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中国美術展(12)文化講演会「内藤湖南 〜人と学問〜」聴講記

1 概要

 平成17年1月22日午後1時30分から大阪府立中之島図書館平成16年度文化講演会ということで、礪波護教授による「内藤湖南 〜人と学問〜」という講演会が開催されました。
 「枕流亭」の永一さんに教えていただき申し込んだところ、運良く当選したので、受講録を掲載させていただきます。
 録音などはしておらずメモに頼ったものなので、誤りがあったらすみません。


2 講演受講録

 
冒頭、中之島図書館の課長さんから、内藤湖南(江戸川コナンではない)と中之島図書館初代館長今井貫一とは親交があったということなどが簡単に紹介された。

 それでいよいよ礪波護教授の登場である。
 礪波先生と言うと、あの宮崎市定先生のお弟子さん。いやあ、これほど痒いところに手が届く編集をしてくれたら、師匠冥利につきるだろうなと思わざるを得ない、中国歴史学会における「理想の嫁ナンバーワン」・・・・って何失礼なこと言ってんだ、俺!と自分を叱ってるうちに、先生は、一澤帆布製のめっちゃ丈夫そうな大きなバッグと風呂敷包みを提げて、演壇(会場は、3階文芸ホール。演壇といっても、別に一段高いステージにあがられたわけでもなく、同じ平面で、ごく質素な長机)につかれた。

(先生のお話。覚えてるまま)

 2004年度は内藤湖南没後70年の年です。それで、こちら(中之島図書館)から、この講演の依頼を受けた時、即座に快諾させていただきました。

 本日の講演を聴きに来てくださっている皆さんは、きっと本のお好きな方が多かろうと思いまして、重かったのですが、いくつか本の実物をお持ちさせていただきました。
 
 昔、北御堂(HPはここ)の近くに鹿田松雲堂という古本屋がありまして、湖南は書籍はほとんど松雲堂で買っていました。
 鹿田静六編の『古典聚目 百号』というのがありまして(・・・と現物を提示)、これは実は宮崎市定先生がお持ちだったものなのですが、要は販売書籍の目録です。その百冊目の記念に6人ほど文章を寄せているのですが、その巻頭を飾っているのが湖南です。
 また、別の人がその中で湖南について触れており、「内藤先生は不精で、普段は朝寝坊なのだが、松雲堂が目録を出す日に限っては大変に早起きをする」などと書いています。(笑い)
 また、6人の内の1人が、こちらの初代館長今井貫一氏です。

 朝日文庫、これは今出ているものとは違いますが、懐徳堂再興に尽力した西村天囚(参考はここ)が『日本宋学史』という本を出しているのですが(・・・と現物を提示)、天囚の墓碑を書いたのが湖南で、この本の解題を書いたのが武内義雄(参考はここ)です。湖南と武内の交流ですが、武内の留学の渡航費を出したのは湖南だと言われています。

 私(礪波教授)は八尾市の出身でして、1958年、昭和33年に東洋史学科の学生となりました。当時新入生の歓迎会の会場が恭仁山荘(くにさんそう。湖南晩年の隠棲先)でした。
 当時読みたい本を大学の図書館で探しても貸し出し中とかで読めないことがしばしばありました。これは自分で買うしかないな、そう思ったのです。
 日本橋の松坂屋、最近閉店した松坂屋は天満橋ですが、最初は日本橋にあったのです。
 そこの地下に古書店があり、その頃、内藤家の経済状況の関係だと思うですが、湖南の著書等がけっこう売りに出されており、図書館で読めないような本が手に入ったりしました。

 湖南没後に、当然学界ではいろいろ追悼論文集などが出ましたが、湖南は能書家としても知られていたので、こうした『書芸』という書道関係の雑誌(・・・と現物を提示)でも追悼集が編まれたりしました。

 秋田県では『湖南』という雑誌(・・・と現物を提示)も出されています。これは、内藤湖南先生顕彰会という団体が出しているのですが、実は、この団体は二つあります。
 一つは、生地である秋田県鹿角(かづの)市。そして、もう一つは、没地である京都の南山城の加茂町であります。
 このうち、秋田県の方は、市がバックアップしており、記念館などもあります。

 内藤湖南は、1866年、慶応2年といいいますから江戸末期、旧南部藩領に生まれました。
 父は内藤調一といいますが、号の十湾の方がよく知られています。
 母容子は、早逝し、父は後添えをもらったため、湖南はなかなか苦労もしたようです。
 号の「湖南」は十和田湖の南という意味です。名の虎次郎ですが、次男なので「次郎」は分かりやすいのですが、「虎」はむしろ「寅」で、父は吉田松陰の通称の「寅次郎」にあやかったのでは?と考えられています。

 中央公論社から「日本の名著」シリーズで、小川環樹責任編集の『内藤湖南』という本が出ていますが、その解説に父十湾は頼山陽の心酔者とあります。きっと湖南にも『日本外史』を教えたりしたのでしょう。

 湖南は、京大で桑原隲蔵(くわばらじつぞう)、フランス文学者である桑原武夫の父ですが、彼とコンビを組んでいました。
 湖南は士族であり、狩野直喜(君山)も熊本の儒者の家でしたが、桑原隲蔵は士族ではありませんでした。

