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中国美術展(11)「特別陳列 館蔵 中国書画名品展」Part3

1 概要

 平成17年1月5日から2月13日の会期で、大阪市立美術館において「特別陳列 館蔵 中国書画名品展」が開催されました。
 平成17年1月15日(土)の午後2時から学芸員の方によるギャラリートークがあったので、その内容も含めてレポートいたします・・・・・の第3部。


2 明代の書画

 「みねの」学芸員からは、
「ここの展示室は明代文人画が中心です。明までは絵画の形式は巻物や冊形式が多かったが、明代以降は掛け軸形式が多くなってきます。
 明中期以降、比較的書画が一般化して、ごく少数の貴族だけでなく、富裕な商人なども書画を自宅で楽しむようになってきました。
 書画も、それまでのように巻物や冊という形で個人的に鑑賞するのではなく、家に掛け軸として飾りインテリアの一部として日常的に眺めるとともに、家族や来訪者と一緒に楽しむようになったのです」との解説があった。

(1) 春雲畳嶂図(しゅんうんじょうしょうず) 明・洪武28年(1395) 

 『選集』P44所収。

 徐賁の作。「何条もの雲霞を隔てて何層にも重なる山容」といった表現は、元末四大家の王蒙の山水画様式に基づいているそうだが、何か細々としすぎていて、私はあまり好きではない。

(2) 為密斎写山水図 明・永楽2年(1404)

 作者は王紱(おうふつ。1362〜1416)。「みっさいのためにさんすいずをうつす」と読むようだ。
 遠くに山があり、手前に疎林があり、間に水(河など)をはさむ、倪瓚が画立したとされる構図に則って描かれている。手前の小舟に乗る密斎という人物を見送るさまを描く。顧寅(こいん)という人物が詩を賦している。

 『選集』P46所収。

(3) 双鉤竹図 

  金G(きんしょく)は墨竹図を好んで描いたという。「双鉤」とあるように竹の部分は輪郭のみで表わされている。

 『選集』P43所収。


(4) 菊花文禽図 明・正徳4年(1509)

 作者の沈周(しんしゅう。1427〜1509)は「明代の文人の領袖であり、その門下からは文徴明唐寅などの多くの文人画家を輩出した」とある。
 菊花の根元で蝶を見上げている鶏の姿を描いている。菊の花の部分はあまり良いと思わないのだが、ニワトリさんは良いです。特に目とか。脚がなかなかたくましい。

※ 2月12日修正
 『選集』にも「鶏」とあるのだが、会場の説明書きでは「山雉」とあった。



 『選集』P45所収。


(5) 松菊図 明・嘉靖23年(1544)

 松の幹の部分を淡墨で刷くように描き、針葉を濃墨で細い線で描いているのだが、正直言って、松葉の部分だけが浮き上がりすぎているように感じる。
 作者は陳淳(1483〜1544)。

 『選集』P45所収。


(6) 琵琶行図 明・隆慶3年(1569)

 文嘉(1501〜83)が白楽天の長詩「琵琶行」の詩意を描く。
 遠景に連山があり、手前の島にはぽつんと樹が生え、間の川には舟が浮かぶ。これも倪瓚様式なのだろうか。

 画面中央の屋形船に白楽天が乗っていて、右の小舟が、秋夜、琵琶を弾ずるもと長安の妓女が乗っている舟なのだろうか。

 

 画像は市立美術館サイト解説ページ。『選集』P47所収。

(7) 拝孝陵詩意図 明

 徐渭(1521〜93)が明太祖の陵墓(孝陵)に詣でた自らの姿を描いたもの。山道をロバ(?)に乗って下っている。
 遠山は皴(しゅん。「しわ」のような表現)の画法を用いず、淡墨で刷くような表現をとっている。

 『選集』P48所収。

(8) 盤谷序詩画合璧 明

 『選集』や美術館HPの解説によると、唐宋八家の一人である韓愈の作に、要職につけず盤谷というところへ隠棲しようとする友人を送る時に書いた「盤谷序」という文章がある。
 本作は、董其昌(1555〜1636)がその帰るべき谷を描き、「盤谷序」を書したもの。合璧というと単に本作のように書と画を合わせたもの(類例として、例えばここ)なのかと思っていたら、一般には「満漢合璧」のように中国で出版され、かつ2種類以上の文字が使われている本を指すようだ。(参考はここ

 董其昌は、明末の文芸界の重鎮で、詩書画いずれにも優れ、絵画理論家でもあったとのこと。確かにいろいろなところで名前を目にする。「執拗な筆致を多用した山水図に本領を発揮した」そうだが、本作は隠棲先を描くものでもあり、柔らかいタッチと淡い色彩で描かれている。

 画像は市立美術館サイト解説ページ。『選集』P50所収。


(9) 梅花図 明

 作者は陳継儒(1558〜1639)で、29歳のとき隠遁し、終生世間と交わらなかったという。
 この梅の絵は、私はあまり美しいと思えない。

 『選集』P54所収。


(10) 倣関山水図 明・万暦34年(1606)

 情けないことに読み方がわからない。会場で配られた出展リストにも、『選集』にも振り仮名がついていない。展示ケースの解説には多分振り仮名がついていたと思うのだが。
 「かんどうさんすいずにならう」とでも読むのだろうか。『選集』P52では、ただ「山水図」となっているのだ。絵の左上に「倣関刈」とあるのだが、『選集』の解説では「法」となっている。
 また、「
」を手元の『新字源』でひいたら「同」の別字とあったので勝手に「かんどう」と読んだ。こちらのサイトによると、どうも五代の頃、関同という華北系の山水画家がいたようだ。

