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(No238) 東日本大震災被災者による防災講演会 その1


 平成24年2月11日(土・祝)、旭区民センター大ホールで東日本大震災被災者による防災講演会が開催されました。

 講師の熊本 正紀さんは宮城県石巻市で被災し、津波に巻き込まれながらも九死に一生を得られた方です。

 熊本さんを紹介している新聞記事はここで。

 


 3月11日、その日はとても暖かい日でした。私は事務所兼工場である建物の1階にいました。
 突然、大変な地震が起こりました。地割れが起こり、立っていられなくなりました。
 私は、地震の時の「常識」に従ってスチール製の机の下に入ったのです。これが私の明暗を分けました。
(注 私はこれを聴いて「明」と最初感じたのだが、どうやら「暗」だったようだ)

 防災無線は「地震です!早く逃げてください」と言っています。しかし、上から棚やら何やらが落ちてきて私は埋まってしまい、逃げられなくなったのです。
 防災無線は「6mの津波が来ます!早く!早く!」と叫んでいます。私は必死になって、落ちてきた物をかき分けようやく脱出しました。

 国道398号線に出ると、側溝から黒い水が噴き上げてきて、膝まで波が来ました。私は転んでしまい、立ち上がった時に波にさらわれてしまったのです。この時の波は、ガレキも混じっておらず、きれいな波でした。

 津波というと、普通は逆巻くような激しい波、男波を連想します。石巻市は北上川の下流に位置します。海から来る波は激しいんですが、川を逆流する波は、広がっていく波なんです。

 こちら
(注 旭区民センター)に来る途中で淀川を見ましたが、淀川と北上川は似ています。

 私は、最初は静かに流されました。ダウンジャケットが救命胴衣の代わりになりました。すると、横から自動車が吹っ飛んで来ました。左右から車。私が流されている流れの他に、左右から別の波がやって来ているのです。私は、この車にぶつかったら、逃げられないなと感じました。

 そのうち、車は少なくなっていきました。沈んでいくんです。中には人がいるんです。手を上げて「助けてくれ〜!!」と言っている。でも私にはどうすることもできません。私は流れてきたタクシーの行灯(あんどん。タクシーの屋根についている表示物)にすがりました。

 家が1軒流されてきました。見ているとその家は電柱にぶつかって、裂けてしまいました。私は2階建ての家の屋根にすがりました。あと15mくらいで山だったのですが、見る間に多くのガレキが流れてきて山へ逃げられなくなりました。このガレキというのは、今壊れたばかりの家や車などです。がんがん、そのガレキがぶつかります。逃げられないんです。
 不思議なことに、その時は痛いと思いませんでした。助けられた後で見ると、左足は右足の2倍くらい腫れて、血だらけだったんですが。

 次に引き潮が来ました。皆さんは海水浴場などで満ち潮は大したことないけど、引いていく潮の勢いの強さを感じられたことはないでしょうか?
 私は、この引き潮でズボンもパンツも靴下も何もかも剥ぎ取られてしまいました。ベルトをしていても駄目なんです。

 私がすがったガレキの横を人も流されていきます。いまだ、1100人余りの人が行方不明です。北上川に吸い込まれ、太平洋に流されてしまったのです。

 自動車もたくさん北上川に吸い込まれていきました。みんなシートベルトをしたままです。警察の方がいたら、ごめんなさい。地震や大雨の時はシートベルトを外してください。
 あせればあせるほど、ベルトは外れない。余計食い込んでくる。それに流れてるのはヘドロです。それがベルトのロックの所に噛んで外せなくなるんです。
 ですから、大津波警報や大雨警報が出たら、いつでも脱出できるように、つまり簡単に言うとシートベルトを外してください。後で自動車で亡くなられた方が引き上げられたことがありましたが、皆さん、シートベルトをしたまま、ハンドルにつかまったり、座席に押し付けられたような格好で亡くなられているんです。
(注 大津波警報はともかく、大雨警報程度だとシートベルトを外す危険性の方が大きい場合が多いので、津波や河川の氾濫の危険が目前に迫っている時と解釈すればいいと思う)