 一言で言って、湖南は天才で、桑原隲蔵は秀才だと言えるでしょう。湖南は桑原よりも先に京大に着任したのですが、帝大を出ていなかったため教授になることが出来ず、講師という身分でした。桑原の方が先に教授になってしまい、仲が悪くなってもおかしくないのですが、幸いなことに二人のチームワークはよかったのです。うまく棲み分けが出来ていたというか、学内の実務的なことは桑原、外回りの派手なことは湖南というような分担でした。

 さて、湖南は22歳の時、秋田師範学校を出て小学校に勤めていたのですが、そこを辞して上京しました。これをよく「脱走」などと表現していることが多いですし、私の資料でも「両親に無断で上京」と書いているのですが、実は、そういう形をとっていただけで、実際のところ一脈合い通じた、黙認のような形だったようです。
 湖南は秋田師範の関藤?(せきふじ)という校長の手引きで大内青巒(おおうちせいらん。仏教関係の雑誌主宰者)のもとへ行きました。

 三宅雪嶺『自分を語る』という自伝に、京大の文学部長就任を請われたが断ったと書いています。その使者に来たのが内藤湖南だというのです。「あなたが文学部長になれ。私が教授になる」と言ったそうです。
 狩野亨吉(かのうこうきち)は、一高の校長をしていたのですが、この狩野が湖南を在野から発掘したと言われることがあります。しかし、この三宅の逸話によると、どうやらそうでもない、湖南自身そういう気持ちになっていたのではないかということがわかります。

 同じように、司馬遼太郎さんが、『風塵抄』という書物の中で、大阪の在野の町人学者を湖南が発掘したと書かれていますが、実際は内藤恥叟(ないとうちそう)という人物なのです。同じ内藤なので人物事典などでも並んでいたりしますので、誤解があったのでしょうか。
 私の本日の資料にも、湖南は27歳の時、内藤恥叟から富永仲基『出定後語』三浦梅園「三語」山片蟠桃『夢の代』の偉大さを教えられると書いております。

 また、竹田篤司さんが『物語「京都学派」』という大変面白い本(・・・と現物を提示)を出しておられます。ただ、その中で武内義雄が京大で歴史哲学の教授をしていたと書いておられたのですが、これは明らかな誤りなんですね。彼は東北大であって、京大で教授をしたことはない。
 これは報告せねば、と思っていたのですが、忙しくてなかなか出来なかったところ、この本よく売れて、版を重ねまして、私以外にも気がついた人がいたのでしょうね。二版目からはちゃんと訂正されておりました。
 ですから、初版本を持っている人だけは誤りの記載があります。時々こういうことがありますので、皆さんもお気をつけください。

 さて、先ほど湖南は22歳で上京して大内青巒のもとに身を寄せたと申しました。彼は最初学者じゃなくて雑誌や新聞の記者でしたから、普通そういう頃に書いた記事というのは残っていないのが普通なんですね。
 ところが、かれは明治20年以降、書いた新聞記事などをすべて故郷の父親のもとに送っていた。また、父もそれをすべてきれいに保管していた。
 それが、湖南の全集を編む時に非常に役に立ったのですが、これをみましても、親と完全に対立して東京に出て行った、親も湖南を絶対に許さない気持ちだった、そういう別れではなかったとわかるのではないでしょうか。

 湖南は大内青巒に非常に可愛がってもらい、また、湖南も大内に恩義をかんじていたようです。後に、大内家が青巒のコレクションを売却しようとした時、こうした目録をつくるのですが(・・・と現物を提示)湖南は3人の顧問の1人として名を連ねております。

 湖南が富永仲基に着目したのは24歳の頃です。(石野注 会場配布資料には、「平田篤胤『出定笑語』(ひらたあつたね しゅつじょうしょうご)を読み、富永仲基に着目する」とある)
 湖南は、富永のいわゆる加上説(後から提唱された説ほど、より古い時代にあったことだと主張される)を中国史に適用しました。それで司馬さんのように富永を発掘したのは湖南だと思われることが多いのですが、先ほども言ったように、発掘したのは内藤恥叟なのです。

 高橋健三、この人は大阪朝日新聞社の実質的な主筆で、後に書記官長、これは今で言えば官房長官になった人物ですが、湖南は28歳の頃から彼の秘書などをやっていました。研究には高橋の蔵書や、鹿田松雲堂の書物を利用していたようです。

 32歳の頃、『台湾日報』主筆として台北に赴任するのですが1年ほどでやめています。あまり良い思い出はなかったようです。そして、東京の小石川区、今は新宿区ですが、そこに居を構え、黒岩涙香主宰の『万朝報』の記者となりました。当時の彼は非戦論者で、同僚の幸徳秋水などとも親しかったようです。
 34歳の時、自宅が火事に遭い、蔵書を消失してしまいました。その年の9月に初めて中国本土に渡るのですが、幸徳らが送別の漢詩を贈っています。
 こうした蔵書の消失と、中国への旅行などが、湖南が以後漢籍中心に書物を集めるようになったきっかけではないかと言われています。

 36歳の頃、京都大学附属図書館を訪ね、京都大学には文学部が必要だという記事を大阪朝日新聞に発表しています。

 湖南は満州語をかなり勉強していたようです。38歳の頃より、対露強硬論の論陣を盛んに張るようになりました。

 40歳の頃、湖南は外務省から満州国調査の嘱託を受け、北京では全権大使小村寿太郎の顧問となり、種々の献策をしました。
(続く)


 当日、先生がご用意された資料の年譜は2枚に分かれていた。その1枚目と2枚目は、京大に入るまでとそれ以後で分けているとのことだったので、受講録もいったん1枚目のところで分けさせていただきます。
 

 

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