※ 2月12日修正 「かんどうのさんすいずにならう」と読むようだ。

 作者の米万鍾(1570〜1628)は、永一さん(「枕流亭」)の人物事典によると書の大家で、董其昌とともに「南米北董」と並び称されたとのことである。
 実景描写ではなく、理想的な山水を集めたものとされている。


(11) 抜嶂懸泉図(ばっしょうけんせんず?) 明

 抜きん出た高峻な山の頂に白い家が描かれているが、どうやって行くんだ、あんなとこ。
 切り立った山の中腹からはまさに懸崖の滝が流れ落ちている。
 眼下はるかに、水面を走る帆船の姿。実に奇抜な構図だが、水平線の拡がりなどは雄大だ。

 作者の張瑞図(1570〜1641)は『選集』P56に「宦官の魏忠賢に追従した」とあるので、すっかりイヤな奴かと思ったが、特に草書の世界などでは有名な人のようだ。


(12) 竹院逢僧図 明

 図中右上に書かれているのは晩唐の詩人李渉「題鶴林寺」七言絶句の二句だそうだ。作者は趙左
 竹院の僧侶を訪ねた高士が対座して閑談しているさまを描く。
 鶴林寺というのは、江蘇省鎮江の名刹とのことである。

 『選集』P49所収。


(13) 江山平遠図 明・万暦42年(1614)

 解説には「実景を写したのではなく、倪瓚の構図法によって創り上げた」とあるのだが、題記に「写於虞山之僧舎」とある。なので、まるっきり頭の中でつくったのではなくて、実景を倪瓚の構図法でアレンジしたのではないかと思うのだが、どうなのだろう。
 作者の文従簡(1574〜1648)は、文徴明の曾孫、文嘉の孫とのことである。
 淡い色彩が穏やかな風情を醸し出している。手前の紅梅(、と思うのだが)は、巻きついた黒いツルがアクセントとなって幹はくっきりと強調され、花のピンクとの対照がきれいだ。
 ただ、構図的にはどうなんだろう。真ん中の樹が一番高いので、何か平板な感じがする。構図法で創り上げたというなら、真ん中の樹を、葉が繁っている左の樹と入れ替えてもいい気がするのだが。

 『選集』P56所収。
 

(14) 松石図 明

 作者の黄道周(1585〜1646)は、明滅亡後、福王の下で重職についていたそうだ。
 本図は、黄山などに植わる名松18株を5種の葉法で描いているとのこと。それだけに何か「松カタログ」みたいで、ちょっと重みにかけるような気がする。

 『選集』P54所収。 


(15) 山水図 明

 画面手前の橋では杖を持った高士が渡っている。画面中央左下から右上に斜めの空白があり、その両脇に山が連なる。これは渓水が斜流し、「山水の景が画面斜奥に続くことを表わす」。
 画面上部の切り立った山の中腹にも、右下から左上に空白があるので、一瞬これも斜流する渓水かと思ったが、これは雲霞のようだ。
 「山や土坡は輪郭部を白く残して」いるのだが、これは董其昌の画風に通じるとのことである。
 作者は卞文瑜(べんぶんゆ)。

※ 2月12日修正
 『選集』にも会場配布資料でも「山水図」としか書いてないのだが、画の側の解説では「倣董北苑山水図」(とうほくえんのさんすいずにならう」と書いてあった。 

 『選集』P59所収。


(16) 文石図 明・崇禎9年(1636)

 作者は倪元璐(げいげんろ。1593〜1644)。崇禎期だから、ほんと明末。枕流亭さんの人物事典によると、李自成が北京に入城した時に明朝に殉じ縊死したそうだ。
 そう考えると、描かれた穴だらけの奇石(いわゆる太湖石だと思うのだが)が朽ち果てた髑髏のように見えてきた。

 画像は市立美術館サイト解説ページ。『選集』P57所収。

 

(17) 雲山平遠図 明・崇禎13年(1640)

 近くの山々は披麻皴(ひましゅん)という、麻の繊維をほぐしたような細い線で質感を出す画法をとり、画面左手の連なった遠山は、輪郭線ではなく筆点を並べる米法山水の画法が用いられている。
 作者は(会場配布資料では邵彌)。喧でGoogle しても出ないから、邵彌が正解なのかな。

 画像は市立美術館サイト解説ページ。『選集』P60所収。


(18) 雲峯水声図 明

 作者は王建章。南宗画家が多用する披麻皴の画法を用いている。
 解説には、呉派と違い、濃墨を多用し、観者に対峙するものとなっているとある。確かにこの画の山は、緑豊かな、住んでみたくなる山ではなく、黒いカビのような苔がむした石のように見える。

 『選集』P58所収。


(19) 秋林遠岫図(しゅうりんえんしゅうず) 明・崇禎4年(1631)

 遠岫とは「遠山あるいは遠くにみえる山の頂のこと」らしい。
 構図も、岩や樹木の画法も、私の好みではない。特に手前の数株の樹木のうち、一番右の樹の葉の描き方。
 作者は楊文驄(ようぶんそう?1597〜1645)。

 『選集』P59所収。



 展示室では多分、若干明と清が混ざっていたと思うが、出展リストを見ながら明代のものを先にあげた。あとは清代以降の書画となるが、ここで再度分けることとする。

 

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