 私は二階建ての家の屋根にすがっていたのですが、すごい勢いで水位が下がっていきました。家が斜めになって崩れそうになりました。
 私は北上川の底を見た記憶があります。石巻には牡鹿半島と金華山があるのですが、その間に800mから1kmほどの金華山水道という海峡がありますが、そこで水位が下がって海の底が見えた写真が新聞に載りました。
(注 河北新報記事参照)

 次に第二波の満ち潮が来ました。これは家も何も飲み込んでしまう渦巻く波です。私は丸太につかまりました。他のガレキが当たりますが、多すぎて避けられません。

 木造の2階建ての家が流れてきました。私は大阪に2ヶ月ほどいた時(注 熊本さんは被災後、しばらく大阪府豊中市に避難しておられた)、夜、眠れませんでした。その光景を思い出してしまうのです。
 子どもが家の中にいて、お母さんは2階の干し場にいました。すると別方向から流れてきた家とぶつかりました。それで、お母さんがつかまっていた手を離してしまった。子どもが身を乗り出して、お母さんが落ちてしまった水面を見つめている。そして、子どもが天を仰いだ姿。今でも忘れることが出来ません。メディアでは伝えられない光景です。

 流れてきた車が私のつかまった丸太の進路を妨げます。私は電柱に流れ着き、電柱のはしごにすがりました。
 津波が私の身体を上げていきます。自分で上ろうとしなくても勝手に上っていくのです。
 高さは、民家の2階の真ん中くらいでしょうか。下にはガレキがつまってきて、座れるくらいになりました。私はガレキの上に座り込みました。寒くて、寒くて。吹雪になりました。きつかった。

 高い所につかまっている人が何人かいて、「つかまってろよ!」と声を掛け合いました。でも、そのうち声が出なくなりました。時々ダダダダ!と連続した音がして、ド〜ン!ド〜ン!という音。人が落下する音です。手を離してしまって、下のガレキに頭をぶつけて命を落とすんです。

 津波に耐えても寒さに耐えられない。本当に気持ちよく、眠くなっていくんです。私も真っ青な空を2回見ました。私のおでこには2か所傷があります。
 2回、意識を失って、頭を電柱にぶつけて、はっ!と目がさめたんです。頭ですからぴゅーぴゅー血が噴き出ました。血が目に入る。「終わりだな」と思いました。この時くらい自分の死を覚悟したことはありません。

 他の人も落ちていきます。そのうち、火災が起こりました。火災で命を落とす人もいますが、私は火災で助けられました。
 車のガソリンが燃えたんです。ガソリンの匂いで分ります。メーカーは言いませんが、バッテリー容量の大きい車のバッテリーから火を噴きました。地震で家が燃えたりするのは常識でしょうが、車があんなふうに燃えるとは思いませんでした。

 私はヘドロの中に漬かりました。ヘドロは温かかった。

 私は後で考えると避難所から500mくらいの所にいたんです。すぐそばに焼死体。私は、目の前の死体をガレキだと思っていました。車の中の手を上げた形の死体は人間と分ったのですが、真っ黒の足はガレキだと思っていました。手は届かなかったので2mくらいは離れていたでしょう。

 朝方になって、自衛隊の方に助けてもらいました。避難所に向かう人が見えたから「助けてくれ」と声をかけたんです。そうしたら「そこへは行けないから自衛隊を呼んでくる。そこを動くな」と言われて。待ってたら本当に呼んできてくれた。
 助けてもらって、避難所に行こうとして下半身丸裸だということに気づきました。恥ずかしくて行けませんよね。仕方ないから「ごめんなさい」と謝って、近くの民家の窓ガラスが割れていたから、そこから手を突っ込んでカーテンをもぎ取って、腰に巻きつけて避難所に行きました。

