ってもらえ、おまけに愛蔵のレコードジャケットにサインをしてもらった」ようなものと説明したのであった。 

 

 

inserted by FC2 system