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(No239) 東日本大震災被災者による防災講演会 その2


 平成24年2月11日(土・祝)、旭区民センター大ホールで東日本大震災被災者による防災講演会が開催されました。

 講師の熊本 正紀さんは宮城県石巻市で被災し、津波に巻き込まれながらも九死に一生を得られた方です。

 その熊本さんの講演の後、ビデオ上映が行われた。タイトルは、2011年5月27日に放映されたNHK「クローズアップ東北」の「老人ホーム被災〜悲劇の証言・高齢者避難支援〜」

 



 番組の紹介記事は以下のとおり。

 東日本大震災と津波により、沿岸部の老人福祉施設では、多くのお年寄りの命が失われ、宮城県では入居者の4分の1が命を落とす痛ましい事態となった。
 番組では、163人の入居者のうち47人が亡くなった、名取市閖上地区にある特別養護老人ホーム「うらやす」を取材。
 この施設は、独自の避難マニュアルを作成し、自力での避難が困難なお年寄りをいかに誘導するか、準備をしていたにもかかわらず、今回多くの命が失われることとなった。
 いったいなぜ悲劇は起きたのか。職員たちは次々に迫りくる危機に対して、いかに判断し、行動したのか。高齢者避難支援の困難と課題が浮かび上がってくる。


 

 番組は「うらやす」の災害担当の高橋ふみ子さんにスポットライトを当てていた。なお、「うらやす」って、東京ディズニーランドのある千葉県「浦安」と関係があるのかな、と思っていたが「うららか」とか「安らぎ」とか、そういった意味のようだ。

 地震発生直後、高橋さんは避難に備え、入居者、職員にロビーに集まれと指示を出した。そして、内閣制定の避難ガイドラインにあるよう情報収集をしようとしたが、通信手段は途絶。なぜか防災無線も鳴らなかったという。高橋さんは、地震に関する情報のない中で判断をしていかねばならなかった。

 紹介記事にもあるように、「うらやす」では、普段から独自の避難マニュアルを制定し、不測の事態に備えていた。近くに鉄筋3階建ての「ケアハウス」があるので(なお、「うらやす」は平屋建て。高齢者には平屋の方が日常生活がしやすいのは言うまでもない)津波が来そうな時には全員ケアハウスに移送することになっていた。

 車が7台あるので3回転すれば全員の移送が可能とそこまで想定しており、午後3時に移送がスタート。
 45人がケアハウスに移り、残る118人も移ろうとしていたその時、地元の警察官が来て、1.5km離れた閖上(ゆりあげ)中学校に避難するように指示した。

 高橋さんは苦悩した。このままケアハウスへの移送を続けるか、それとも警察官の指示に従い、全員を中学校に避難させるのか。(なお、その中学校がその地区の正式な避難所であった)

 結局、高橋さんはケアハウスに移送された人はそのままにして、これから「うらやす」を出てケアハウスに移ろうとしていた人を中学校に移送させることにした。
 
 15:54に津波が到達。その時点で36人の入居者が「うらやす」に取り残されていた。高橋さんも、無論そこにいた。(真っ先に逃げたイタリア客船の船長とは天地の隔たりがある)
 水位はどんどん上がり、職員はお年寄りが水に漬からないよう必死に持ち上げたが、水位は人の身長を超えていった。
 寝たきりになっている入居者は、ベッドのマットレスとともに浮かび上がり、職員が流されないように捕まえていたという。

 一方、中学校に向かった最後の車が到着した頃、津波が襲い掛かった。1階は一般市民でごった返しており、上に上る階段の所で多くの人が将棋倒しになった。

「車いすだと、他の人より位置が低いでしょ?」と尋ねるアナウンサーに対し、当時の付き添っていた職員は、
「車いすは、もう流されてしまっていました。多くの入居者の方が沈んで行きました。『助けてくれ』って目で訴えられるんですが、何も出来なくて・・・・・・」と言葉につまってしまう。

 「うらやす」には医療チームがいて、非常時には対応することになっていたが、「うらやす」、ケアハウス、中学校と分散してしまい、薬品や機材もなく、計画通りの治療ができなかった。

「携帯電話がつながりませんでした。誰それさん(入居者)がいないとか、職員の誰がいないとか断片的な話はあるのですが、途中で行方不明になっているのか、ケアハウスに無事避難出来たのかが分らない。『うらやす』は、見えているのですが、状況は全く分りませんでした」と職員さんが当時のことを語る。

 一方、ケアハウスでも、想定外のことが起こっていた。高齢者を階段で上層階に移そうとすれば少なくとも職員2名が必要である。しかし、その当時、73名の高齢者に対し職員は16名しかいなかった。

 午後6時頃、第2波の津波が押し寄せ、「うらやす」の周りは水没し、完全に孤立した。

「すごく寒かったんです。窓ガラスは全部壊れてしまったし。せめてカーテンだけでも閉めようか、と言ってカーテンを閉めました。建物の中で焚き火をして、暖をとりました。外は雪です。幸い、オムツがたくさんあったので、膝に掛けたり、首に巻いたりして寒さをしのぎました」と職員さんが語る。

 「うらやす」では非常時に備え薬品や防寒具、AEDまで準備していたが、1階に備蓄していたため全ての備品は水没した。「宮城県沖地震」レベルで想定した被害予測では「うらやす」は水没しないことになっていたらしい。

 「うらやす」を襲う悲劇はまだ終らない。近隣で発生した火災がだんだん近づいてきた。
「炎がとても大きく見えました。あの火が燃え移ったら・・・・・もう終わりだなと思いました」

 救助されたのは翌日の昼過ぎ。地震発生から45時間が経過していた。結局入居者が43人、職員4人。計47人の犠牲者が出た。

「こんなに多くの命が失われたことは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一生背負っていく。それが私が生き残った役割。・・・・・・・目をそらさないで生きていくことだと思います」


 最後、高橋さんは、ふりしぼるようにして、ようやく、そう言われた。
 あのまま全員をケアハウスに移送していたら犠牲者は出なかったのではないか?そう自責し続けている毎日だろう。
 中学校に避難せよと指示を出した警察官も、良かれと思ってしたことには間違いがない。後になって結果論で物を言うのは簡単だが、その瞬間に責任者として「判断」する重さは計り知れない。

 被災者の熊本さんは旭区と石巻市は立地条件が何だか似ているとおっしゃった。
 また、旭区が高齢者の比率が市内各区のうち3番目に高いのも周知の事実である。
 この二つを総合すると、旭区は区全体が「うらやす」だと言えなくもない。詳細なマニュアルを作って準備していた「うらやす」ですら想定外の事態が次々に起こって被害が拡大した。
 一刻も早く、備えねばならない。こうやって文章を書いている、この瞬間にも地震は発生するかもしれないのだから。

 

 


 お疲れさまでした。 
 
  

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