 避難所に行って、まず何をしたかと言うと、水を飲みたかったですね。ヘドロを飲んでいるから体調が悪かったんです。

 後で、自分の家に戻りましたが、生活用品は1階に置いていて、全部ダメになっていました。
 家から避難所に戻る途中もたくさんの死体が横たわっているんです。顔の左右で片方が腫れ上がって見る影もない遺体。ブロック塀の下敷きになっている人。子どもを抱いた半裸の女性。きっと引き波にもぎ取られたんだなと思いました。満足な遺体は何一つありません。焼死体は真っ黒焦げ。こんなのはメディアは伝えません。

 自衛隊や消防、警察の方々は本当に立派でした。竹竿の先に赤い布を結びつけたものを立てて、ここに遺体があるぞと示すんです。そして、必ず遺体に最敬礼してくださってからブルーシートで包みます。

 石巻には「乾き組」と「濡れ組」という言葉が出来ました。地震の後、津波の前に素早く避難所に逃げこんだ人は「乾き組」です。家族を2階まで上げようと時間をくったりした人間は「濡れ組」になります。

 ともかく、まず逃げることです。では、どこに、どうやって逃げたらいいのか。ここ旭区と石巻は何だか似ています。もし、堤防を越える津波が来たら、まあ、地震から30分か40分で来るとしたら、3階以上の鉄筋コンクリートの建物を歩いて10分以内の所で見つけておいてください。

 普段なら10分でも、地震で気持ちが動転したり、ブロック塀が崩れていたりしたら倍はかかります。上に上る時間もいります。それでギリギリです。避難所まであと5mの所で津波に流された車いすを押された親子連れの例もあります。

 いつでも上れる非常階段のあるビルを探しておくことです。
 生きていると楽しみも苦しみもあります。でも死んだら何もありません。生きたければ歩いて10分以内の所に3階以上の建物を見つけておくことです。最初の10分が生死を分けます。

 それと、防災グッズも皆、役に立ちますが一番大事なのは普段使っている薬です。
 人間、2日くらい食べなくても死にはしませんが、常備薬が2日ないとダメージが大きいです。
 では、防災グッズをどこに置いておいたらいいか。家でもよく使う出入り口って、まあ2か所くらいですね。そのうち、一番多く使う出入り口の右でも左でもいいですが、壁に最低5日、理想を言えば10日分の常備薬を置いておいてください。

 災害の時、薬は手に入りません。みんな、体調が悪くなります。私も血圧が上が190で下が120くらいになりました。
 日赤医療団の方に助けてもらいましたが、5日は薬のない状態です。また、日赤医療団に来てもらってもカルテも何もありません。自分に合うかどうかは無関係。「血圧?じゃあ、これ!」この薬しかないと渡されます。ですから、薬の飲めるミネラルウォーターと常備薬です。

 それと2階の押入れに下着やタオルケットなどを置いておきましょう。時間がたてば支援物資も来ます。でも、それまで「寒いでしょ?私のシャツを着なさい」なんて言ってくれる人はいません。

 「真冬の真夜中」に津波が来ると想定して準備をしましょう。

 大事なのはライフラインです。電気、ガス、水道はすぐには復旧しません。電気が切れたら冷蔵庫ももちろんですが、ファンヒーターも動きません。(注 これは私も阪神大震災の時、痛感した。「石油」ファンヒーターって、停電したら使えないんだというのは、それまで意識したことがなかった)
 皆さんの家には昔ながらの石油ストーブはありませんか?もし捨てようとしてる人がいたら、捨てずにきれいに掃除して、もうしばらく置いておかれたらどうでしょう。あれは、石油さえあれば、身体も温まるし、お湯も沸かせる、料理もできる素晴らしいものです。ご参考にしてください。
 

 

 


 お疲れさまでした。 
 
  

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